堅田の歴史・よもやま話

2015年5月25日 (月)

琵琶湖畔の秘境、有漏神社と阿曽津千軒。堅田との意外な関係と登山道について

琵琶湖の北端に、有漏神社(うろう じんじゃ)という神社があります。その由緒になんと・・・堅田の地名があって驚きました!
中世のころ、堅田の漁業権が湖北まで及んでいたという史実を裏付けるものでした。

往昔湖上舟楫(ふねかじ)の神として鎮座され、遠く江南堅田方面の漁民のこの地に出漁することも多くその舟楫守護の神として崇敬したと伝える。-有漏神社(滋賀県神社庁)

↑赤い印が有漏神社。堅田は琵琶湖の最狭部(一番くびれている場所、オレンジ色で道路表示あり)の西側に位置します。

当ブログでもご紹介してきましたが、中世の堅田は琵琶湖の漁業権を持ち、琵琶湖最大の自治都市を築きました。
前回ご紹介した葵祭前儀「献撰供御人行列」も、そんな堅田の歴史を後世に伝えるために続けられている祭事です。
供御人行列と葵祭の撮影後に出かけた湖北で、有漏神社のことを知ったのは大きな驚きでした。


こちらは有漏神社の鳥居前から、琵琶湖と近隣の集落(木之本町山梨子(やまなし))を撮影した一枚です。
有漏神社は琵琶湖に面した神社で、周囲に車道はなく、簡単に行ける場所ではありません。
由緒に古来祭儀に際しては、氏人ら舟に依って参拝した。とある通り、地元(山梨子)の方は船で参拝するそうです。
陸路(山道)はあるのですが、賤ヶ岳登山道から旧道をおりるか、山本山に続く登山道から林道を延々と行くしかありません。
先日地元のボランティアガイドの方に公式にご案内いただいたので、今回は有漏神社のご紹介をしたいと思います。


有漏神社(所在地:長浜市木之本町山梨子1)への登山道について。
賤ヶ岳登山道から山本山方面に歩いていくと、鞍部に「赤尾」集落へ下りる道標があります。
この反対側の道が有漏神社へと続く旧道です。地形図だと点線になっていますが、普通に歩けました。
旧道を下って琵琶湖畔に出ると、写真の「新坂と米蔵」の案内板があります。この左手を行くとすぐに有漏神社があります。


有漏神社本堂。
写真の狛犬は、大津の方による寄進だと伺いました(堅田の方かどうかは、はっきりしませんでした)。


↑有漏神社本堂の上に、また別の林道があります。この林道を右へ進むと・・・↓先ほどの旧道と同じ場所に出ます。


竹生島と琵琶湖が見えるこの場所から、湖岸へ降りていく道があります。左奥の浜辺が阿曽津千軒です。


阿曽津千軒は琵琶湖に沈んだと伝わる集落のひとつ。今は石垣が残っているだけです。
阿曽津(長浜市高月町西野)には、阿曽津婆と呼ばれる伝承があり、ここにも堅田が登場します!

阿曽津婆は金貸しの老婆で、激しい取立てに村人の恨みを買い、竹のすのこに巻かれて湖に投げ込まれます。
そこへ堅田の漁師に助けられ、「あなたにこのあたりの竹をあげよう」と言って息を引き取ります。
その直後、大津波が阿曽津の村を襲い、村人は近隣の、七つの「野」のつく村に移り住みました。

その当時、琵琶湖の漁業権・造船・湖上関の権利を独占していたのが、堅田の漁師でした。
堅田の漁師は阿曽津の竹を守り神として使い、竹を持つ手は冬でも凍らなかったと言われています。
(奥びわ湖観光ボランティアガイド協会さまからいただいた資料より)


阿曽津千軒にて。石垣の左奥に小さな地蔵堂がありました。
地蔵堂の右奥に林道が続いているので、林の中へと進みます。


林道は「古保利古墳群」を経て、西野集落への分岐点に出ます。
麓に下りると西野水道に出ました。賤ヶ岳から高月駅まで歩いたので二万歩以上になりましたが、印象に残る一日でした。


同じ日に賤ヶ岳頂上近くで見た、幻想的な琵琶湖の風景です。
滋賀にはこういった場所がまだまだあるので、皆さまにご紹介できるよう、できる限り撮影に伺いたいと思っています。


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2015年1月22日 (木)

琵琶湖のほとりの写真ブログ(Katata/堅田)、更新しました⇒大津の古墳マップ(和邇・小野・堅田を中心に)

前回の続きとして書いた原稿が消えてしまったので(冷や汗;)今日ようやく書き直しました。
ええと前回は、琵琶湖の西側にある、曼陀羅山古墳群の埋葬品についてご紹介しました。

現在は大津市北部地域と言われている地域ですが、もともとは滋賀郡と呼ばれていた所です。
大津に編入されたのは堅田町が1967年(昭和42)4月、志賀町は2006年(平成18)3月ですね。

さて、この小野から堅田にかけては、一大古墳群が続いています。
10年近く堅田とその周辺を撮影すれば、古墳に出会うのは自然なことでした。

一人で小野を歩いたり、父に応援を頼んで春日山古墳への(裏)道を探したり、
北部地域ではありませんが歴史博物館の学芸員さんとご一緒させていただいたこともありました。

この機会に撮影メモをまとめて、大津の古墳マップを作ってみました。
地図の黄色い箇所が和邇・小野周辺、緑色が堅田周辺の古墳です。
※リンク先の古墳名をクリックすると、場所と写真が表示されます。



今回は、堅田周辺で見ることのできる古墳をご紹介しますね。
堅田駅の裏側(山の手)に見えている「春日山」には、「春日山古墳群」があります。
今回調べなおしたら、なんと国の史跡でした・・・!!

春日山古墳群の円墳
春日山古墳群は、比叡山麓から派生した堅田丘陵の東端に位置します。
200基以上の古墳から構成され、湖西(琵琶湖の西側)でも有数の大規模古墳群です。

写真は春日山公園の「古墳ゾーン」にある円墳で、簡単にそばまで行くことができます。
(ただし前方後円墳は、本堅田6丁目の高台にある妙正寺の横から山に入る必要があります。)

春日山古墳群は、初期大和政権の有力者だった「和邇氏」の墓だったとも言われています。
和邇(わに)は地名として残っています。真野もそうですね(真野氏に由来)。
この地域に有力者がいたということなのでしょう。

古墳の石室
春日山公園の展望台に登る山道の途中には、古墳の石室があります。
この石室は、湖東流紋岩という、琵琶湖の東岸でみられる石で造られています。

堅田丘陵は琵琶湖の西岸に位置し、大きな石を含んだ地層はありません。
古墳の石室を作るために、琵琶湖を渡って石が運ばれたと考えられています。

1500年前、当地に200基を越える古墳群を築くのに、約8000トンもの石が運ばれました(推定)。

鞍掛神社拝殿で舞う巫女さん-1
なお、このブログではまだご紹介していなかったのですが、
堅田のお隣の衣川には、「衣川廃寺跡」という、やはり国指定史跡があります。
ちょうど湖西線の線路そばなので、電車を撮影したい方は穴場かもしれません。

この衣川廃寺跡の周囲が、衣川台という高台の住宅街です。
以前ご紹介した、大友皇子最期伝承地の「鞍掛神社」(写真)は、衣川台の北側にあります。

この鞍掛神社と衣川廃寺の間にあるのが、「西羅古墳群」です。
また、衣川台の南側には、「坂尻古墳群」があります。
これらの古墳については、また後日ご紹介できればと思っています。


なお、大津全域の古墳をまとめた本を探して見ましたが、
手に入りやすいのは、大津市歴史博物館にある下記のリーフレットでしょうか。

実際手に取ってみると子供さん向けなのかな、という印象でしたが、
コンパクトにまとまっていて、古墳めぐりをしてみたい方の参考になる本だと思います。

ただし古墳の地図が概略図しか載っていないので、詳細な地図を期待していた方は
少しがっかりされるかもしれないとも思います。ご参考までに。

「地中からの贈りもの-遺跡が語る大津-」
※平成23年発行 A5 128頁(オールカラー) 800円(郵送の場合は+送料300円)
※大津市歴史博物館ミュージアムショップで販売中(現金書留でも可)


2014年7月31日 (木)

伊豆神社の掘割~古絵図で見る堅田(3)


暑中お見舞い申し上げます。少しは涼しい気分になるかなと、秋の写真を選んでみました。
秋の夕暮れ時の浮御堂と琵琶湖です。

浮御堂は近江八景のひとつ「堅田の落雁」として知られる景勝地です。
江戸時代の古絵図にも絵入りでしっかり載っています。
前々回、前回に引き続き、延宝5年(1677年)の本堅田村絵図をもとに堅田を歩いてみました。


浮御堂のそばにあるのが、古くから堅田大宮と呼ばれてきた伊豆神社です。
室町時代には、伊豆神社に堅田の宮座(自治組織)が置かれました。
伊豆神社には堅田の歴史を後世に伝える資料が数多く残されています。
延宝5年(1677年)の本堅田村絵図もそのひとつです。


伊豆神社をぐるっと囲む掘割の位置は、江戸時代の絵図とほとんど変わっていません。
↑こちらは伊豆神社正面の左側(本福寺方向)の写真です。
↓下の写真は伊豆神社正面の右側(浮御堂北湖岸方向)です。

この写真の方向へ歩いて右折すると浮御堂、左折すると掘割が続いています。


こちらも伊豆神社の掘割です。常夜灯の奥に掘割が続いています。


他方、江戸時代とだいぶ変わっているのが、浮御堂周辺の湖岸です。
伊豆神社は舟入に向かって建てられていますが、その舟入跡が児童公園になっています。
この児童公園を湖岸へ降りると、「おとせの浜」(桜の隠れた名所)があります。

おとせの浜の対岸に寿寧寺という寺がありますが、その周辺は「西の切(きり)」と呼ばれました。
ちなみに、浮御堂周辺が「東の切」です。
「大道町」「中村町」といった江戸時代の地名とあわせて、下の地図にまとめておきました。
(概略図ですので、地域区分の誤差はご容赦下さい。)
(地図上で項目名または赤い矢印をクリックすると解説が出ます。)


本堅田は、近世初めから元禄11年(1698年)まで幕府領でした。
元禄11年~文政9年に、堀田家が治める堅田藩領となります。
今回参考にした絵図は延宝5年(1677年)作成のため、まだ堅田陣屋はありません。
そのため、まとめ地図にはかっこ書きで紹介しています。

この古絵図には、祥瑞寺、本福寺、光徳寺、妙盛寺、神田神社、寿寧寺も載っています。
少なくとも江戸時代からあるというのは、すごいことです!
地図のほうで写真とともにご紹介しておきました。町歩きにご活用下さい!


2014年7月29日 (火)

琵琶湖と内湖(ないこ)に囲まれた水の町、堅田(堅田四方と宮の切、水辺の地蔵堂)~古絵図で見る堅田(2)

前回より、江戸時代(延宝5年)に作られた本堅田村絵図をもとに、
琵琶湖の畔にある堅田の町をご紹介しています。

堅田といえば、室町時代には、町を挙げて蓮如上人を匿って延暦寺(室町幕府)と戦ったり、
20-30代の一休さんが修行して浜辺で悟りを開いたり、
江戸時代には芭蕉さんが足しげく通ったりと、何かとエピソードの多い町です。

※堅田の話は堅田の歴史・よもやま話にまとめています。
なんだか気になる・・・と思った方は、リンク先のバックナンバーをどうぞ。

私自身、2006年から堅田を撮影してきた中で、沢山の歴史に触れてきました。
地元の皆さまからお話を伺う機会をいただき、お便りもいただいて、本当に感謝しています。

堅田の歴史の話はまとまったものが殆どなくて、埋もれさせてしまうのはもったいないと思い、
以前のように通えないこともあって、今のうちに何とかまとめておこうと書いています。

御礼が大変遅くなりましたが、
当サイトを堅田自治連合会様のホームページでリンクしていただき、
本当にありがとうございました!



さて、中世の堅田は、「堅田四方」と呼ばれる四つの地区に分かれていました。
そのひとつが「宮の切」で、本堅田2丁目の堅田港の近くに地蔵堂と碑文があります。

「宮の切」の地蔵堂の西側には、堅田本町商店街と住宅街が続いています。
商店街に入る前に渡る小さな橋は、堅田内湖に繋がる水路(写真)の上に架かっています。
この橋と水路は、延宝5年(1677年)の本堅田村絵図にも見ることができます。
商店街を貫く一本道も、江戸時代から変わっていないことが分かります。

↓まとめ地図を作ってみました。紫色で塗った地区が、「宮の切」です。
(地図上で項目名または赤い矢印をクリックすると解説が出ます。)



ちなみに、「堅田四方」とは、以下の4つです。
・宮の切・・・伊豆神社(堅田大宮)の北側(現在の滋賀県大津市本堅田2丁目)。
・東の切・・・浮御堂周辺(本堅田1丁目)。
・西の切・・・寿寧寺周辺(本堅田1丁目)。
・今堅田・・・伊豆神田神社周辺(今堅田1丁目)。

『新修大津市史』によれば、江戸時代の本堅田には、「宮の切」「東の切」「西の切」のほかに、
「釣漁師」「外輪町」「野々宮町」「中村町」「大道町」の地名が見られます。
(先程の地図におおよその範囲を示しておきましたので、ご参照下さい。)



堅田本町商店街を歩いていくと、途中にまた別の地蔵堂があります。
5月の供御人行列のとき、この地蔵堂の前を通るので、その写真と一緒に掲載しておきました。
延宝5年の古絵図で見ると、この一帯は水路に囲まれた島のようになっています。
島の一方の端が「宮の切」の地蔵堂で、もう一方の端が奇しくもこちらの地蔵堂です。


先ほどの「宮の切」の地蔵堂まで引き返すと、古絵図に見られるもう一つの橋があります。
場所は先年廃業した港湯さんのそばで(煙突が見えていますね)、祥瑞寺のすぐ近くです。
この橋を横から見たのがこちら↓です。


堅田内湖から引かれた水は、この先で琵琶湖に通じています。
この水路の場所も江戸時代から変わっていません。


こちらが水路の最終地点です。左奥が堅田港、右奥の建物が水上警察(堅田水上派出所)です。
琵琶湖に漁に出る漁師さんの船が停泊しています。


もう一度、先程の橋の写真を掲載します。
この橋の向こう側には、明治時代になって町役場が建てられました。
ところが、役場が橋の右側にあったのか、左側にあったのか、専門家の方も分からないそうです。

地元の方で、おじい様やおばあ様から当時の話を聞いている方がいらっしゃいましたら、
管理人(兼松)まで情報をお寄せいただければ幸いです。
歴史博物館の学芸員さんに必ずおつなぎします。

※明治の堅田町役場の写真は、こちら(大津市歴史博物館ホームページ)でご覧いただけます。

(「堅田湖族まつりのお知らせ」をはさんで、次回へつづく)


2014年7月24日 (木)

堅田内湖と地蔵と老ヶ川橋~古絵図で見る堅田(1)


暑い日が続きますね。皆さま、お変わりありませんか。
何か涼しげな写真を・・・と思い、水辺の写真を選んでみました。
今回は久しぶりに、琵琶湖の畔の町・堅田(かたた)からお届けします。
1枚目の写真は、「堅田内湖」(かたた ないこ)から引かれた水路が、町を巡る風景です。
内湖(ないこ)は滋賀県独特の言葉で、琵琶湖と水路で繋がった水域を指します。
有名なのは近江八幡市の西の湖(にしのこ)で、高島市の乙女ヶ池なども内湖です。


堅田を歩くと本当に多いのが、地蔵堂(お地蔵さん)です。
どうして地蔵が多いのか、どうしてその場所に置かれたのか、実はよく分かっていません。
堅田の地蔵は水辺の守り神として、内湖のそばに置かれたと考える研究者の方もいます。

昨年の秋、歴史博物館のイベントで、江戸時代の本堅田村絵図(複製)を見る機会がありました。
1677年(延宝5年)に作られたという古絵図で、その当時の堅田は江戸幕府の天領でした。
その古絵図を見ると、現在よりもずっと堅田内湖が広がっていたことが分かります。


本堅田(ほんかたた)の居初(いそめ)邸。居初氏庭園は国の名勝になっています。
中世以降、堅田の指導者的立場だった殿原衆(とのばらしゅう)の筆頭が、居初氏です。
伊豆神社に置かれた惣村の運営に携わり、堅田の自治や琵琶湖の水運に影響力を持ちました。
御当主のお話では、居初家は当初、伊豆神社のそば(浮御堂の近く)にあったそうです。
中世の堅田は、大津・近江八幡と共に、琵琶湖の水運の一大拠点でした。

今回から、居初邸周辺で古絵図に描かれている場所を、数回に分けてご紹介する予定です。
1677年(延宝5年)といえば、1698年(元禄11年)に堅田藩になる少し前の時代です。
その古絵図に描かれていた意外な場所が、本堅田2丁目の「老ヶ川橋」でした。
「老ヶ川橋」の場所については、下の地図をご覧下さい。


堅田駅から堅田内湖へ直進し、内湖大橋を渡って右へ進むと、福聚院というお寺があります。
福聚院と堅田漁港が出会う角にあるのが「老ヶ川橋」です。


老ヶ川橋。延宝5年の古絵図に「おいっ川」とあるのが、この場所です。
古絵図を見ると、橋の前は琵琶湖、後ろは内湖で、橋の両側に一軒ずつ民家があるだけです。
古絵図の中の本堅田は、水路が張り巡らされ、まるで水の上に浮かんでいるようです。


老ヶ川橋のそばには、「小番城自治会」の広報板があります。
「小番城」は「こばんぎ」と読み、室町時代の城跡(小番城城遺跡)があった地区です。
現在は城跡は残っていないようですね。

☆参照資料⇒大津市の小番城城遺跡が掲載されている資料を知りたい。
(国立国会図書館 レファレンス協同データベース)


かつて老ヶ川橋から堅田駅のほうへ戻ると・・・内湖大橋の向こうに、観覧車が見えていました。
2013年9月より解体されて、その後ベトナムへ行った大観覧車「イーゴス108」です。
写真をよくご覧頂くと、ゴンドラ(乗りカゴ)の部分が取り外された状態なのが分かります。
古絵図をヒントに本堅田を歩いたのが2013年9月で、この頃よく話題になっていた観覧車でした。
2006年から撮影で堅田を歩き回った筆者にとっては、とても懐かしい風景です。
この角を左へ曲がって内湖大橋を渡ると、後はまっすぐ、堅田駅へ続いています。

(次回へつづく)


2014年6月16日 (月)

「大津百町」の中の堅田~かつて大津旧市街に上堅田町・下堅田町と呼ばれた町がありました

堅田や近江(滋賀)をきちんと撮影したいと思い、
昨年の秋から、歴史博物館に通って勉強しています。

一旦調べだすと面白くて、脱線ばかりしていますが^^
思いがけない形で堅田に出会いました。

今回取り上げるのは、勉強していく中で知った
「大津の旧市街(大津百町)に堅田町と呼ばれた町があった」
という歴史のお話です。

「大津の中に堅田がある」と書くと、
「大津市北部に堅田という町がある」という意味に
理解するのが通常です。
(社会生活上はこちらの理解で十二分です^^)

ところが、今回ご紹介する堅田町は、
天正年間(1573-92・ほぼ安土桃山時代)に
堅田の船頭を大津に移住させたことで生まれたという、
歴史上の町なのです。

場所は、現在の大津市中央3丁目・大津市島ノ関。
ちょうど中央小学校周辺から島ノ関駅の辺りに、
上堅田町(かみかたたまち)・下堅田町(しもかたたまち)という
2つの町がありました。

古文書を見ると、上堅田町と下堅田町は
「堅田町」と総称されて登場していることがあります。


お手数ですが、地図の「+」マークをクリックして拡大の上、堅田町エリアをご覧下さい。

現在の大津市の地域は、
「大津町(いわゆる大津百町)」
「旧志賀町」「堅田」
「膳所」「瀬田」「石山」

というブロックに分けて考えたほうが、
理解しやすいかもしれません。

歴史的・地域的に独自のものがあって、
合併を繰り返して「大津市」になっているからです。


いわゆる堅田(通常の意味の堅田)は、
1090年に京都の下鴨神社の御厨(みくりや)となり、
以後は琵琶湖の水運や漁業権に関する特権を得て、
室町時代に琵琶湖最大の自治都市を築きました。

この話は、堅田から下鴨神社に鮒を奉納する供御人行列の中で、
何度もご紹介しています。

では、その後の歴史はどうなっていったのか。
調べていく中で出会ったのが、歴史上の堅田町でした。

1586年(天正14年)、豊臣秀吉は坂本城(明智光秀の居城)を廃城とし、
現在の大津港(浜大津)の辺りに大津城を築城します。

その際に、「大津百艘船」と呼ばれる船株仲間制度を作り、
坂本や堅田などの船持に湖上水運の特権を与えました。

堅田の船頭を大津の湖岸(いわゆる堅田町)に移住させ、
坂本城下の人々をやはり大津の湖岸(いわゆる坂本町)に
移住させています。

ちなみに大津の「堅田町」「坂本町」「船頭町」は、
船頭が多く居住する町として、古文書にも登場しています。


その後、関ヶ原の合戦で大津城は廃城となり、城は膳所に移りました。
大津城の天主は、写真の彦根城に移されたといわれています。

江戸時代になると、大津は江戸幕府の直轄(天領)となります。
大津城の跡には御蔵(幕府の蔵)と大津代官所が置かれました。

そして、「大津百町」(おおつひゃくちょう)と呼ばれる百個の町から成る
商業都市へと大津は移り変わっていきます。

この「大津百町(おおつひゃくちょう)」のうちの二つが、上堅田町と下堅田町です。

江戸時代の大津は、東海道の宿場町、三井寺の門前町、
そして琵琶湖の港町として賑わったと伝えられています。

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2013年12月27日 (金)

比良の暮雪10(琵琶湖畔のまち、堅田。浮御堂(海門山満月寺)と堅田の名所・歴史・風景を掲載)~近江山河抄の舞台を歩く(58)


琵琶湖に浮かぶようにして建つのが、近江八景「堅田の落雁」と歌われてきた浮御堂。
平安時代の僧侶・恵心僧都(源信)が、湖上交通の安全と衆生済度を願って995年頃に建立。
堂内には「千体仏」と呼ばれる1000体の阿弥陀仏が安置されている。
正式名は海門山満月寺(臨済宗大徳寺派)で、現在の建物は昭和12年の再建。
堅田駅前から町内循環バスに乗ると、数分で浮御堂前に到着する。

前回ご紹介した、比叡山の奥宮・葛川明王院へは、堅田駅前から路線バスが出ている。
その日は葛川を撮影した後、昼前に堅田へ戻ってきたので、琵琶湖畔まで足を伸ばしてみた。
当記事が比叡山、雄琴、仰木、葛川周辺と一緒に堅田を回る方のご参考になれば幸いです。
※今回掲載しているのは、撮影当時(2013年11月末)の写真です。

堅田は琵琶湖の最狭部に位置する町で、今堅田には琵琶湖大橋が架かる。
古来より交通の要所で、西は途中越を越えて京都の大原、北は小野氏のふるさと小野がある。
琵琶湖の畔を「西近江路」が通り、北はさらに高島、若狭へ、南は大津へ通じている。
比叡山とさほど離れておらず、JRだと比叡山坂本駅から二駅で堅田に着く。


浮御堂の開祖・恵心僧都は、比叡山→安楽律院→聖衆来迎寺(下阪本)へと下りてきた。
そして、水辺に聖衆来迎寺と浮御堂を建立している。

同じ琵琶湖畔の寺で、一方には十界図、堅田には千体仏があるのが、とても印象的だった。

十界図は恵心僧都が『往生要集』で著した地獄を絵にしたもので、聖衆来迎寺に残っている。
(正確に言うと現在は東京・京都の博物館等で保管されており、8月に数点里帰りする。)
他方、湖上の浮御堂の中に千体仏を置くというのは、極楽を表現することに他ならない。
もちろん聖衆来迎寺にも仏像は残されているから、単純に比較できないが、私にはそう感じられた。
堅田の光や水辺はきらきら輝き、訪ねる度に朗らかな気持ちになる。
ただし、湖上で風に吹かれながらの参拝なので、寒い時期は暖かくしてお出かけ下さい。


堅田は路地の町で、常に琵琶湖とともにある。
そして、内湖と呼ばれる琵琶湖のラグーン(潟湖)が町を取り囲むように広がっている。
水運で栄えたなごりで 杢兵衛造船所など造船所がいくつかあり、堅田漁港と堅田港がある。
また今堅田には、珍しい木造の灯台・出島灯台(でけじまとうだい)がある。


中世の堅田は水運・造船・漁業が盛んで、大阪の堺のような自治都市として栄えた。
湖上関を設けて通行税を取り、琵琶湖最大の自治都市を築いたといわれている。
浮御堂界隈の本堅田の町並みには、今でも暮らしの中に町屋が残っている。
写真の湖族の郷資料館では、秋から春先にかけて琵琶湖のシジミを販売している。


中世の堅田を支えたのが、蓮如に対する厚い信仰だった。
写真の本福寺は、京都を追われた蓮如が数年滞在した場所である。

当時の室町幕府は、花の御所造営の船に通行税をかけた堅田に、立腹していたといわれる。
室町幕府は比叡山延暦寺に命じて堅田を攻撃させ、1468年、堅田は焼き討ちに遭った。
町のほぼ全域が焼失し、住民は沖島に逃れた。これを堅田大責(かたたおおぜめ)と言う。
沖島に逃れた人達は、2年後、延暦寺に多額の礼金を上納して再び堅田へ帰ってきた。
祭りの神輿を持って逃れたという逸話のあるくらい、経済的・精神的に豊かな人達だった。
堅田の郷士・居初氏の庭園は、茶室・天然図画亭と共に国指定名勝に指定されている。


伊豆神社の掘割。江戸時代の古絵図と変わっていない。
江戸時代、本堅田には堅田藩がおかれ、堀田家が当地を治めた。

写真の道は琵琶湖(浮御堂北湖岸)に続いており、そばには堅田藩陣屋跡の案内板がある。
場所は、浮御堂の前を左折して、郵便局の前を過ぎてすぐ右の湖岸。
ちなみにこの1、2年のうちに堅田藩陣屋跡に飲食店が2軒できた。
どうやらイタリアンと韓国料理の店らしい(※駐車場あり)。

堅田には、近代の洋風建築も残っている。
日本基督教団堅田教会は建築家ヴォーリズ(William Merrell Vories)の1930年の作品である。


堅田を歩くと、本当にお地蔵さんが多い。写真は腰切り地蔵と呼ばれる北向地蔵。
地蔵の腰をさすると腰痛に効くといわれており、光徳寺と祥瑞寺の間の道路そばにある。
光徳寺は、殉教者・堅田源兵衛の首が祀られていることで知られている。


堅田は松尾芭蕉とゆかりの深いところで、芭蕉は40代以降、足しげく大津を訪ねている。
「朝茶飲む 僧静かなり 菊の花」は、祥瑞寺を訪ねた元禄3年(1690)秋の作。

隣の本福寺の住職・千那も弟子の一人で、芭蕉を最初に大津に呼んだ一人と言われる。
同じく弟子として有名な宝井其角は、父親が堅田出身で、其角も一時期堅田に滞在した。
本福寺の隣の路地には、宝井其角寓居跡の案内板がある。

堅田には、このほかにも芭蕉の句碑がいくつかある。
本福寺、浮御堂境内、堅田港そばの十六夜公園、堅田漁港。
詳細はバックナンバーをどうぞ⇒大津における芭蕉の発句、89句すべてを掲載しています


祥瑞寺は、室町時代に若き日の一休さんが修行した寺でもある。
室町時代、21歳の一休さんは瀬田川に入水して助けられ、堅田で修行して再起した。
最初の師匠が亡くなったことが原因だと言われているが、実際のところは誰にも分からない。
22歳(1415年)から34歳まで堅田で修行し、琵琶湖の浜で悟りを開いた。
そして祥瑞寺の華叟宗曇(かそう そうどん)和尚から、一休の道号を授かったと伝わっている。

▼祥瑞寺と一休さん ~Honkatata/本堅田 222-223
http://katata.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/honkatata-222-2.html

このブログでは、そんな話を、写真とともに、2007年12月27日から掲載してきた。
東日本大震災を経て、故郷滋賀の風景をきちんと撮っておきたいという気持ちが強くなった。
偶然に白洲正子さんの『近江山河抄』に出会って、この本の世界を表現してみたいと思った。
そういったことが重なって、現在、滋賀各地を回っている。

堅田は、「堅田内湖」と呼ばれる琵琶湖のラグーン(潟湖)の町である。
町の西側、堅田丘陵には春日山古墳春日山公園があり、美しい里山が続いている。
堅田は比叡山に近いと書いたが、奥比叡ドライブウェイの入り口(仰木)は堅田から入る。
仰木は、今森光彦さんの写真集「里山」の主な舞台になった所だ。
そういった風景も、またお届けしていきたいと思っている。

皆さま、良いお年をお迎えください。




2013年10月13日 (日)

堅田の古い写真について(後編)&本の表紙画像のブログ掲載について考える

今回は、大津市歴史博物館HPに掲載されている堅田の古写真をご紹介します。

※以下のページから、堅田に関する写真を抜粋してご紹介しています。
http://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/shashin/index.html

※タイトルをクリックすると大津市歴史博物館HPへジャンプします。

堅田町役場(明治時代)
堅田町役場(昭和20年代)
堅田町役場全景(昭和30年代)
堅田本通商店街(昭和30年代)

琵琶湖大橋料金所(昭和39年)/撮影地区 堅田(一枚目)
琵琶湖大橋料金所(昭和39年)/撮影地区  堅田(二枚目)
琵琶湖大橋(昭和40年)/撮影地区  真野(一枚目)
琵琶湖大橋(昭和40年)/撮影地区  真野(二枚目)

奥比叡ドライブウェイから琵琶湖を望む(昭和43年頃)
※昭和39年開通の琵琶湖大橋も見えています。

第一回大津市瀬田町堅田町合併協議会(昭和40年代)
江若鉄道の廃線(昭和44年)/撮影地区  堅田駅
江若鉄道旧堅田駅舎(昭和57年・本堅田バス停時代)

番外編
堅田と比良山麓の村々

昭和44年(1969)頃の堅田を撮影した写真集
琵琶湖・堅田の原風景―大西艸人写真集

出版社: 東方出版 (2000/01)
ISBN-10: 4885916496
ISBN-13: 978-4885916496

大西先輩の最新作
干潟の詩―大西艸人写真集

出版社: 東方出版 (2007/10)
ISBN-10: 4862490808
ISBN-13: 978-4862490803


・一般的に、写真集の表紙を掲載することは、著作権に抵触するとされていること
・デジタル画像はコピーされてしまうので、他人の作品を私の判断でブログに掲載することはできないという判断の元で、
今回はアマゾンのリンクを利用しています。


これは結構難しいというか、根の深い問題で、落としどころがこのあたりになるとしか言いようがありません。
私はもともと法律畑の人間で、クリエイターの気持ちも、著作権の理屈も、どちらも分かります。
作品(写真)を無断転載された経験もあり、先輩の写真集を紹介するにあたっても、色々考えました。

なお、ブログに出しているのは営業だから(盗られても仕方ない)と言う人もいますが、
モラルと現実論(コピー技術があって、いろんな訪問者がいる)の話であって、
実際はブログだけで作品が売れたことはないです、念のため。

むしろブログは、見えないものをどう扱うか(気持ちや世界観や価値観など)を伝える役目を果たしていると言った方がいい。
だから、このブログや東日本大震災の支援サイトも、自分の実験のひとつとしてやっています。
結局のところ、最後は実際にお会いしたり、口コミだったりします。

ネットと画像に関して今は過渡期なので、これからもっといい技術や知恵がでてくるかもしれません。
本当はもっと柔軟に、どんな人も簡単に掲載できる方法があるといいのですが・・・
クリエイターの表現の自由や経済的利益を守りながら(著作権)、誰もが煩わされることなく作品を楽しめるのが理想です。

堅田の古写真の話から、話がだいぶ飛びました。
デジタル画像をめぐる問題については、いつも葛藤している分野なので、この機会に自分の思いを書いてみました。

なお、表紙画像のブログ掲載については、著作権を専門にされている行政書士の方のブログに解説があります。

▼amazonが提供している画像について
http://ameblo.jp/tyosaku/entry-10360253204.html

▼本の表紙画像のブログ掲載は違法?
http://ameblo.jp/tyosaku/entry-10361993354.html

▼書籍レビューで表紙画像を掲載するのは引用にあたるか
http://ameblo.jp/tyosaku/entry-10620789485.html


2013年2月 4日 (月)

堅田内湖が「かや」と呼ばれていた理由について(文章)&雪の比良山系、堅田内湖に映る影(写真) ~Honkatata/本堅田 338(2) #shiga #japan #photo

雪の比良山系、堅田内湖に映る影

2012年の6月に、堅田出身のWさんから頂いたお便りをご紹介しました。
Wさんは子供の頃、堅田内湖の事を「かや」と呼んでいたそうです。

▼春の堅田内湖の写真と、Wさんのお便りはこちら。
琵琶湖のラグーン(潟湖)、堅田内湖。水に浮かんでいるような町のお話、続編。

先日、堅田の町おこし団体・湖族の郷(こぞくのさと)の皆さんにお会いしたので、
是非この機会にと、お話を聞いてきました。

30代の方はさすがに「かや」は聞いたことがないということでしたが、
その親から祖父の世代の方は、皆さん「かや」をご存知でした。

「かや」は愛称みたいなもの。当時は堅田内湖と呼んでいなかっただけで、
おそらく、琵琶湖のヨシ(葦)が語源なのではないかというお話でした。

ヨシ→茅葺(かやぶき)屋根の「かや」を連想したのではないかというのですが、
「かや」の正確な漢字は分かりませんでした。

当時、堅田内湖は琵琶湖の一部みたいなもので、ヨシがたくさん生えていたから
「かや」と呼んだのではないだろうか、というのが話の結論でした。


そのためなのか、堅田内湖は不動産登記の地目でいうと
「雑種地」(いずれにも該当しない土地)に当たるといったお話も出ました。

▼地目についてはこちらに解説があります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E7%9B%AE

また、ある方のお話によれば、堅田内湖から堅田漁港沿いの家は
漁師さんの家ばかりだったそうです。

Wさんや皆さんのご参考になれば幸いです。

湖族の郷資料館の館長さんのお話は伺うことができなかったので、
今度また、館長さんに伺ってみますね。


写真:堅田内湖に架かる橋の上から写した、堅田らしい冬の風景。
内湖の中に見えているのは、淡水真珠の養殖用の柵です。

(写真右から)内湖の畔の木、田畑、今は使われていない遊園地の観覧車、
ヤマダ電機の赤い看板、ゴルフ練習場のバックネット、マンションに民家。
背後には、雪の比良山系が見えています。

堅田(滋賀県大津市)の写真 本堅田 堅田内湖19 「雪の比良山系、堅田内湖に映る影」
■撮影地:堅田内湖(内湖大橋の上より撮影。滋賀県大津市本堅田4丁目)

Photograph of Honkatata,Otsu,Shiga,Japan  Honkatata Katata  Inner Lake 19
2010.01.09 15:20"Mt.Hira and Katata InnerLake in January"


2013年1月31日 (木)

琵琶湖の畔の写真ブログ「Katata/堅田」|堅田湖の話/About Lake Katata #shiga #japan #photo

夕方4時の琵琶湖

先週土曜日(1月26日)、夕方4時の琵琶湖です。
烏丸半島(草津市)より、大津市の中心部方面を撮影しています。


今回、琵琶湖博物館で目にしたのが、「古代湖の世界」という1997年の展示解説書でした。
その中にあったのが、古琵琶湖である堅田湖の話です。

堅田湖ってご存知でしたか?・・・私は知りませんでした。
メモを兼ねて、堅田湖の話を書いておきます。

約100万~40万年前に、現在の堅田丘陵あたりに堅田湖という小さな湖があって、
堅田湖が北に広がって深くなったのが、現在の琵琶湖だということです。

つまり、琵琶湖のご先祖様は、堅田湖という名前の湖でした!!(感激)

琵琶湖のおいたちは、400万年前、現在の三重県上野盆地周辺に誕生した「大山田湖」に遡ります。
(これは子どものころにどこかで聞いたような気がします。)

その後、湖は北上しながら発生と消滅を繰り返します。
大山田湖から堅田湖までの7代を、古琵琶湖と呼んでいます。


まとめ:現在の琵琶湖は8代目で、堅田湖が北に広がって深くなった。


▼琵琶湖博物館のホームページに解説がありました。
【琵琶湖博物館】展示のご案内(A展示室:琵琶湖のおいたち)

「A2-1-1 北上する湖」
堅田湖(約100万~40万年前)の絵があります。

「A2-1-5 琵琶湖で進化した生き物たち」
堅田湖の解説があります。


▼About Lake Katata

Lake Biwa (琵琶湖 Biwa-ko, literally "Biwa Lake") is the largest freshwater lake in Japan,
located in Shiga Prefecture (west-central Honshu), northeast of the former capital city of Kyoto.

Lake Biwa is of tectonic origin and is one of the world's twenty oldest lakes,
dating to almost 4 million years ago.(http://en.wikipedia.org/wiki/Lake_Biwa)

About one million years ago,Lake Katata was formed as a small and shallow lake,
around the southern basin of the present Lake Biwa.About 400 thousands years ago,
the lake expanded to the north and became deeper,succeeded by the present Lake Biwa.
(Reference:Lake Biwa Museum:1997:"The World of Ancient Lakes "50p)


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