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2014年12月

2014年12月28日 (日)

ブログ7周年!



当ブログ「Katata/堅田」は12月27日に開設7周年を迎えました!
管理画面で確認すると、今回で記事数は1384、掲載写真は3490枚・・・(いつの間に・・・)

実感として、1000を超えると、今は何回目・何枚目なのか考えなくなってきます。
1000以降は変わらず同じで、山を一つ越えた後にさらに続いていくような感覚です。
静かな高揚感というか、ランナーズハイみたいな状態に近いのかもしれません。

ブログ開設当初は毎日更新していたのですが、今は週1-2のペースになっています。
以前のような短めの文章と写真一枚のスタイルのほうが、更新しやすいかもしれませんね。

そういえば、東日本大震災の後に始めた別サイトでは、投稿した記事が1228になっていました。
書くことがはっきり決まっていたほうが記事数は増えやすいようです。

さて、今回は久しぶりに琵琶湖畔の町・今堅田の写真です。
出島灯台(でけじま とうだい)と、児童公園のブランコ。今年の4月1日撮影です。

最近はなかなか堅田に伺うことができなかったので、近いうちに撮影に行きたいと思っています。
来年は穏やかな年になるといいですね。皆さま、良いお年をお迎えください。


2014年12月26日 (金)

A white world -雪の風景とフクロウ-

少し前(先月末まで)紅葉を撮っていた、と思っていたら、
あっという間に雪の季節ですね!

なんとなく気ぜわしい年の瀬ですが、
昨日、北欧からメリークリスマスのメールを受け取りました。

その中で教えてもらったのが、
雪の風景とフクロウの美しさを捕らえた、このサイト。

オランダの写真家、Bert van Elten(バート·ファン·エルテン)さんの
「A white world」(ある白い世界)です。

年末年始のほっとタイムやリフレッシュにどうぞ。
A white world

※上記サイトはflash使用のため、PC推奨します。
※音楽を止めたい方は右端で動いている「play music」マークをクリック→■(stop)をクリックして下さい


2014年12月24日 (水)

写真HP更新しました『Jun Kanematsu Photo Works』

HP『Jun Kanematsu Photo Works』を更新しました。

今回はトップページ(Home)とお知らせ(News)に、最近の作品へのリンクを追加しました。
堅田の祭事「献撰供御人行列」についても、トップページから該当ページへ飛べるようになりました。
レイアウトも多少変更しています。

今後は「近江山河抄の舞台を歩く」(掲載写真1000枚以上)の収録を考えています。

junphotoworks.com


2014年12月18日 (木)

伊吹の荒ぶる神12(渡岸寺観音堂(向源寺)、石道寺、菅山寺、そして湖北の仏様たち)~近江山河抄の舞台を歩く(76)


滋賀県長浜市高月町渡岸寺(どうがんじ)には、向源寺(こうげんじ)という寺がある。
場所はJR高月駅から歩いて10分位のところで、境内には渡岸寺観音堂がある。
ここでは、日本に七体あるという国宝十一面観音像の一体を、予約なしに見ることができる。
収蔵庫の慈雲閣ができたのは1974年なので、白洲正子さんの訪問はその前後だったのだろう。

寺伝によれば、736年(天平8)、泰澄が十一面観音を彫り、向源寺の前身となる光眼寺を建立。
1570年(元亀元年)、湖北(滋賀県北部)を治める浅井氏が織田氏と戦った際、寺は焼失した。
だが、地元の人々は十一面観音を土中に埋めて守り抜き、後に住職は向源寺を建立した。

Kwannondo Temple Eleven-Head Kwannon (278)
渡岸寺観音堂の十一面観音像。出典/ライセンス:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

近江に十一面観音が多いことは、鈴鹿を歩いた時にも気がついたが、特に伊吹山から湖北にかけては、名作がたくさん残っている。中でも渡岸寺の十一面観音は、貞観時代のひときわ優れた檀像で、それについては多くの方々が書いていられる。

こういう観音に共通しているのは、村の人々によって丁重に祀られていることで、彼らの努力によって、最近渡岸寺には収蔵庫も出来た。が、私がはじめて行った時は、ささやかなお堂の中に安置されており、索漠とした湖北の風景の中で、思いもかけず美しい観音に接した時は、本当に仏にまみえるという心地がした。 -白洲正子『近江山河抄』「伊吹の荒ぶる神」

そもそも湖北(滋賀北部)に仏像が多いのは、京都の鬼門にあたることが大きく関係している。
鬼門とは北東の方位のことで、日本の陰陽道では鬼が出入りする方角として忌み嫌う。
そのため、古来から都を置くときには、鬼門封じ(魔よけ)の意味で寺を建てることがあった。
江戸城には寛永寺、平安京(京都)には比叡山延暦寺(滋賀県大津市)、といった具合である。

では、鬼門の鬼門に寺を建てたら、どうだろう?
鬼門封じがさらに磐石なものになると考えるのが自然ではないだろうか。

それでは、比叡山延暦寺の鬼門(北東)はどこだろうか?
―そう、湖北(滋賀県北部)だ。

私はこの話を、初めて渡岸寺観音堂に行った10年前に、案内していただいた地元の方から伺った。
そして今回この文章を書いた際に、当連載で何度かご紹介している話を思い出していた。
平城京(奈良)の鬼門には東大寺、さらにその鬼門に金勝寺(滋賀県栗東市)があるという事・・・。

確かに近江には、京都や奈良のような、きらびやかで華々しいものは残っていないかもしれない。
だが、鬼門の鬼門にあたる場所に寺を作り、仏像を守り続けると言うのは、まさに裏方の鏡である。
『近江山河抄』で読んだ言葉―「近江は日本の楽屋裏」―が、脳裏に蘇る。


石道寺(しゃくどうじ)は、滋賀県長浜市木之本町石道の高台にある真言宗の寺だ。
本尊の十一面観音像は、井上靖の小説「星と祭」に登場する十一面観音として知られる。
実際に目にした時、口元にまるで紅をつけたかのような朱が印象的で、愛らしい観音様だった。
石道寺の山伝いには紅葉で有名な「鶏足寺」(けいそくじ)があり、秋は多くの人で賑わう。
この二つの寺は、山中の歩道を歩いて5-10分程度のところにあり、とても近い。

先日も湖北の石道寺(しゃくどうじ)という寺で、美しい十一面さんにお目にかかった。伊吹連峰のつづきの己高山の麓、石道の集落から少し登った谷間にある。無住の寺なので、あらかじめお願いしておくと、農家のおばさんが案内してくれた。
・・・
お寺は桜並木の参道を登ったところに、ひそやかに建っていた。昔はもっと奥の谷にあったのを、洪水で寺が流され、麓に降ろしたと話してくれる。
-白洲正子『近江山河抄』「伊吹の荒ぶる神」


10年前に初めてこの地を訪ねたとき、地元の方から興味深い話を伺った。
近くの己高山にあった名刹・鶏足寺が昭和の初めに焼失し、事実上の廃寺となったという。
そこで、鶏足寺の名が絶える事を惜しんだ飯福寺住職が、改宗までして飯福寺を鶏足寺に改めた。
しかし住職の死後は廃寺となり、寺は「鶏足寺(旧飯福寺)」と呼ばれるようになったというのだ。
つまり、現在「鶏足寺」と呼ばれている紅葉の名所は、旧飯福寺のことなのである。

石道寺、鶏足寺はともに、山岳信仰の霊地「己高山」(こだかみやま)の山中にあった名刹である。
中世にかけて天台系山岳仏教の聖地として栄えるが、後に真言宗の寺院に転じた歴史も同じだ。
そして己高山にあった寺院は、明治以降に廃絶するか、山麓に下りる道を辿った。

鶏足寺の本尊・十一面観音像は、同じ古橋地区の己高閣(ここうかく)で見ることができる。
鶏足寺と周辺寺院の仏像が、己高閣・世代閣(よしろかく)と呼ばれる収蔵庫で収蔵・公開されているのだ。
己高閣は1963年、世代閣は1989年に、地元の方によって与志漏(よしろ)神社境内に建てられた。
己高閣・世代閣は、鶏足寺から山中を抜け、田圃の中の道を歩いて20分位のところにある。


高月、木之本に引き続き、余呉の菅山寺(滋賀県長浜市余呉町坂口)をご紹介したい。
数年前に菅山寺に行った時、坂口の皆さんの献身が印象に残り、いつか書きたいと思っていた。
湖北の仏様は一度に紹介しきれないほどあるが、締めくくりに菅山寺をご紹介したい。

菅原道真は余呉湖の近くの川並村に生まれ、6歳から11歳までこの寺で学んだという伝承がある。
もとは龍頭大箕寺と称し、奈良時代に孝謙天皇の勅命を受けた照檀上人が開山したという寺だ。
平安時代に道真が宇多天皇の勅使として入山し、3院49坊を建て、大箕山菅山寺と改名したという。

明治以降は無住となったが、地元の坂口地区の方々がずっと寺を守ってきた。
大箕(だいき)山麓の里坊・弘善館で、菅山寺の十一面観音を見ることが出来る(※要事前予約)。

▼菅山寺十一面観音(弘善館)の写真と解説
菅山寺弘善館/滋賀[仏像ワンダーランド]
菅山寺 十一面観音立像(弘善館)[長浜・米原・奥びわ湖を楽しむ観光情報サイト]


ちなみに大箕山の山道を1時間ほど登ると、菅山寺の山門が見えてくる。
山門の左右には、道真公御手植えと伝わるケヤキがある。樹齢千余年といわれる巨木だ。
今回の菅山寺の写真は2010年2月に、地元の方の案内でスノーシューを履いて訪ねたときのもの。
冒頭の向源寺は2009年11月、石道寺は2014年11月に撮影させていただいた。

湖北の十一面観音は、その殆どが泰澄大師の作で、後に寺が廃れたのを、伝教大師が再興したと伝える。勿論、伝説にすぎまい。が、伝説にはよみ方というものがあって、その信仰ははじめ越前の白山で樹立され、比叡山関係の寺が発展させたと解するなら、そう見当はずれとは思えない。
・・・
伝記からも知れるように、泰澄はシャーマン的な人物で、もっぱら呪術によって人を救済したらしい。彼は近江の三上氏の出と伝えられ、伝統的にそういう霊力を備えていた。十一面観音とは、要するに、白山の神が化身したものに他ならず、そういう手つづきを経なければ、外来の仏教を骨肉化することは出来なかった。
・・・
民衆の間には、太古から山の神の信仰が根づよく残っていた。仏教を拡めるには、彼らと手を結ぶ必要があり、その要求に応えたのが泰澄であった。
-白洲正子『近江山河抄』「伊吹の荒ぶる神」

姉川の戦い(織田・徳川vs浅井・朝倉)、小谷城の戦い(織田vs浅井)、賤ヶ岳の戦い(秀吉vs柴田勝家)・・・湖北は戦国時代に戦乱の舞台となり、仏像を土や川の中に埋めて守った話が多い。
向源寺近くの「高月観音の里歴史民族資料館」では現在、そういった仏像を特別に展示している。
湖北の仏像が一堂に会する機会はなかなかないので、ご関心のある方はぜひどうぞ。
(2014年12月28日まで、特別企画「戦火をくぐり抜けたホトケたち」開催中)

※「戦火をくぐり抜けたホトケたち」のご案内(写真が見事です)→高月観音の里歴史民俗資料館

当連載(『近江山河抄の舞台を歩く』)の目次はこちら


2014年12月15日 (月)

伊吹の荒ぶる神11(北国脇往還4:小谷郡上から雨森を経て北国街道木之本へ)~近江山河抄の舞台を歩く(75)


朝の光の中、ソバ畑の向こうに、街道沿いの集落(小谷美濃山)が見えていた。
北国脇往還を3回に分けて歩く最終日は、長浜市の小谷郡上から木之本までの約11km。
河毛駅から小谷郡上に出て、道なりに進み、小谷美濃山から小谷丁野(おだにようの)へ入る。


小谷丁野町に立てられていた北国脇往還の石碑。
碑文によれば、石碑前の道は昔、山田川が流れ、小谷山との間に南北に街道が走っていた。
江戸時代初期頃、山田川は現在のように西進し、街道がここに移されたと推測されている。
そして北国海道という名の街道は、明治初め頃から北国脇往還と呼ばれるようになったという。


小谷丁野にて、集落をまっすぐ走る北国脇往還。
地元の方が話しかけてこられたので、しばらく立ち話をした。
北国脇往還のことはよくご存知で、外から来る人間のこともよく見ておられると実感する。


山田川を渡って、高月町馬上(まけ)の集落に入る。
御覧の通り、暮らしの中に水路がある美しいところだ。


馬上集落と北国脇往還。


馬上の水路脇にある「北国きのもと道 すきのかねゐはら道」の道標。
反対側には「右 東京 せきかはら道」(注:せきかはら=関ケ原)と刻まれている。


馬上集落の北で、高月川を渡る。
高月川の河川敷をしばらく歩くと、導かれるように雨森の集落へと入っていく。


北国脇往還の道標。「ひだり きのもと」、反対側に「みぎ せきがはら」と刻まれている。
少し寄り道になるが、近くの雨森芳洲庵と天川命神社を訪ねてみた。


高月町雨森(あめのもり)。江戸時代の儒学者・雨森芳洲のふるさととして知られる。
美しい町並みは、平成17年に 国土交通大臣表彰「手づくり郷土賞」の大賞を受賞している。
※ちなみに、当ブログのふるさと・堅田も平成6年に受賞しています(堅田の宮ノ切)


「東アジア交流ハウス雨森芳洲庵」(芳洲生家跡)。
雨森に生まれた芳洲は、18歳頃に江戸の木下順庵の門弟となる。(同門には新井白石がいた。)
20代で対馬藩の宗氏に仕え、後に朝鮮方佐役という外交の実務職に就く。
36歳から3年間、釜山に滞在して朝鮮語を習得。中国語も学び、三ヶ国語に通じていた。
朝鮮通信使に二度随行している。


天川命神社(あまかわのみこと じんじゃ)のイチョウ。推定樹齢300年以上の巨木だ。
ちょうど11時20分頃だったので、神社の境内で早めの昼食にした。
ちなみに、この後、天川命神社から木之本宿まで、撮影しながら歩いて1時間くらいだった。


浅井氏の重臣・井口弾正の菩提寺とされる「己高山 理覚院」(高月町井口)。
井口氏は古くは京極家に仕え、のちに浅井氏に仕えた土豪だったという。
境内には滋賀県指定名勝「理覚院庭園」の案内板がある。
※観音堂の拝観には予約が必要。(詳細⇒理覚院/滋賀|仏像ワンダーランド


日吉神社(高月町井口(いのくち))。
北国脇往還沿いではいろんな神社に出合ったが、とりわけ印象に残る神社だった。
北国脇往還は、集落の真ん中を、南北または東西に走っていることが多い。
それゆえ、地元の氏神さますべてに挨拶して歩くようなものだった。


地元の方が立てた石柱(高月町持寺(もちでら))。
曲がり角に目印として立てられており、おかげで長浜市内は道が非常に分かりやすかった。


一面の黄金色が続く田んぼ(木之本町田部(たべ))。

ある時私は、関ケ原から遡って、藤川の集落を訪ねたことがある。
・・・
藤川から伊吹の山麓を通って、木之本へぬける裏道があり、北国街道の「脇往還」と呼ばれる。
田圃の中に稲架(はさ)がつづくひなびた風景は、近江の懐深く入りこんだという感じがする。
その途中、伊吹の村で、円空作の十一面観音を見た。
・・・
近江に十一面観音が多いことは、鈴鹿を歩いた時にも気がついたが、特に伊吹山から湖北にかけては、名作がたくさん残っている。 -白洲正子『近江山河抄』「伊吹の荒ぶる神」

滋賀県北部(湖北)は京都の鬼門にあたるため、多くの仏像が作られ、地元の方に守られてきた。
特に高月町は観音の里として知られ、渡岸寺 (どうがんじ)観音堂には国宝の十一面観音がある。
このシリーズの締めくくりとして、石道寺とともに、次回ご紹介したい。




北国脇往還の起点・木之本宿(木之本町木之本)へと入る。
「みぎ 京いせミち ひだり 江戸なごや道」と刻まれた道標がゴールだ。


本陣跡にある薬局の前では、薬に関する古い看板を見ることができる。


北国街道・木之本宿の落ち着いた町並み。老舗の醤油屋、酒屋などが立ち並ぶ。
ちなみに、この界隈では現在、黒田官兵衛博覧会が行われている(2014年12月28日まで)。
木ノ本駅の北側に位置する木之本町黒田が、黒田氏発祥の地と言われている場所なのだ。

この日はまだ暑かったので、木之本地蔵院に寄って、木ノ本駅まで歩いて帰った。
それにしても地名は「木之本」、駅名だけ「木ノ本」が使われている理由は、表記の関係なのかな・・・?
(撮影日:2014年9月23日)

次回予定:伊吹の荒ぶる神12(渡岸寺、石道寺、そして湖北の仏様たち)

▼官兵衛博覧会のお得な周遊券情報と、今回掲載できなかった写真を掲載しています。
伊吹山麓の道、北国脇往還を歩く~花と水辺の風景4(長浜市/高月町馬上の水辺⇒雨森のイチョウ⇒木之本)

▼【北国脇往還】全行程を地図でご紹介しています。行程メモ付き。


2014年12月11日 (木)

伊吹の荒ぶる神10(北国脇往還3:長浜市八島から、伊部宿を経て、小谷郡上まで)~近江山河抄の舞台を歩く(74)


北国脇往還は、岐阜の関ケ原から滋賀の木之本へ抜ける脇街道で、伊吹山南麓を通る。
中山道・北国街道間の近道で、秀吉の大返しや江戸時代の参勤交代に使われた歴史ある道だ。

この北国脇往還を3回に分けて歩いたのは、今年9月のことだった。
9月も中旬を過ぎると気温30度を切るが、この日は風の強い日だった事を覚えている。

2日目は昼食後、長浜市の野村西交差点付近から国道365号を歩き、草野川橋を渡った。
内保東を過ぎたあたりで、道中初めてコンビニに出合う。
しばらく行くと、八島南の交差点手前の道端に、脇往還の案内道標があった。
少し行くと特大の案内板があり、畑の中の小道を歩いて八島の集落に入っていった。
写真1枚目は長浜市八島町にて、秋葉神社の参道(写真左側の道)と北国脇往還(右側の道)。


八島は道標が多く残る土地だ。最初にご紹介するのが、八島の道標(その一)。
北国脇往還と田根みちとの分岐点に建っていたもので、近代になって寄進されたと伝わる。
「東 関ケ原  約五里」「西 木之本みち」「南 内保  約五丁」「北 田根みち 八島」と刻む。
案内板によれば、田根とは近代に高畑や小室など十四集落を総称した田根村を指すらしい。


八島の水車。
集落の中に水路と緑地帯があり、柿の木のそばに美しい水車があった。


八島の道標(その二)。
玄龍寺の角にあるこの道標は江戸時代のものとみられ、八島では最も古いとされる。
「左 江戸道」「右 越前道」と刻まれ、越前をさすのはこの道標だけという貴重なものだ。


八島の道標(その二・その三)。なんと玄龍寺の角とその向かいに、1つずつ道標がある。
玄龍寺側(写真右)の道標が、先ほどご紹介した江戸時代のものとみられる道標だ。
他方、その向かい側(写真左)の道標は、明治17年の北陸本線開通後に寄進されたもの。
「左 関ケ原ミち」「西 虎姫驛 一里」「南 内保  約四丁 木之本 約二里」「北 八島」と刻む。


八島の道標(その四)。八島集落の北側にあり、「左 江戸道」とだけ刻まれている。
案内板には「かつては江戸に通じる主要道路であったことがうかがえる」と紹介されていた。


亀塚古墳(こがね塚)。6世紀頃に作られた円墳で、八島集落のはずれにある。
大友皇子の重臣で、壬申の乱の際に当地(浅井田根)で斬られた右大臣・中臣連金の墓と伝わる。
高さ約5m、周囲約102m。この亀塚古墳の前を北国脇往還が通っている。
ここにも地元の方が設置した脇往還の案内道標が立てられていた。

しばらく田圃の中の道を進むと、脇往還の案内道標と実宰院の看板があった。
当地近くにあった小谷城が落城後、浅井三姉妹と母のお市が避難した寺(実宰院)が近いのだ。
浅井長政の姉・阿久姫が出家して住んでいたことから、実宰院(じっさいいん)に匿われたという。


次いで尊勝寺の集落に入る。民家の向こうに伊吹山の雄大な姿が見えていた。
地元の方が設置した道標を目印に進むと、民家の庭の前を通り、工場の横に出る。


畑と工場の間を、北国脇往還が通っている。


失われた北国脇往還・・・(写真の案内板をご覧下さい)。
山ノ前集落では、1978年から翌年にかけて、北国脇往還の二箇所が水田となった。


山ノ前町にて(失われた北国脇往還その一)。
車道の向こうに続く道が、かつての北国脇往還。途中で水田に変わっている。
迂回路(車道)を歩きながら、かつての脇往還の跡をたどってみた。


山ノ前町にて(失われた北国脇往還その二)。
この先は道がないが、かつて北国脇往還が通っていたと思われる箇所だ。
2014年現在の姿として、せめて記録に残しておきたいと思った。


伊部集落の入り口で、北国脇往還(地蔵堂の奥から左にかけての道)に合流する。
地蔵堂の向こうには、伊吹山が見事な姿を見せていた。
道の反対側には、近年に立てられた案内道標があった。橋を渡ると伊部宿に入る。
江戸時代も、きっとここから伊吹の姿が見えたはずだ。不思議な雰囲気がある場所だった。


伊部宿本陣跡。建物(非公開)と特大の案内板がある。
伊部は北国脇往還のほぼ中間に位置し、「上小谷伊部宿」とも呼ばれたところだ。
小谷宿は、上り(木之本方面)が伊部、下り(関ヶ原方面)が郡上の二宿一駅の形態がとられていた。
伊部本陣は代々、肥田家が勤務を命じられ、当家には三千点にわたる古文書が残されたという。
1803年(享和三)の海道帳には、地図を作るために日本を旅した伊能忠敬の宿泊記録もあるとか。

そして下りの郡上とは、伊部の隣にある小谷郡上のことで、浅井長政の城下町があった場所である。
1573年(天正元年)の小谷城の戦いで小谷城は落城し、織田信長に敗れた長政は切腹する。
1573年といえば、長政の娘・浅井三姉妹(茶々・初・江)の三女、江姫が生まれたとされる年だ。

北国脇往還は、伊部のはずれで小谷城址(登山道)に続く道と分かれ、小谷郡上へと続く。
郡上南で国道365号を横断すると、右手に伊吹山、正面に「史蹟小谷城址」の看板がよく見えた。
小谷城戦国歴史資料館(駐車場入り口)を横目に、小谷郡上の集落へと入っていく。


城下町大谷市場跡(小谷郡上)にて。
小谷城の時代、脇往還に沿ってここには城下町があった。この辺りがその中心だったらしい。
そして、若狭(福井県)から届けられる、新鮮な海産物を扱う市場があった。
小谷落城後、秀吉が城下町を長浜に移したのに伴い、大谷市場も長浜へ移されたという。


小谷郡上の一角で、高札場の石碑を見つけた。


伊吹山の麓でよく見かける、三角屋根の日本家屋を見た。


小谷郡上の集落の上に、伊吹山がわずかに頭を見せていた。
伊吹は場所や季節に応じて表情を変え、どっしりとした姿で、見飽きることがない。
この日は郡上から再び国道365号に戻って、国道を横断し河毛駅まで歩いて帰った。
(撮影日:2014年9月18日)

次回予定:伊吹の荒ぶる神11(北国脇往還4:長浜市小谷郡上~木之本)
最終回は、小谷郡上から水辺の町・馬毛、高時川、雨森を経て、終点の木之本へ。

▼今回掲載できなかった写真を別記事で掲載しています。
伊吹山麓の道、北国脇往還を歩く~花と水辺の風景3(長浜市/野村の水路と八島の水車⇒伊部宿⇒小谷郡上のお地蔵さん)

▼【北国脇往還】全行程を地図でご紹介しています。行程メモ付き。


2014年12月 9日 (火)

伊吹の荒ぶる神9(北国脇往還2:米原市春照から小田分水、姉川越え、峠を歩いて長浜市野村町まで)~近江山河抄の舞台を歩く(73)


滋賀県米原市春照(すいじょう)は、伊吹山麓、北国脇往還と長浜道の分岐点に位置する。
脇往還の近くには伊吹の薬草風呂に入れる施設があり、街道沿いの町並みも美しい。
今回は近江長岡駅から伊吹山登山口行きバスに乗り、伊吹庁舎前で下りて歩くことにした。

春照は北国脇往還の宿駅だが、往時をしのばせるものはほとんど残っていない。
集落中心部にある空地が本陣跡だというが、ここが本陣跡だという案内板はなかった。
だが、宿の南側には常夜燈、北側(八幡神社の前)には立派な道標が残っている。

また、1883年(明治16)から1889年(明治22)まで、春照には官設鉄道の駅が置かれていた。
東海道線が米原駅を経由するようになり、春照駅は廃駅となった。

だが、鉄道路線から外れた、あるいは鉄道が通らなかったことで、雰囲気のある町並みが残った
と言われる地域は多い。春照をはじめとする北国脇往還の町は、どこもそう言えるだろう。
日本が好きな外国の人を連れてきたら、日本的な美しさだと感じてもらえる風景が残っている。

富士山麓ウォークが注目されているように、「伊吹山麓ウォーク」(当サイト命名)があってもいい。
行政や観光協会が本気になって整備すれば、結構いけるコースだと、個人的には感じている。

※今回は春照~河毛駅(長浜市湖北町山脇)の約20kmのうち、午前中に歩いた町を掲載します。



春照八幡神社の前にある道標。「左 ながはま道、右 北国きのもと えちぜん道」とある。
右の道をとり、次の集落(小田/やないだ)まで、伊吹山を眺めながらのどかな道が続いた。

小田に入ると地元の方に声をかけられた。北国脇往還を歩く人に時折会うという話を聞いた。
小田からは伊吹山が大きく見えることや、八幡神社の水路脇に道標があると教えていただく。


小田の八幡神社の角にある小さな道標。「右 江戸道 左 山中道」と刻まれている。
上の写真にも少し写っているが、小田は集落の至る所にを立派な水路が流れている。
姉川上流に出雲井(いずもゆ)と呼ばれる場所があり、小田まで水路が伸びているのだ。
そして、出雲井から来た水は、この先の「小田分水」で3つに分かれる。


小田分水(やないだ ぶんすい)。出雲井から来た水を3つに分ける農業水利施設である。
小田分水は中世に大原庄16ヶ村が創設されたときから存在し、昭和28年に現在の形になった。
それ以前は2つに分水されていたが、水の公平な分配をめぐって論争が絶えなかったようだ。


小田から(やないだ)から見た伊吹山は、雄大で見事だ。


北国脇往還は、小田分水の手前で田圃の中の一本道となる。道は姉川へ続いていた。


伊吹山と姉川。御覧の通り、かつての小田橋は橋脚だけが残っている。
迂回して井之口橋で渡るしかなく、写真の左方向へとしばらくの間、河川敷を歩くことになる。
井之口橋が近づいてくると、また分水が見えてきた。


井之口分水。案内板によれば、出雲井、小田分水を経由した水が、ここで更に分水される。
円形の中央部より水が噴き出す構造で、これは上流の小田分水との水差によるものだという。
水の公平な分配をめぐって、ここでも先人の知恵が活かされている。


井之口橋で姉川を渡る。橋の向こう側に獣よけの柵があったが、低いのでまたいで越えた。
ここを通る人は殆どいないのだろう。写真を斜めに横切る白い坂の上でも電気柵があった。
坂の上は広域農道になっていて、山中の道を、車に注意しながら進むことになる。


滋賀県米原市から長浜市に入る。
本来の北国脇往還は右側の山中だが、一人旅のため、車道(広域農道)を通ることにした。
写真奥に見える峠の、その先をさらに歩いていった。気の遠くなるような時間だった。
とはいえ、迂回路でもいろんな風景と出合うから、歩き旅は面白い。


「興農愛郷」の碑。設置当時、滋賀県知事だった武村正義氏の書が刻まれている。
隣にある碑文は緑に埋もれていて、「広域営農団地農道整備事業」の部分がなんとか読めた。
どうやら、この広域農道を作った際の記念碑らしい。

相撲庭(すまいにわ)地区で峠を越え、今荘町の観光ブドウ園で北国脇往還に合流する。
ようやく里に下りてきたことを実感する。厳しい峠越えは、道中これが最後だった。


長浜市今荘町(いまじょうちょう)の北国脇往還。集落の中なので、再び歩きやすくなった。


次いで長浜市佐野町に入る。
轟神社の隣では、米原市の寺林地区以来、初めて「北国脇往還」の手作り看板を目にする。
道標があることがこんなに心強いとは・・・ほっとした気持ちになる。地元の方に感謝!


佐野町の外れで出合った、たくさんのお地蔵さん。道路工事中だったため、横から撮影。
この道の反対側を行くと、田圃の向こうに、水路に囲まれた野村の集落が見えてくる。


野村の集落に入る手前にも、「北国脇往還」の手作り看板。見ていて嬉しい気持ちになる。
長浜市は、どこに行っても、北国脇往還の看板や道案内が充実していた。
数年前の大河ドラマで浅井三姉妹(長浜出身)が登場した際、観光案内を整備したらしい。
それだけでなく、北国脇往還の解説や地元の方による「北国脇往還」の看板も充実していた。

米原市と岐阜県関ケ原町は北国脇往還を意識した案内は皆無で、かなりの温度差を感じた。
もし本格的に北国脇往還を整備されるのなら、行政には足並みをあわせた対応をお願いしたい。


長浜市野村町。集落を水がめぐり、背後には伊吹山が頭を見せる美しい町だ。
野村公会堂の周辺では季節の花が咲いており、しばらく撮影させていただいた。


野村公会堂の先にある北国脇往還の道標。「右 北國道 左 江戸 谷汲」と刻まれている。
長浜市の設置した案内板もある。道標の解説を見たのは、道中初めてのことだった。

この道標の角で曲がり、さらに浅井郵便局手前の地蔵堂の前を折れて、次へと向かう。
時間は11時半になっていた。この先しばらく車道を歩くことになるので、近くの神社で昼食にした。
(撮影日:2014年9月18日)

次回予定:伊吹の荒ぶる神10(北国脇往還3:長浜市八島~尊勝寺~伊部~小谷郡上)
沢山の道標が残る八島、失われた脇往還(山ノ前)、本陣跡の伊部、浅井氏の城下町・小谷へ。

▼今回掲載できなかった写真を別記事で掲載しています。
伊吹山麓の道、北国脇往還を歩く~花と水辺の風景2(ヒガンバナの道⇒姉川のソバ畑と伊吹山)

▼【北国脇往還】全行程を地図でご紹介しています。行程メモ付き。


2014年12月 4日 (木)

伊吹の荒ぶる神8(北国脇往還1:関ケ原から藤川の里を訪ねる、上平寺に寄り道して春照へ)~近江山河抄の舞台を歩く(72)

ある時私は、関ケ原から遡って、藤川の集落を訪ねたことがある。一条兼良はしばらくこの辺に滞在し、『藤川記』という書を残したが、定家も若い頃いたと伝えられ、彼が住んだという旧家も残っている。
・・・
藤川から伊吹の山麓を通って、木之本へぬける裏道があり、北国街道の「脇往還」と呼ばれる。
田圃の中に稲架(はさ)がつづくひなびた風景は、近江の懐深く入りこんだという感じがする。
その途中、伊吹の村で、円空作の十一面観音を見た。
-白洲正子『近江山河抄』「伊吹の荒ぶる神」

「藤川」とは、岐阜県の関ケ原と境を接する、滋賀県米原市藤川のことである。
藤原定家の旧家は既に無いため、藤川宿の脇本陣があった辺りで撮影させて頂いた(写真)。


小倉百人一首の撰者として知られる定家は、平安時代から鎌倉時代にかけての歌人である。
若い頃は父親との折り合いが悪く、所領のあった藤川で数年暮らしたと言われている。

『藤川記』を書いた一条兼良については、「伊吹の荒ぶる神7」の中でもご紹介している。
兼良は関白を勤めた人物で、退いた後に応仁の乱を避けて奈良に住んだ時期があった。
奈良から美濃への旅行記が、文明5年(1473)に執筆された『藤川の記』である。
「『藤川の記』 (現代語訳V2.0)」さんのサイトで、貴重な現代語訳を読むことができる。

▼『藤川の記』 (現代語訳V2.0)
http://teppou13.fc2web.com/hana/itijo/FUJIKAWA/fujikawa_no_ki.html


藤川への路線バスは既に廃止されていたため、関ケ原から2時間かけて歩くことにした。
というのも、関ケ原から「北国脇往還」と呼ばれる脇街道が走っていることを知ったからだ。


北国脇往還は中山道(関ケ原)~北国街道(滋賀県木之本)のバイパスで、伊吹山南麓を通る。
歩けばいい風景に出合えるだろう。そのうえ江戸時代は参勤交代に使われたという歴史ある道だ。
せっかくの機会なので藤川を超えて木之本まで歩いてみようと、3回に分けて歩く計画を立てた。

初回は関ケ原駅から玉(関ケ原町玉)、滋賀県米原市の藤川を経て春照まで12km歩いた。
白洲さんが「円空作の十一面観音」を見たという「伊吹の村」が、米原市春照(すいじょう)である。


ご存知、関ケ原は、天下分け目の戦いとなった「関ケ原の戦い」の舞台となった。
北国脇往還は関ケ原駅前の十六銀行の前から始まり、至る所で古戦場跡に出くわす。


JRの高架を超えると東首塚、そして陣場野公園には「徳川家康最後陣跡」といった具合だ。
玉集落の北国脇往還沿いには、関ケ原の戦いで死んだ東軍の武将・奥平貞治の墓がある。

関ケ原の戦いといえば、小早川秀秋が東軍(家康側)に寝返った話がよく知られている。
寝返りの約束をした小早川を、家康の命を受けて監視していたのがこの貞治だった。

動かない小早川に苛立った家康が、小早川隊のいる松尾山へ威嚇発砲したのは有名な話だ。
ところが、小早川家の家臣(松野重元)が主君の裏切りに抗議して、戦線を離脱してしまう。
そこで貞治は松野隊(小早川隊の先鋒)を率いて松尾山を駆け下り、西軍の大谷隊と戦った。

貞治の活躍で小早川隊は大谷隊に勝ち、戦局は一変。関ケ原の戦いは東軍の勝利となった。
しかし貞治は大谷隊との戦いの際に亡くなる。場所は当時の玉村あたりだったといわれている。

貞治には子がなかったため、その母が家康から供養料300石を年々与えられた(ウィキペディア)。
元治元年(1864年)10月には、子孫の奥平新左衛門源貞昭が、当地に墓を建立した。


とても残念なことに、北国脇往還は、玉と藤川の集落の間で道が消えていた。
川沿いに背丈以上の草が茂り、藪こぎをしても進めるか分からない状態になっていたのだ。
やむをえず、並行する車道に迂回して米原市に入り、藤川の交差点で北国脇往還に戻った。
写真は、合流地点の手前で北国脇往還を撮影したもの。道の左側はかなりの藪である。

関ケ原町内は、古戦場跡が散在しているおかげで、歩道は歩きやすく整備されていた。
道は使われなければなくなるものだということを、改めて思い知らされる。


藤川の集落のはずれで藤古川を越えると、北国脇往還は寺林(てらばやし)の集落に入る。
(この藤古川下流に、「伊吹の荒ぶる神7」でご紹介した壬申の乱激戦地と不破の関がある。)
八阪神社近くのお地蔵さんの脇で、道中初めて北国脇往還の看板を見た。

八阪神社でお弁当を食べた後、看板にある「上平寺」(じょうへいじ)へ寄り道することにした。
上平寺遺跡は京極氏の居城があったところで、平成16年に国の史跡に指定されている。

上平寺遺跡イラストマップ
戦国時代に北近江を支配した京極氏は、北近江最初の都市を上平寺に築いたと言われる。
上平寺の城下町の発展に、北国脇往還の存在が寄与したのは言うまでもない。
だが、浅井氏の台頭により京極氏は当地への支配力を失い、上平寺は廃城となった。
(※上の写真(上平寺遺跡イラストマップ)はクリックすると拡大します。)


寺林集落から県道を渡ると上平寺で、坂を上った先に伊吹神社の参道入り口がある(写真)。
山道の脇には遺跡が点在し、所々案内板があった。6分程歩くと伊吹神社に着いた。


伊吹神社。この左隣に登山ポストがあり、伊吹山への登山道が続いている。
ちなみに上平寺遺跡を越えて藪こぎすると、伊吹山の5合目当たりに合流するという。
今回は伊吹山には登らず、この階段を上って伊吹神社に参拝するのが目的だ。


伊吹神社拝殿と狛犬。
普段は地元の方以外、ここまで上ってくる人は少ないようだ。
この近辺では、(特に夏場は)ヒルとススメバチ、クマにご注意を。私はヒルにやられました。


伊吹神社の境内には、当地を支配した京極氏ゆかりの女性の墓がある。
歴代当主の墓は同じ米原市にある「徳源院」に移され、女性の墓だけが残ったのだ。
ちなみに徳源院は、2013年夏に当シリーズの一環として撮影させていただいている。
沖つ島山7(近江源氏・佐々木氏ゆかりの地を巡る。氏神「沙沙貴神社」と京極家の菩提寺「徳源院」)

京極氏ゆかりの地を巡って、またひとつ、点と点がつながったような気持ちになった。
作品に反映されることで、皆さんに滋賀を知っていただけるきっかけになればと願っている。


伊吹山の麓には、伊吹山をご神体とする「いぶき神社」がいくつもある。
そのため、『近江山河抄』に出てくる「伊吹神社」がどこなのか、確証が持てなかった。
(写真は米原市伊吹の「伊夫岐神社」)

伊吹神社には、今でも伊吹氏という宮司がおられるが、麓の平野はかつて息長(おきなが)氏の所領で、姉川に面して大きな前方後円墳が立っている。
・・・
伊吹山のイブキと、オキナガの「息」には、何か関係がありはしないか。伊吹山は霧が深いので有名だが、先年登ったとき、・・・私は目くるめく思いがした。それはまさしく神のいぶきとしかいいようのない凄まじさであった。そのいぶきが、長くあれかしと念じたのが、息長の名のはじまりではなかったであろうか。-白洲正子『近江山河抄』「近江路」

息長陵との位置関係から、私は姉川の畔にある「伊夫岐神社」(米原市伊吹)だと考えた。
そして2014年2月末に伊夫岐神社を撮影させていただいた。
伊吹の荒ぶる神5(伊夫岐神社と息長陵、早春の三島池)

ところが、上平寺の伊吹神社の存在を知ってから、気になって仕方なかった。
上平寺の伊吹神社は伊吹山の登山口にある。もしかして・・・と思ったのだ。

結論からいえば当初の考え通り、姉川の「伊夫岐神社」を指すと考えて差し支えない。



滋賀県の資料「伊吹山の歴史・文化」には、「伊夫岐神社(伊吹神社)」の記述がある。
そして「伊夫岐神社、三之宮神社およびこの両社の社務を協力して行う四ヶ寺の二社四寺によって
伊吹山の山岳信仰が成り立っていた。」と締めくくられている。

伊吹山は古くから山岳信仰の山として崇められてきた。山頂には一の宮こと弥勒堂がある。
中腹の二の宮が、美濃国二の宮こと「伊富岐神社」(岐阜県不破郡垂井町岩手字伊吹)。
そして三の宮が、上野登山口にある「三之宮神社」(滋賀県米原市上野)である。

この「三之宮神社」「伊夫岐神社」、そして「伊吹山四ヶ寺」(弥高寺・太平寺・観音寺・長尾寺)が伊吹山の山岳信仰を支えてきた。ただし伊吹山四ヶ寺は殆どの寺が無くなっている。


上平寺から再び寺林集落へ戻り、北国脇往還を行こうとしたが、道は林の中だった。
しかも、この林の中からサルの親子が出てきたところを目撃し、迂回することに決めた。

寺林から春照まで、1時間以上、延々と車道を歩いた。
途中で泉神社(名水百選)への分岐点に出合うが、気温30度だったので寄り道しなかった。

畑と民家が見えて、伊吹山の稜線が優しくなってきたと思ったら、弥高の集落に入っていた。
川を越えると春照に入る交差点があり、すぐに北国脇往還の史跡「野頭観音堂跡」がある。


野頭観音堂跡。伊吹山の麓に、今は石碑とお地蔵さんが残るのみ。
芭蕉が当地で詠んだという「頭巾めせ 寒むや 伊吹の山おろし」の句碑が置かれていた。



案内板によれば、野頭は松尾寺観音堂茶所の跡で、北国脇往還に残った唯一の史跡だ。
脇往還は若狭(福井)と美濃(岐阜)を結ぶ交通の要衝で、藤川・春照の宿が置かれたとある。


北国脇往還の宿駅は、今回の行程では玉・藤川・春照になるが、3箇所とも建物が残っていない。
そこで今回は、沿道の知られざる史跡や神社を中心にご紹介してみた。

春照(米原市春照)は北国脇往還の宿の一つで、明治時代には一時期鉄道が敷かれた。
とても美しい町並みが残っており、次回にご紹介したい。
今回は山麓の道がほとんどで集落間の移動が心細かったが、次回以降は大半が平野部になる。

なお、冒頭に出てきた円空作の十一面観音は、春照の「大平(たいへい)観音堂」にある。
太平寺集落はもともと伊吹山中腹にあったが、昭和39年にセメント工場の開設に伴って移転。
十一面観音も一緒に移った。現在は地元の方が観音堂の管理をされている。
なお、円空が修行したのは、「伊吹山四ヶ寺」の一つである「太平寺」だったといわれている。
(撮影日:2014年9月15日)

▼大平観音堂の写真と解説(米原市伊吹町春照)
太平観音堂/滋賀(仏像ワンダーランド)

▼滋賀県教育委員会・埋蔵文化財活用ブックレット(PDF)
埋蔵文化財活用ブックレット9(近江の城郭7)京極氏遺跡群 -京極氏館跡・上平寺城址・弥高寺跡-

次回:伊吹の荒ぶる神9(北国脇往還2:米原市春照~長浜市野村~八島~伊部~小谷)
米原市春照から、分水のある小田(やないだ)を経て、姉川を越え、長浜市への山越え。
水巡る美しいまち野村、貴重な道標が残る八島、伊部宿本陣跡、浅井三姉妹の城下町・小谷郡上へ。


◆先行記事「特別編:伊吹山麓の道、北国脇往還を歩く~花と水辺の風景」
1(関ケ原の栗の木⇒米原市春照のヒガンバナ)
2(ヒガンバナの道⇒姉川のソバ畑と伊吹山)
3(長浜市/野村の水路と八島の水車⇒伊部宿⇒小谷郡上のお地蔵さん)
4(長浜市/高月町馬上の水辺⇒雨森のイチョウ⇒木之本)


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