伊吹の荒ぶる神7(中山道・柏原宿から関ケ原へ~柏原から寝物語の里、今須宿、不破の関跡を歩く<後編>)~近江山河抄の舞台を歩く(69)
妙応寺は、美濃国今須領主の長江重景が、母(妙応)の菩提を弔うため建てた寺である。
正平15年(1360)の創建で、岐阜県下最古の曹洞宗寺院といわれている。
現在は参道の上を国道と東海道本線が走っており、旧中山道から寺を見ることはできない。
長いトンネルをくぐって外に出ると、立派な寺が姿を現した。
重景の祖父・長江秀景は、源頼朝の家臣で、もとは相模国三浦郡長江村に所領があったという。
承久の乱(1221)後に、美濃国不破郡今須村(現在の岐阜県関ケ原町大字今須)に移ってきた。
承久の乱といえば、頼朝亡き後に、後鳥羽上皇が鎌倉倒幕の兵を挙げて敗れた戦である。
御家人の力を警戒した北条氏は、この戦で得た西国の地に御家人を移らせたと言われている。
おそらく秀景もその一人だったのだろう。
妙応寺本堂の左には潜る様に小道があり、すぐ墓地に出る。その中央に長江氏の墓がある。
妙応寺を開いた長江重景の墓は、2つある大形の宝篋印塔のどちらかだと考えられている。
写真はその右側の宝篋印塔を撮影したもの。墓の前で、重景の母・妙応にまつわる話を伺った。
妙応は生前の悪業のせいで鬼に責め苦を受けており、それを偶然、旅の僧が目にする。
僧から話を聞いた重景は、鬼が出るというお堂にでかけ、亡き母の苦しむ姿を見てしまう。
そこで母の供養のために妙応寺を建立したというのが、寺の縁起となっている。
▼妙応寺縁起は、関ケ原町立今須小中学校のホームページに詳しいのでご参照下さい。
妙応寺と妙応ばあさん
再び旧中山道に戻り、しばらく行くと、国道21号線の傍らに今須宿の一里塚跡があった。
この近くには長江氏ゆかりの青坂神社があり、東海道本線の線路が参道を横切っている。
相模から今須に移った長江秀景が、先祖の鎌倉権五郎景政を祀ったと言われる神社だ。
境内には、関ケ原の合戦を終えた徳川家康が腰掛けたという「東照宮天下御踏台」もある。
時間の関係で立ち寄れなかったが、ご関心のある方はこちらも一緒にお勧めしたい。
国道21号線から離れて左の道をとると、旧中山道の「今須峠」に入る。
写真の石柱は昔の今須峠に建てられたもので、現在の今須峠の坂道から撮影している。
かなり高い位置に峠があったことがお分かりいただけるだろうか。
現在は車が通行できる緩やかな坂道になっているが、昔は旅の難所だった。
室町時代の公卿・一条兼良は、美濃への旅行記『藤川の記』の中で、今須峠をこう記している。
「堅城と見えたり、一夫関(いっぷかん)に当たれば万夫(ばんぷ)すぎがたき所というべし」
一条兼良は関白も勤めた人物で、退いた後に応仁の乱を避けて奈良に住んだ時期があった。
『藤川の記』に記した旅の道中では、関ケ原に近い藤川(滋賀県米原市藤川)に滞在している。
琵琶湖を渡る際に、当ブログのふるさと「堅田の浦に、舟を寄せて」といったこともあったようだ。
生前から学者としての名声は高く、亡くなった時「五百年来この才学無し」とまで惜しまれたが、
「長い間にわたって一条兼良の評価は低いものがあった」という(ウィキペディアより)。
『藤川の記』は文明5年(1473)に執筆されたものだが、入手はかなり難しそうだ。
「『藤川の記』 (現代語訳V2.0)」さんのサイトで、貴重な現代語訳を読むことができる。
◆堅田の箇所⇒http://teppou13.fc2web.com/hana/itijo/FUJIKAWA/fuji_4.html
▼『藤川の記』 (現代語訳V2.0)
http://teppou13.fc2web.com/hana/itijo/FUJIKAWA/fujikawa_no_ki.html
今須峠を抜けると、山中という美しい集落に出た。「常盤地蔵」が迎えてくれる。
源義経の母・常盤御前と、乳母の千種が、山中村で盗賊に襲われ亡くなったといわれている。
2人は東国に向かった牛若(源義経)の身を案じ、後を追ったという。時に常盤43歳だった。
哀れに思った村人は塚を築き、手厚く葬った。そして塚の近くに常盤地蔵を安置したという。
山中の集落に入ると、東海道本線のそばに小さな公園がある。常盤御前の墓である。
常盤地蔵から歩いて5分弱の場所で、松尾芭蕉の句碑(後ろの石碑)と一緒に並んでいる。
前回も近江国境(寝物語の里)のところで書いたが、この辺りには義経にまつわる伝承が多い。
恋人の静御前は、義経の家臣と寝物語の里で再会できたが、こちらは何とも切ない話だ。
鶯の滝。年中ウグイスが泣くことからこの名がついたと言われている。
山中村(現在の関ケ原町山中)は、鎌倉~室町時代には東山道の宿駅として栄えた。
江戸時代に中山道が整備されると、今須宿と関ヶ原宿の間の休憩地として賑わったという。
今須峠のところでご紹介した一条兼良の歌にも、この「鶯の滝」が出てくる。
「夏きては 鳴く音をきかぬ 鶯の 滝のみなみや ながれあふらむ」
峠を越えてきた旅人にとって、涼やかな滝は一服の清涼剤となったことだろう。
黒血川。もともとは山中川と呼ばれていた川で、先程の鶯の滝が黒血川の源流にあたる。
壬申の乱(672)の際、この山中の地で大友皇子・大海人皇子両軍初の衝突が起きた。
天智天皇の皇子が大友皇子で、天智天皇の弟が大海人皇子(後の天武天皇)である。
両軍の兵士の流血が、川底の岩石を黒く染めたことから、この名が付いたといわれている。
現在は川を横切るように東海道本線の高架があり、音をたてて貨物列車が通過していった。
川の右からトンネルに続いている道は東海自然歩道で、城山(砦跡)に通じている。
山中の集落にて、来た道(旧中山道)を振り返ったところ。
国道21号線が見えてくるころ、長い間歩いてきた山中の集落に別れを告げた。
再び国道21号線と交わると、またすぐに旧中山道に入る(関ケ原町藤下)。
すぐ眼に跳びこんで来るのが、「弘文天皇御陵候補地・自害峯の三本杉」の丘である。
壬申の乱は、天智天皇亡き後、大友皇子(弘文天皇)と大海人皇子の間に起きた内乱である。
山中、そして藤下(とうげ)は、壬申の乱の戦地となった場所で、ともに激戦地となった。
日本書紀によれば、672年6月、大海人皇子は野上行宮(関ケ原町大字野上)に入り、
「関の藤川」(関ケ原町大字藤下)で大友皇子と決戦を行っている。
大友皇子の首実検(身元確認)や天武天皇の即位も、この野上行宮で行ったと言われている。
敗れた大友皇子は「山前(やまさき)」で自死したとされるが、どこなのかは謎のままだ。
このシリーズでお伝えした滋賀県大津市衣川の「鞍掛神社」は、その伝承地のひとつである。
当地の伝承は、「鞍掛神社」(写真)のものと両立するとも、矛盾するとも言えるものだった。
大友皇子の御首は、首実検後に地元の人々が貰い受け、藤下の丘に葬ったというのだ。
印として三本の杉を植え、自害峯と名づけたと伝わっている。
なぜ、藤下(とうげ)の地が選ばれたのか。それには歴史的な理由がある。
壬申の乱の際、大友皇子(弘文天皇)に味方したのは、藤下と山中の人々だった。
御陵候補地になっているのは、伝承にまつわる場所が付近に集中している事も大きいと思われる。
矢尻の池(井)。
壬申の乱の際、水を求めた大友軍の兵士が矢尻で掘ったという伝承がある。
現在は枯れていて、ほとんど分からない状態だった。
隣に地蔵堂があり、付近で出土した地蔵と自害峯の地蔵をあわせて祀っている。
藤古川。古くは「関の藤川」と呼ばれたこの川を挟んで、壬申の乱の大激戦が繰り広げられた。
(ちなみに上流には、室町時代に一条兼良が滞在した藤川(滋賀県米原市藤川)の集落がある。)
藤古川の東側(写真奥)は松尾という集落で、大海人皇子に味方し、大海人軍が陣を張った。
西側(写真手前)の藤下(とうげ)、そして山中集落は大友皇子に味方し、大友軍の陣地となった。
壬申の乱の直後、松尾では天武天皇(大海人皇子)を祀った「井上神社」を創建している。
他方、藤下・山中では、亡くなった大友皇子を祭神として、藤下に「若宮八幡宮」を建立した。
どちらの神社も地元の方に守られて現在に至っている。ここは歴史の舞台そのものなのだ。
藤下(とうげ)の集落にて(藤古川の手前で撮影)。
大友皇子を祀っている「若宮八幡宮」の参道入り口は、旧中山道に面している。
藤古川を渡ると松尾の集落で、高台に不破関資料館の森が見えた。
藤川に面して、こんもりとした森が遠望されるのは、やはりふつうの所とは雰囲気が違う。川の右岸には、「伊勢街道」と記した道しるべがあり、壬申の乱に、天武天皇が、この細々とした道を辿って来られたのかと思うと、感慨にふけらざるを得ない。関ケ原は、「不破の関の原」で、鈴鹿と伊吹にはさまれた狭隘な地形は、ここで度々合戦が行われたのも不思議ではないと思う。
-白洲正子『近江山河抄』「伊吹の荒ぶる神」
旧中山道をはさんで、道の両側に「不破関跡」(写真の建物)と不破関資料館がある。
壬申の乱の翌年、天武天皇はこの松尾の地に、関所(不破関)を置いた。
この不破関を境に「関東」「関西」と呼ばれるようになったとも言われている。
関所へ行く前に不破関資料館に行くことになり、出土品などを見学した後、資料をいただいた。
不破関跡では、不破関守の館跡の庭園を見ることができる。
「不破関」は平安時代以降有名な歌枕だったことから、この庭園にはたくさんの歌碑が置いてある。
ここでも松尾芭蕉の句碑に出合った。 「秋風や 藪も畠も 不破の関」(芭蕉)
不破関跡の庭園にあったのが、「美濃国不破故関銘」の大きな石碑。
風格と立派な漢文が気になって、後から調べてみると、読み下し文を見つける事ができた。
最後に文政五年(1822)に市河 三亥 (いちかわ みつい)が題額したとの銘があり、とても驚いた。
市河 三亥(1779-1858)は江戸時代後期の書家・漢詩人で、米庵の号で知られる書の大家だ。
どうやら天武天皇(壬申の乱)と徳川家康(関ケ原の合戦)の正当性をうたった内容のようだ。
▼石碑の全文(内容)は、下記サイト(「四季・コギト・詩集ホームぺージ」)をご参照下さい。
美濃国不破故関銘并序(1822 文政五年)
関ヶ原駅まで行く途中、福島正則の陣地跡があるというので立ち寄ってみた。
正則の陣地跡は春日神社の境内にあり、樹齢800年という「月見の宮大杉」が迎えてくれた。
関ヶ原駅の近くには関ケ原宿脇本陣跡があり、商店街の一角に門だけが残っていた。
その隣の本陣跡には推定樹齢300年以上というスダジイ(天然記念物)があり、眺めて帰った。
知らなかったことがあまりにも多くて、柏原から関ケ原までの8kmは印象に残る行程になった。
▼ご参考までに、今回の行程を掲載。
11:50~12:35妙応寺、12:42一里塚、12:44今須峠入り口、12:59常盤地蔵、
13:04~13:11常盤御前の墓、13:15鶯の滝、13:19黒血川、13:31藤下の集落へ入る、
13:33自害峯の三本杉の矢印看板前、13:36矢尻の池(井)、13:40藤古川、13:49不破関、
13:50不破関資料館、14:10不破関庭園、14:18福島正則陣地跡、14:46関ケ原宿脇本陣跡、
14:51関ヶ原駅到着。(撮影日:2013年11月8日)
▼当日、関ケ原町観光協会さん・米原観光協会さんからいただいた資料はこちら。
・関ケ原町 観光ガイドブック「せきがはら巡歴手帖」(※ダウンロード&郵送可能)
・中山道柏原宿散策マップ(※ダウンロード&郵送可能)
白洲正子さんの紀行文『近江山河抄』(1974年刊)の舞台を、写真とともにご紹介しています。
◇伊吹の荒ぶる神1(中山道・柏原宿から醒井宿を歩く~前編:やいと祭と柏原宿歴史資料館、寄り道して清滝寺徳源院へ)
◇伊吹の荒ぶる神2(中山道・柏原宿から醒井宿を歩く~後編:柏原一里塚から醒井「居醒の清水」とバイカモの花)
◇伊吹の荒ぶる神3(水のまち・醒井から、木彫りの里・上丹生へ。醒井渓谷、霊仙三蔵記念堂、醒井養鱒場、いぼとり水と西行水)
◇伊吹の荒ぶる神4(琵琶湖岸の神話の町~朝妻湊跡と湖底遺跡、世継の七夕伝説、山内一豊の母・法秀院ゆかりの地、元伊勢・坂田神明宮(滋賀県米原市朝妻筑摩・世継・飯・宇賀野))
◇伊吹の荒ぶる神5(岐阜と滋賀の県境、伊吹山の麓を歩く~伊夫岐神社と息長陵/◆早春の三島池(滋賀県米原市伊吹・村居田・池下))
◇伊吹の荒ぶる神6(中山道・柏原宿から関ケ原へ~柏原から寝物語の里、今須宿、不破の関跡を歩く<前編>)
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