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2014年9月10日 (水)

伊吹の荒ぶる神7(中山道・柏原宿から関ケ原へ~柏原から寝物語の里、今須宿、不破の関跡を歩く<後編>)~近江山河抄の舞台を歩く(69)


妙応寺は、美濃国今須領主の長江重景が、母(妙応)の菩提を弔うため建てた寺である。
正平15年(1360)の創建で、岐阜県下最古の曹洞宗寺院といわれている。
現在は参道の上を国道と東海道本線が走っており、旧中山道から寺を見ることはできない。
長いトンネルをくぐって外に出ると、立派な寺が姿を現した。

重景の祖父・長江秀景は、源頼朝の家臣で、もとは相模国三浦郡長江村に所領があったという。
承久の乱(1221)後に、美濃国不破郡今須村(現在の岐阜県関ケ原町大字今須)に移ってきた。

承久の乱といえば、頼朝亡き後に、後鳥羽上皇が鎌倉倒幕の兵を挙げて敗れた戦である。
御家人の力を警戒した北条氏は、この戦で得た西国の地に御家人を移らせたと言われている。
おそらく秀景もその一人だったのだろう。


妙応寺本堂の左には潜る様に小道があり、すぐ墓地に出る。その中央に長江氏の墓がある。
妙応寺を開いた長江重景の墓は、2つある大形の宝篋印塔のどちらかだと考えられている。
写真はその右側の宝篋印塔を撮影したもの。墓の前で、重景の母・妙応にまつわる話を伺った。

妙応は生前の悪業のせいで鬼に責め苦を受けており、それを偶然、旅の僧が目にする。
僧から話を聞いた重景は、鬼が出るというお堂にでかけ、亡き母の苦しむ姿を見てしまう。
そこで母の供養のために妙応寺を建立したというのが、寺の縁起となっている。

▼妙応寺縁起は、関ケ原町立今須小中学校のホームページに詳しいのでご参照下さい。
妙応寺と妙応ばあさん


再び旧中山道に戻り、しばらく行くと、国道21号線の傍らに今須宿の一里塚跡があった。
この近くには長江氏ゆかりの青坂神社があり、東海道本線の線路が参道を横切っている。
相模から今須に移った長江秀景が、先祖の鎌倉権五郎景政を祀ったと言われる神社だ。
境内には、関ケ原の合戦を終えた徳川家康が腰掛けたという「東照宮天下御踏台」もある。
時間の関係で立ち寄れなかったが、ご関心のある方はこちらも一緒にお勧めしたい。


国道21号線から離れて左の道をとると、旧中山道の「今須峠」に入る。
写真の石柱は昔の今須峠に建てられたもので、現在の今須峠の坂道から撮影している。

かなり高い位置に峠があったことがお分かりいただけるだろうか。

現在は車が通行できる緩やかな坂道になっているが、昔は旅の難所だった。
室町時代の公卿・一条兼良は、美濃への旅行記『藤川の記』の中で、今須峠をこう記している。
「堅城と見えたり、一夫関(いっぷかん)に当たれば万夫(ばんぷ)すぎがたき所というべし」

一条兼良は関白も勤めた人物で、退いた後に応仁の乱を避けて奈良に住んだ時期があった。
『藤川の記』に記した旅の道中では、関ケ原に近い藤川(滋賀県米原市藤川)に滞在している。
琵琶湖を渡る際に、当ブログのふるさと「堅田の浦に、舟を寄せて」といったこともあったようだ。

生前から学者としての名声は高く、亡くなった時「五百年来この才学無し」とまで惜しまれたが、
「長い間にわたって一条兼良の評価は低いものがあった」という(ウィキペディアより)。
『藤川の記』は文明5年(1473)に執筆されたものだが、入手はかなり難しそうだ。
「『藤川の記』 (現代語訳V2.0)」さんのサイトで、貴重な現代語訳を読むことができる。

◆堅田の箇所⇒http://teppou13.fc2web.com/hana/itijo/FUJIKAWA/fuji_4.html

▼『藤川の記』 (現代語訳V2.0)
http://teppou13.fc2web.com/hana/itijo/FUJIKAWA/fujikawa_no_ki.html


今須峠を抜けると、山中という美しい集落に出た。「常盤地蔵」が迎えてくれる。
源義経の母・常盤御前と、乳母の千種が、山中村で盗賊に襲われ亡くなったといわれている。
2人は東国に向かった牛若(源義経)の身を案じ、後を追ったという。時に常盤43歳だった。
哀れに思った村人は塚を築き、手厚く葬った。そして塚の近くに常盤地蔵を安置したという。


山中の集落に入ると、東海道本線のそばに小さな公園がある。常盤御前の墓である。
常盤地蔵から歩いて5分弱の場所で、松尾芭蕉の句碑(後ろの石碑)と一緒に並んでいる。
前回も近江国境(寝物語の里)のところで書いたが、この辺りには義経にまつわる伝承が多い。
恋人の静御前は、義経の家臣と寝物語の里で再会できたが、こちらは何とも切ない話だ。


鶯の滝。年中ウグイスが泣くことからこの名がついたと言われている。
山中村(現在の関ケ原町山中)は、鎌倉~室町時代には東山道の宿駅として栄えた。
江戸時代に中山道が整備されると、今須宿と関ヶ原宿の間の休憩地として賑わったという。

今須峠のところでご紹介した一条兼良の歌にも、この「鶯の滝」が出てくる。
「夏きては 鳴く音をきかぬ 鶯の 滝のみなみや ながれあふらむ」
峠を越えてきた旅人にとって、涼やかな滝は一服の清涼剤となったことだろう。


黒血川。もともとは山中川と呼ばれていた川で、先程の鶯の滝が黒血川の源流にあたる。
壬申の乱(672)の際、この山中の地で大友皇子・大海人皇子両軍初の衝突が起きた。
天智天皇の皇子が大友皇子で、天智天皇の弟が大海人皇子(後の天武天皇)である。
両軍の兵士の流血が、川底の岩石を黒く染めたことから、この名が付いたといわれている。

現在は川を横切るように東海道本線の高架があり、音をたてて貨物列車が通過していった。
川の右からトンネルに続いている道は東海自然歩道で、城山(砦跡)に通じている。


山中の集落にて、来た道(旧中山道)を振り返ったところ。
国道21号線が見えてくるころ、長い間歩いてきた山中の集落に別れを告げた。


再び国道21号線と交わると、またすぐに旧中山道に入る(関ケ原町藤下)。
すぐ眼に跳びこんで来るのが、「弘文天皇御陵候補地・自害峯の三本杉」の丘である。
壬申の乱は、天智天皇亡き後、大友皇子(弘文天皇)と大海人皇子の間に起きた内乱である。
山中、そして藤下(とうげ)は、壬申の乱の戦地となった場所で、ともに激戦地となった。

日本書紀によれば、672年6月、大海人皇子は野上行宮(関ケ原町大字野上)に入り、
「関の藤川」(関ケ原町大字藤下)で大友皇子と決戦を行っている。

大友皇子の首実検(身元確認)や天武天皇の即位も、この野上行宮で行ったと言われている。
敗れた大友皇子は「山前(やまさき)」で自死したとされるが、どこなのかは謎のままだ。
このシリーズでお伝えした滋賀県大津市衣川の「鞍掛神社」は、その伝承地のひとつである。

鞍掛神社拝殿で舞う巫女さん-1
当地の伝承は、「鞍掛神社」(写真)のものと両立するとも、矛盾するとも言えるものだった。
大友皇子の御首は、首実検後に地元の人々が貰い受け、藤下の丘に葬ったというのだ。
印として三本の杉を植え、自害峯と名づけたと伝わっている。


なぜ、藤下(とうげ)の地が選ばれたのか。それには歴史的な理由がある。
壬申の乱の際、大友皇子(弘文天皇)に味方したのは、藤下と山中の人々だった。
御陵候補地になっているのは、伝承にまつわる場所が付近に集中している事も大きいと思われる。


矢尻の池(井)。
壬申の乱の際、水を求めた大友軍の兵士が矢尻で掘ったという伝承がある。
現在は枯れていて、ほとんど分からない状態だった。
隣に地蔵堂があり、付近で出土した地蔵と自害峯の地蔵をあわせて祀っている。


藤古川。古くは「関の藤川」と呼ばれたこの川を挟んで、壬申の乱の大激戦が繰り広げられた。
(ちなみに上流には、室町時代に一条兼良が滞在した藤川(滋賀県米原市藤川)の集落がある。)

藤古川の東側(写真奥)は松尾という集落で、大海人皇子に味方し、大海人軍が陣を張った。
西側(写真手前)の藤下(とうげ)、そして山中集落は大友皇子に味方し、大友軍の陣地となった。


壬申の乱の直後、松尾では天武天皇(大海人皇子)を祀った「井上神社」を創建している。
他方、藤下・山中では、亡くなった大友皇子を祭神として、藤下に「若宮八幡宮」を建立した。

どちらの神社も地元の方に守られて現在に至っている。ここは歴史の舞台そのものなのだ。


藤下(とうげ)の集落にて(藤古川の手前で撮影)。
大友皇子を祀っている「若宮八幡宮」の参道入り口は、旧中山道に面している。
藤古川を渡ると松尾の集落で、高台に不破関資料館の森が見えた。

藤川に面して、こんもりとした森が遠望されるのは、やはりふつうの所とは雰囲気が違う。川の右岸には、「伊勢街道」と記した道しるべがあり、壬申の乱に、天武天皇が、この細々とした道を辿って来られたのかと思うと、感慨にふけらざるを得ない。関ケ原は、「不破の関の原」で、鈴鹿と伊吹にはさまれた狭隘な地形は、ここで度々合戦が行われたのも不思議ではないと思う。
-白洲正子『近江山河抄』「伊吹の荒ぶる神」


旧中山道をはさんで、道の両側に「不破関跡」(写真の建物)と不破関資料館がある。
壬申の乱の翌年、天武天皇はこの松尾の地に、関所(不破関)を置いた。
この不破関を境に「関東」「関西」と呼ばれるようになったとも言われている。
関所へ行く前に不破関資料館に行くことになり、出土品などを見学した後、資料をいただいた。


不破関跡では、不破関守の館跡の庭園を見ることができる。
「不破関」は平安時代以降有名な歌枕だったことから、この庭園にはたくさんの歌碑が置いてある。
ここでも松尾芭蕉の句碑に出合った。 「秋風や 藪も畠も 不破の関」(芭蕉)


不破関跡の庭園にあったのが、「美濃国不破故関銘」の大きな石碑。
風格と立派な漢文が気になって、後から調べてみると、読み下し文を見つける事ができた。
最後に文政五年(1822)に市河 三亥 (いちかわ みつい)が題額したとの銘があり、とても驚いた。
市河 三亥(1779-1858)は江戸時代後期の書家・漢詩人で、米庵の号で知られる書の大家だ。
どうやら天武天皇(壬申の乱)と徳川家康(関ケ原の合戦)の正当性をうたった内容のようだ。

▼石碑の全文(内容)は、下記サイト(「四季・コギト・詩集ホームぺージ」)をご参照下さい。
美濃国不破故関銘并序(1822 文政五年)


関ヶ原駅まで行く途中、福島正則の陣地跡があるというので立ち寄ってみた。
正則の陣地跡は春日神社の境内にあり、樹齢800年という「月見の宮大杉」が迎えてくれた。


関ヶ原駅の近くには関ケ原宿脇本陣跡があり、商店街の一角に門だけが残っていた。
その隣の本陣跡には推定樹齢300年以上というスダジイ(天然記念物)があり、眺めて帰った。
知らなかったことがあまりにも多くて、柏原から関ケ原までの8kmは印象に残る行程になった。

▼ご参考までに、今回の行程を掲載。
11:50~12:35妙応寺、12:42一里塚、12:44今須峠入り口、12:59常盤地蔵、
13:04~13:11常盤御前の墓、13:15鶯の滝、13:19黒血川、13:31藤下の集落へ入る、
13:33自害峯の三本杉の矢印看板前、13:36矢尻の池(井)、13:40藤古川、13:49不破関、
13:50不破関資料館、14:10不破関庭園、14:18福島正則陣地跡、14:46関ケ原宿脇本陣跡、
14:51関ヶ原駅到着。(撮影日:2013年11月8日)

▼当日、関ケ原町観光協会さん・米原観光協会さんからいただいた資料はこちら。
関ケ原町 観光ガイドブック「せきがはら巡歴手帖」(※ダウンロード&郵送可能)
中山道柏原宿散策マップ(※ダウンロード&郵送可能)

白洲正子さんの紀行文『近江山河抄』(1974年刊)の舞台を、写真とともにご紹介しています。

伊吹の荒ぶる神1(中山道・柏原宿から醒井宿を歩く~前編:やいと祭と柏原宿歴史資料館、寄り道して清滝寺徳源院へ)

伊吹の荒ぶる神2(中山道・柏原宿から醒井宿を歩く~後編:柏原一里塚から醒井「居醒の清水」とバイカモの花)

伊吹の荒ぶる神3(水のまち・醒井から、木彫りの里・上丹生へ。醒井渓谷、霊仙三蔵記念堂、醒井養鱒場、いぼとり水と西行水)

伊吹の荒ぶる神4(琵琶湖岸の神話の町~朝妻湊跡と湖底遺跡、世継の七夕伝説、山内一豊の母・法秀院ゆかりの地、元伊勢・坂田神明宮(滋賀県米原市朝妻筑摩・世継・飯・宇賀野))

伊吹の荒ぶる神5(岐阜と滋賀の県境、伊吹山の麓を歩く~伊夫岐神社と息長陵/◆早春の三島池(滋賀県米原市伊吹・村居田・池下))

伊吹の荒ぶる神6(中山道・柏原宿から関ケ原へ~柏原から寝物語の里、今須宿、不破の関跡を歩く<前編>)


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