« 2014年6月 | トップページ | 2014年8月 »

2014年7月

2014年7月31日 (木)

伊豆神社の掘割~古絵図で見る堅田(3)

 



暑中お見舞い申し上げます。少しは涼しい気分になるかなと、秋の写真を選んでみました。
秋の夕暮れ時の浮御堂と琵琶湖です。

浮御堂は近江八景のひとつ「堅田の落雁」として知られる景勝地です。
江戸時代の古絵図にも絵入りでしっかり載っています。
前々回、前回に引き続き、延宝5年(1677年)の本堅田村絵図をもとに堅田を歩いてみました。


浮御堂のそばにあるのが、古くから堅田大宮と呼ばれてきた伊豆神社です。
室町時代には、伊豆神社に堅田の宮座(自治組織)が置かれました。
伊豆神社には堅田の歴史を後世に伝える資料が数多く残されています。
延宝5年(1677年)の本堅田村絵図もそのひとつです。


伊豆神社をぐるっと囲む掘割の位置は、江戸時代の絵図とほとんど変わっていません。
↑こちらは伊豆神社正面の左側(本福寺方向)の写真です。
↓下の写真は伊豆神社正面の右側(浮御堂北湖岸方向)です。

この写真の方向へ歩いて右折すると浮御堂、左折すると掘割が続いています。


こちらも伊豆神社の掘割です。常夜灯の奥に掘割が続いています。


他方、江戸時代とだいぶ変わっているのが、浮御堂周辺の湖岸です。
伊豆神社は舟入に向かって建てられていますが、その舟入跡が児童公園になっています。
この児童公園を湖岸へ降りると、「おとせの浜」(桜の隠れた名所)があります。

おとせの浜の対岸に寿寧寺という寺がありますが、その周辺は「西の切(きり)」と呼ばれました。
ちなみに、浮御堂周辺が「東の切」です。
「大道町」「中村町」といった江戸時代の地名とあわせて、下の地図にまとめておきました。
(概略図ですので、地域区分の誤差はご容赦下さい。)
(地図上で項目名または赤い矢印をクリックすると解説が出ます。)


本堅田は、近世初めから元禄11年(1698年)まで幕府領でした。
元禄11年~文政9年に、堀田家が治める堅田藩領となります。
今回参考にした絵図は延宝5年(1677年)作成のため、まだ堅田陣屋はありません。
そのため、まとめ地図にはかっこ書きで紹介しています。

この古絵図には、祥瑞寺、本福寺、光徳寺、妙盛寺、神田神社、寿寧寺も載っています。
少なくとも江戸時代からあるというのは、すごいことです!
地図のほうで写真とともにご紹介しておきました。町歩きにご活用下さい!


 

 

続きを読む "伊豆神社の掘割~古絵図で見る堅田(3)" »

2014年7月29日 (火)

第31回堅田湖族まつりのお知らせ(2014年8月2日・3日) #shiga #otsu

 


毎年8月第一土曜日~日曜日に行われている「堅田湖族まつり」のご案内です。

 

2014年8月2日(土) 午後3時~ 堅田湖族祭り
会場・・・大津市本堅田4丁目~堅田漁港周辺
(JR堅田駅ロータリーより湖岸方向に直進、徒歩約10分)

 

子どもフェスティバル(堅田小学校金管バンド):午後3時~5時 堅田駅前第2公園(堅田保育園横)

模擬店:午後3時30分~9時30分 内湖大橋付近(歩行者天国になります)
ヤングフェスティバル:午後3時30分~9時 月影広場(内湖大橋東詰)
盆踊り:午後7時半~7時50分 漁協会館広場
湖族の灯り(灯籠):午後7時半~8時50分 堅田漁港突堤
花火大会:午後8時30分~8時50分 堅田漁港沖湖上

2012年8月4日(日) 湖族船競争
会場・・・神辺なぎさ公園沖(浮御堂北湖上)

 

午前8時~8時20分  受付
午前8時20分 各チーム練習 (5分間)
午前9時 開会式
午前9時30分 自治会対抗の部 予選
午前10時30分 一般の部 予選 (各組1位のみ決勝進出)・自治会対抗の部 準決勝
午前11時30分 中学生の部・一般の部・自治会対抗の部 決勝
午後1時 表彰式

※昨年までの様子はこちらに詳しく載っています。
湖族まつり (堅田自治連合会ホームページ)


 

 

 

 

続きを読む "第31回堅田湖族まつりのお知らせ(2014年8月2日・3日) #shiga #otsu" »

琵琶湖と内湖(ないこ)に囲まれた水の町、堅田(堅田四方と宮の切、水辺の地蔵堂)~古絵図で見る堅田(2)

 


前回より、江戸時代(延宝5年)に作られた本堅田村絵図をもとに、
琵琶湖の畔にある堅田の町をご紹介しています。

堅田といえば、室町時代には、町を挙げて蓮如上人を匿って延暦寺(室町幕府)と戦ったり、
20-30代の一休さんが修行して浜辺で悟りを開いたり、
江戸時代には芭蕉さんが足しげく通ったりと、何かとエピソードの多い町です。

※堅田の話は堅田の歴史・よもやま話にまとめています。
なんだか気になる・・・と思った方は、リンク先のバックナンバーをどうぞ。

私自身、2006年から堅田を撮影してきた中で、沢山の歴史に触れてきました。
地元の皆さまからお話を伺う機会をいただき、お便りもいただいて、本当に感謝しています。

堅田の歴史の話はまとまったものが殆どなくて、埋もれさせてしまうのはもったいないと思い、
以前のように通えないこともあって、今のうちに何とかまとめておこうと書いています。

御礼が大変遅くなりましたが、
当サイトを堅田自治連合会様のホームページでリンクしていただき、
本当にありがとうございました!



さて、中世の堅田は、「堅田四方」と呼ばれる四つの地区に分かれていました。
そのひとつが「宮の切」で、本堅田2丁目の堅田港の近くに地蔵堂と碑文があります。

「宮の切」の地蔵堂の西側には、堅田本町商店街と住宅街が続いています。
商店街に入る前に渡る小さな橋は、堅田内湖に繋がる水路(写真)の上に架かっています。
この橋と水路は、延宝5年(1677年)の本堅田村絵図にも見ることができます。
商店街を貫く一本道も、江戸時代から変わっていないことが分かります。

↓まとめ地図を作ってみました。紫色で塗った地区が、「宮の切」です。
(地図上で項目名または赤い矢印をクリックすると解説が出ます。)



ちなみに、「堅田四方」とは、以下の4つです。
・宮の切・・・伊豆神社(堅田大宮)の北側(現在の滋賀県大津市本堅田2丁目)。
・東の切・・・浮御堂周辺(本堅田1丁目)。
・西の切・・・寿寧寺周辺(本堅田1丁目)。
・今堅田・・・伊豆神田神社周辺(今堅田1丁目)。

『新修大津市史』によれば、江戸時代の本堅田には、「宮の切」「東の切」「西の切」のほかに、
「釣漁師」「外輪町」「野々宮町」「中村町」「大道町」の地名が見られます。
(先程の地図におおよその範囲を示しておきましたので、ご参照下さい。)



堅田本町商店街を歩いていくと、途中にまた別の地蔵堂があります。
5月の供御人行列のとき、この地蔵堂の前を通るので、その写真と一緒に掲載しておきました。
延宝5年の古絵図で見ると、この一帯は水路に囲まれた島のようになっています。
島の一方の端が「宮の切」の地蔵堂で、もう一方の端が奇しくもこちらの地蔵堂です。


先ほどの「宮の切」の地蔵堂まで引き返すと、古絵図に見られるもう一つの橋があります。
場所は先年廃業した港湯さんのそばで(煙突が見えていますね)、祥瑞寺のすぐ近くです。
この橋を横から見たのがこちら↓です。


堅田内湖から引かれた水は、この先で琵琶湖に通じています。
この水路の場所も江戸時代から変わっていません。


こちらが水路の最終地点です。左奥が堅田港、右奥の建物が水上警察(堅田水上派出所)です。
琵琶湖に漁に出る漁師さんの船が停泊しています。


もう一度、先程の橋の写真を掲載します。
この橋の向こう側には、明治時代になって町役場が建てられました。
ところが、役場が橋の右側にあったのか、左側にあったのか、専門家の方も分からないそうです。

地元の方で、おじい様やおばあ様から当時の話を聞いている方がいらっしゃいましたら、
管理人(兼松)まで情報をお寄せいただければ幸いです。
歴史博物館の学芸員さんに必ずおつなぎします。

※明治の堅田町役場の写真は、こちら(大津市歴史博物館ホームページ)でご覧いただけます。

(「堅田湖族まつりのお知らせ」をはさんで、次回へつづく)


 

続きを読む "琵琶湖と内湖(ないこ)に囲まれた水の町、堅田(堅田四方と宮の切、水辺の地蔵堂)~古絵図で見る堅田(2)" »

2014年7月24日 (木)

堅田内湖と地蔵と老ヶ川橋~古絵図で見る堅田(1)

 



暑い日が続きますね。皆さま、お変わりありませんか。
何か涼しげな写真を・・・と思い、水辺の写真を選んでみました。
今回は久しぶりに、琵琶湖の畔の町・堅田(かたた)からお届けします。
1枚目の写真は、「堅田内湖」(かたた ないこ)から引かれた水路が、町を巡る風景です。
内湖(ないこ)は滋賀県独特の言葉で、琵琶湖と水路で繋がった水域を指します。
有名なのは近江八幡市の西の湖(にしのこ)で、高島市の乙女ヶ池なども内湖です。


堅田を歩くと本当に多いのが、地蔵堂(お地蔵さん)です。
どうして地蔵が多いのか、どうしてその場所に置かれたのか、実はよく分かっていません。
堅田の地蔵は水辺の守り神として、内湖のそばに置かれたと考える研究者の方もいます。

昨年の秋、歴史博物館のイベントで、江戸時代の本堅田村絵図(複製)を見る機会がありました。
1677年(延宝5年)に作られたという古絵図で、その当時の堅田は江戸幕府の天領でした。
その古絵図を見ると、現在よりもずっと堅田内湖が広がっていたことが分かります。

 


本堅田(ほんかたた)の居初(いそめ)邸。居初氏庭園は国の名勝になっています。
中世以降、堅田の指導者的立場だった殿原衆(とのばらしゅう)の筆頭が、居初氏です。
伊豆神社に置かれた惣村の運営に携わり、堅田の自治や琵琶湖の水運に影響力を持ちました。
御当主のお話では、居初家は当初、伊豆神社のそば(浮御堂の近く)にあったそうです。
中世の堅田は、大津・近江八幡と共に、琵琶湖の水運の一大拠点でした。

今回から、居初邸周辺で古絵図に描かれている場所を、数回に分けてご紹介する予定です。
1677年(延宝5年)といえば、1698年(元禄11年)に堅田藩になる少し前の時代です。
その古絵図に描かれていた意外な場所が、本堅田2丁目の「老ヶ川橋」でした。
「老ヶ川橋」の場所については、下の地図をご覧下さい。


堅田駅から堅田内湖へ直進し、内湖大橋を渡って右へ進むと、福聚院というお寺があります。
福聚院と堅田漁港が出会う角にあるのが「老ヶ川橋」です。


老ヶ川橋。延宝5年の古絵図に「おいっ川」とあるのが、この場所です。
古絵図を見ると、橋の前は琵琶湖、後ろは内湖で、橋の両側に一軒ずつ民家があるだけです。
古絵図の中の本堅田は、水路が張り巡らされ、まるで水の上に浮かんでいるようです。


老ヶ川橋のそばには、「小番城自治会」の広報板があります。
「小番城」は「こばんぎ」と読み、室町時代の城跡(小番城城遺跡)があった地区です。
現在は城跡は残っていないようですね。

☆参照資料⇒大津市の小番城城遺跡が掲載されている資料を知りたい。
(国立国会図書館 レファレンス協同データベース)


かつて老ヶ川橋から堅田駅のほうへ戻ると・・・内湖大橋の向こうに、観覧車が見えていました。
2013年9月より解体されて、その後ベトナムへ行った大観覧車「イーゴス108」です。
写真をよくご覧頂くと、ゴンドラ(乗りカゴ)の部分が取り外された状態なのが分かります。
古絵図をヒントに本堅田を歩いたのが2013年9月で、この頃よく話題になっていた観覧車でした。
2006年から撮影で堅田を歩き回った筆者にとっては、とても懐かしい風景です。
この角を左へ曲がって内湖大橋を渡ると、後はまっすぐ、堅田駅へ続いています。

(次回へつづく)


 

 

続きを読む "堅田内湖と地蔵と老ヶ川橋~古絵図で見る堅田(1)" »

2014年7月17日 (木)

あかねさす 紫野4(滋賀の天然記念物「熊野のヒダリマキガヤ」、熊野神社と西明寺:滋賀県蒲生郡日野町)~近江山河抄の舞台を歩く(67)

 




三重県境に近い滋賀県日野町の一番奥に、熊野という地区がある。

その昔、鈴鹿山系の綿向山で修行した山伏が、熊野神社を祀ったと言われる場所だ。
日野の中心部から綿向山に向かい、音羽から蔵王を経て、平子からかなり狭い林道を走った。
県境に近い山中まで、1日がかりの撮影となった。

 



しばらく林の中を行くと、突然目の前が開け、谷をへだてた向う側に、白壁の美しい村が現われた。熊野である。わずか十軒ぐらいの小さな山村だが、静寂そのものの環境は、心の底まで浄められる思いがする。村の中には、老樹にかこまれた熊野神社が建ち、おきまりの神体山もそびえている。-白洲正子『近江山河抄』「あかねさす 紫野」

 




初めて熊野を訪ねたのは、昨年の11月中旬のことだった。

各地に被害をもたらした台風18号(特別警報第一号)が滋賀を襲った約1ヶ月後である。



熊野バス停近くでは土砂崩れがあり、向かい側の路肩に青いビニールシートが見えていた。

路線バスは熊野神社前まで行くことができず、熊野で折り返しとなっていた時期である。
だが、熊野の集落はとても静かで平穏そのものだった。



熊野神社へ行く途中で見かけた地蔵堂。






熊野神社の前にあるタコ杉やイチョウの大木が見事だった。




熊野神社。

白州さんが行ってみることは出来なかったと書いた「熊野の滝」は、この山中にある。
神社の駐車場奥に「熊野の滝」への道があったが、滝へは土砂崩れで行けないと聞いていた。
そのため、ヒダリマキガヤの木を見て次の目的地に向かうことにした。
駐車場から滝まで、往復で徒歩1時間は見ておかないといけない距離だったこともある。
京都方面から熊野へは、車でも公共交通機関でも、行くだけでかなりの時間を要する。
帰り道を考えると、滞在時間は思いのほか短い。(滝まで行かれる方はその点ご注意下さい。)



熊野神社の駐車場から一本道を100m程歩いたところ、ヒダリマキガヤの1号木を見つけた。

ガードレールのそばに案内板があり、そばには下に降りる石段がある。



左巻榧(ヒダリマキガヤ)は、カヤ(榧)が突然変異で生じた変種である。

カヤ(榧) はイチイ科カヤ属の常緑針葉樹で、山形県以南に分布している。
ヒダリマキガヤの自生地は、他にも宮城県・兵庫県・富山県・三重県にあるらしい。

現地の案内板によれば、一般的なカヤの種子は長さ1~3cmの卵形または楕円形で、
外種皮及び内種皮の浅い溝が、・・・直線であるという。

これに対して、ヒダリマキガヤの種子は長さ4~5cmの長楕円形とやや大きく、
外種皮及び内種皮の浅い溝が、・・・左方向へ螺旋状に巻いているという。


巨樹と花のページ
さんによると、熊野のヒダリマキガヤは4本発見されていて、
3本が国の天然記念物に指定されているとのこと。

私が撮影したのはその1号木で、1922年に国の天然記念物の第一号指定を受けている。
だが、カーナビやGoogle mapに出てくる「熊野のヒダリマキガヤ」とは明らかに場所が違った。
どうやらカーナビやGoogle mapでは、個人宅の敷地内が示されているようだ。

1号木と3号木は誰もが訪問できる場所にあるので、なるべく地元のご迷惑にならないように、
地図はそちらを表示してほしいと思うのは、私だけだろうか。



水の綺麗な場所にしか生息しないという、サワガニに出会った。

ヒダリマキガヤの木の近くに、どうやら川があるらしい。

ちなみに、自然豊かな日野町には、知り得る限り5つもの天然記念物がある。
・熊野のヒダリマキガヤ[植物]
鎌掛のホンシャクナゲ[植物/2014年5月にご紹介しています]
・鎌掛の屏風岩〔地質・鉱物〕
・別所高師小僧〔地質・鉱物〕
・綿向山麓の接触変質地帯〔地質・鉱物〕

(別所高師小僧って??どんなものなのか、気になります・・・)




熊野から音羽まで戻って、竜王山の麓の西明寺という集落を訪ねた。

長い坂道が続き、綿向山の登山口を過ぎると、行く手に西明寺の集落が見えてくる。
集落の入り口には、西明寺という名の、臨済宗永源寺派の寺院がある。
紅葉で有名な湖東三山にも同名の寺があるが、それとはまったく別の寺である。

日野の西明寺は、奈良時代に竜王山に創建されたと伝わる名刹である。
聖徳太子が開いたと伝えられており、数々の文化財が後世に残されている。
もとは天台宗の寺で、江戸時代に臨済宗永源寺派の末寺となったという。
御覧の通り、茅葺屋根のお堂が素晴らしい。



寺の前の石垣には、近くの蓮台野から発掘されたという石仏群が並んでいた。

白洲さんが繰り返し書いている通り、近江は石の文化だとつくづく感じさせられた。
紙や木は燃えて無くなることがあるが、石の文化財はずっと残るのだな。
都が移って、権力者が変わって、時代が移ろっても、寺院が無くなっても、石仏・石塔は残る。
時に不遇の時代を経て、風雪にさらされても、場所を移動させられても、石は残る。
それは信仰の力なのかもしれないが、西明寺のような集落だからこそ残ったのだと思う。



西明寺の集落を眺めるかのように、石仏が立ち並んでいた。

たとえば山中に転がされていたら、このような形で後世の人間が見ることはなかっただろう。
疎んじられることなく、仰々しく誰かに見せるためでもなく、当たり前のように置かれている。
今まで信仰心と表現してきたけれど、もっと素朴で大切な心が潜んでいるような気がした。



寺の屋根瓦に、西明寺の「西」の字を発見。こんなところにも、集落の人の心を感じた。

日野は広い。熊野も西明寺も日野である。
蒲生野は広い。知らなかった風景がまだまだ広がっている。

蒲生野にある石の文化財といえば、東近江市の石塔寺が知られている。
石塔寺も聖徳太子ゆかりの場所だ。近いうちにご紹介できればと思っている。


 


 

続きを読む "あかねさす 紫野4(滋賀の天然記念物「熊野のヒダリマキガヤ」、熊野神社と西明寺:滋賀県蒲生郡日野町)~近江山河抄の舞台を歩く(67)" »

2014年7月10日 (木)

あかねさす 紫野3(近江日野商人と三方よし、蒲生氏郷と会津若松ゆかりの若松の杜跡、馬見岡綿向神社と日野祭:滋賀県蒲生郡日野町)~近江山河抄の舞台を歩く(66)

 




日野へ行くのは、なかなか大変だった。

滋賀県蒲生郡日野町は、琵琶湖の南東に広がる「蒲生野」の、一番奥に位置する。
かなり広い町なので、県境に近い熊野地区(写真)まで行くとなると、どうしても滞在が短くなる。
日野の風景をあますところ捉えたくて、季節を変えて何度か通うことになった。

前々回、「あかねさす 紫野1」の中で、飛鳥時代の歌人、額田王のことを書いた。
「茜さす 紫野行き 標野(しめの)行き 野守は見ずや 君が袖振る」(額田王)
この歌が詠まれた頃の後の日野について、白洲正子さんは次のように書いている。

 



このあたり一帯は未開の原野で、日野牧と呼ばれた朝廷の牧場が新設され、・・・天智九年には、百済の王族と貴族七百余人が移しおかれ、『日本書紀』には、天皇自身も「蒲生野のヒサノ野(日野の古名)に幸して、宮地(みやどころ)みそなはす」とあり、都を遷す計画もあったらしい。
・・・もし遷都したとすれば、奈良時代の歴史はかなり変っていたはずである。
日野はそれから幾星霜を経て、近江商人の根拠地となった。
-白洲正子『近江山河抄』「あかねさす 紫野」

 




近江商人のふるさとは3箇所ある。近江八幡、五個荘(東近江市)、そして日野である。

近江商人とは、近江(滋賀)を本宅(または本店)として他国へ行商した商人をいう。
中でも日野商人は、江戸時代に主に関東で活躍し、日野椀(後に置き薬)の行商で栄えた。
日野の特徴は、千両貯まれば新しい店を出すという小型店経営で、現代のコンビニに通じる。
地元採用・単身赴任を貫くスタイルは、戦前まで続けられていたという。



写真の「日野まちかど感応館」は、「旧正野薬店」が観光協会の建物として使われている。

看板に掲げられた「萬病感應丸」は動悸・息切れ・気付けの薬で、現在も同名の薬がある。
(地元の日野薬品工業で「正野萬病感應丸」として製造・販売されている。)

近江商人といえば、「三方よし」(売り手よし、買い手よし、世間よし)の理念で知られる。
売り手の都合だけでなく、買い手(お客さん)、地域(社会貢献)を考えて商いをするという理念。
なかなか難しいことだが、昔の時代の”世間よし”は、かなりスケールが大きい。
たとえば、橋を架ける。治水や治山を行う。寺社や学校に寄付する。
日野商人の中井家の場合、1815年に瀬田の唐橋の再建に私財2000両を寄付している。
(後に1000両を追加して、合計3000両を寄付。)逢坂山の車石を寄付した話も残っている。



日野商人をうかがい知ることのできる場所といえば、近江日野商人館の建物だろう。

近江日野商人館(写真)は、山中兵右衛門(ひょううえもん)さんの自宅を、町へ寄贈したもの。
スタッフの方の話では、山中家の当主が昭和11年(1936年)に地元の職人に作らせた家だという。
不景気の時代に凝った木材や建築を注文し、何年かかってもいくらかかってもいいと伝えたそうだ。
いわば公共工事の一種といっていい。地元に雇用を生み、技術の伝承に役立つようにしたのだ。
和洋とりまぜた見事な近代建築で、建具・廊下・客室など、職人の技術の粋が光る。

ちなみに、入り口を入るとすぐ電話室があって、当時は珍しかった電話が迎えてくれる。
ジブリ映画「となりのトトロ」を見た子どもさんは、これが電話だとすぐに分かるとか。
近江日野商人館を訪ねて感じたのは、精神的なスケールの大きさだった。
豪傑を生む土壌というのだろうか、ダイナミックさと言ってもいいかもしれない。



日野が生んだ名君といえば、蒲生氏郷(がもう うじさと)だろう。

蒲生氏は戦国時代に当地を治めた武将で、日野の城下町の整備を行った一族である。
1523年に中野城を築き、天文年間(1532~1554年)初頭に蒲生定秀が町割りを行ったと伝わる。

蒲生氏郷は早くから織田信長に見込まれた人物で、信長の娘(冬姫)と結婚している。
日野では楽市楽座を開き、蒲生氏の氏神である馬見岡綿向神社を厚く保護している。
本能寺の変の後は豊臣秀吉に仕え、伊勢松阪城主を経て、陸奥会津の黒川城主となった。

ウィキペディアによれば、蒲生氏は藤原秀郷の系統に属する鎌倉時代からの名門であったという。
藤原秀郷といえば、近江では、三上山の百足退治をした「俵藤太秀郷」の伝説で知られている。



日野の馬見岡綿向神社の参道周辺には、「若松の杜」があったといわれている(写真)。

この「若松の杜」にちなんで、蒲生氏郷は、会津の黒川を「若松」へと改めた。
現在の福島県会津若松市である。ちなみに、黒川城とはあの会津若松城だ。
鶴ヶ城とも呼ばれるのは、氏郷の幼名(鶴千代)と蒲生家の家紋(舞鶴)にちなむものだという。
会津若松が、日野・近江に縁が深い場所だったことを知って、近江出身者としてとても驚いた。

氏郷は会津でも楽市楽座を導入し、商業の発展に努め、会津藩の発展の基礎を築いた。
会津の愛らしい郷土玩具「起き上がり小法師」は、氏郷が広めたと言われている。

人柄の偲ばれる逸話の多い人物で、キリシタン大名でもあり、千利休の高弟(利休七哲)の一人。
戦国武将としては珍しいことだが、生涯、側室を置かなかったという。享年40。
日野を歩くと、「NHK大河ドラマの主人公に蒲生氏郷公を」という声をよく聞く。



馬見岡綿向神社(うまみおか わたむきじんじゃ)。

由緒に、鈴鹿山脈の綿向山に祀った綿向大神(天穂日命)を、796年に現在地に遷したとある。
いわゆる里宮にあたり、現在も奥宮は綿向山(標高1,110m)の頂上にある。




蒲生家の氏神として庇護を受け、江戸時代には日野商人が数々の寄進を行っている。
5月2日・3日の日野祭は、綿向神社の春の例祭で、湖東地方最大の春祭りである。



日野の町を歩くと印象に残るのが、日野祭を見るための独特の切り窓「桟敷窓」である。

日野祭のために板壁に穴を開けて、年に一度祭りを見物する。

▼日野祭の写真をこちらで掲載しています。
http://katata.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/katata-d068.html

 



今も町内を歩いてみると、どっしりした構えの家が立並び、白銀町、鍛冶町、呉服町、紺屋町、塗師町などの町名に、昔の繁栄を偲ぶことができる。日野町の特徴は非常に細長いことと、一軒一軒の家の塀に、格子ののぞき窓がついていることで、これは綿向神社の祭礼を見るためにしつらえたものと聞く。その神社は、長い町の東のはずれにあり、黒々とした森を背景に、宏壮な社域を占め、町全体が神社を中心に生活を営んでいることがわかる。
-白洲正子『近江山河抄』「あかねさす 紫野」

 




馬見岡綿向神社の近くで、民家の向こうに綿向山が見えていた。左が竜王山、右が水無山。

今回の「あかねさす 紫野」シリーズは、蒲生野の二つの竜王山を主題にしている。
そのひとつが、前々回ご紹介した雪野山(竜王山)。もうひとつが、日野の竜王山である。

 



[馬見岡綿向]神社の背後・・・は、・・・南向きの気持のいい高台で、のどかな平野のかなたに、神社の森と、日野の町並みを見はるかす風景は、一種不思議な暖かみを感じさせる。農耕民族の「共同体」という言葉は、こういう所へ来てみないと、ほんとの在り方がわからない。それは空間的な意味だけでなく、時間的にも、過去と現在が渾然ととけ合って、一つの世界を形づくっている。-白洲正子『近江山河抄』「あかねさす 紫野」

 




次回予定:竜王山のふもと・西明寺と、三重県との県境に近い熊野を訪ねて。

熊野では、天然記念物となっているヒダリマキガヤの木(写真中央)に出会うことができた。(つづく)

☆日野へのアクセス(公共交通機関の場合)
JR草津駅⇒(草津線)⇒JR貴生川駅(乗り換え)・近江鉄道貴生川駅⇒近江鉄道日野駅
またはJR近江八幡駅南口より近江鉄道バス「北畑口」行

☆綿向神社(日野町村井)へのアクセス
近江鉄道日野駅またはJR近江八幡駅南口から、近江鉄道バス「北畑口」行バス「向町」下車。
徒歩5分。

※草津線・近江鉄道・バスとも本数が少ないので(一時間に1~2本)、事前にご確認下さい。
[JR]草津線(えきから時刻表)
近江鉄道
近江鉄道バス・日野駅時刻表
近江鉄道バス・近江八幡駅南口時刻表


 


 

 

 

続きを読む "あかねさす 紫野3(近江日野商人と三方よし、蒲生氏郷と会津若松ゆかりの若松の杜跡、馬見岡綿向神社と日野祭:滋賀県蒲生郡日野町)~近江山河抄の舞台を歩く(66)" »

2014年7月 1日 (火)

葵祭前儀「献饌供御人行列」/写真目次

 

掲載写真がブログ全体で約4000枚となり、
今までの分類(カテゴリー分け)では、閲覧にエラーが出ることがあるため、
バックナンバーの整理を行っております。

そのため、カテゴリー「献饌供御人行列&葵祭/festival at Katata and Kyoto」では、
2012年度の写真を中心に掲載しています。

他年度の行列写真は、下記リンクよりご覧下さい。

▼2015年度 (※葵祭 「社頭の儀」は後日UP予定)
2015年堅田町内巡行編~京都・下鴨神社巡行編
2015年度行列案内(日時・経路・参加者募集)

▼2014年度
2014年度行列案内(日時・経路・参加者募集)
2014年堅田
2014年京都

▼2013年度
2013年度行列案内
2013年堅田
2013年京都

▼2012年度
2012年度行列案内
2012年度 葵祭「勅使奉幣の儀」
写真動画【葵祭 社頭の儀 2012】

▼2009年~2011年度
2009年堅田(2010年4月掲載)
2009年京都(その1)(2010年5月掲載)
2009年京都(その2)(2010年5月掲載)
2009年京都(その3)・2010年京都(2010年5月掲載)
2011年度行列案内&2010年堅田

2011年度行列案内
2011年京都(1)
2011年京都(2)
2011年京都(3)
2011年堅田(1)
2011年堅田(2)
2011年堅田(3)
2011年堅田(4)
2011年堅田(5)

▼行列の詳細は、YouTube動画のiボタン(画面の一番右)をクリックして下さい。解説が出ます。


◆新聞コラムが当ブログの文章を「引用」したのでは?と指摘されている件について
~新聞社に申し入れを行いました(2014年7月・8月)


2014年7月14日(月)付の、地元新聞の朝刊に、堅田の歴史に関するコラムが掲載されました。
ところが、冒頭の箇所(「献撰供御人行列」の解説)が、当ブログの文章によく似ていました。

献撰供御人行列については、地元の方に声をかけていただき、2009年から撮影してきました。
資料が殆どなかったため、地元の方や主催者の方に伺った話を書いてきました。
撮影した写真につける文章を、つたないながら苦心して考え、何度も書き直しています。

コラムを執筆したのは文化財専門職の公務員の方で、当ブログと誤記まで同じ表現だったこと、
ブログと同じ単語や言い回しがちりばめるように使われていたこと、
今後当該コラムが新聞社から出版されて同じ問題が起こる可能性があることから、
著作権専門の弁護士さんと相談の上、新聞社と執筆者に文書で申し入れを行いました。

当ブログを引用する場合は、引用部分と出典を明記していただくよう、お願いします。
判断に迷う場合は、管理人(兼松)までご連絡下さい。
(なお、丸写しは著作権上の引用には当たらず、無断転載となりますので、ご留意下さい。)
http://katata.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/post-2fdc.html


 

(2015/1/10追記)
新聞社に類似箇所の具体的な指摘を行ったため、しばらくブログの現状(表現)を変更できませんでした。
2015年を迎えたのを機に、ブログ、YouTube(文章)とも誤記を訂正させていただきました。


訂正箇所は献饌供御人行列の開始年度です。

× この歴史を現代にも伝えようと、1994年から献饌供御人行列が行われている。

○ この歴史を現代にも伝えようと、1990年から献饌供御人行列が行われている。
(※堅田町内だけでなく下鴨神社へも巡行する現在のスタイルは1994年以降続けられている。)

なお訂正を行った記事は以下のとおりです。
(1)2009/5/20  臨時増刊号・献饌供御人行列の動画(2009年5月14日(木)撮影)
(2)2010/4/17  献饌供御人行列(01) 神事の日の朝、神田神社 ~Honkatata/本堅田 253
(3)2010/4/30  献饌供御人行列(14) カモアオイ(双葉葵、賀茂葵)の御神紋を掲げて ~Honkatata/本堅田 282-283
(4)2013/5/17   【葵祭前儀「献撰供御人行列」の写真】 滋賀・堅田町内巡行編(2013年5月14日撮影) #shiga #otsu #japan #photo
(5)2014/5/22   【葵祭前儀「献撰供御人行列」の写真】 滋賀・堅田町内巡行編(2014/5/14) #katata #shiga #japan #festival #photo
(6)2014/5/24   【葵祭前儀「献撰供御人行列」の写真】 京都・下鴨神社巡行編(2014/5/14) #kyoto #japan #festival #photo
(7)YouTube(動画の解説文):献撰供御人行列 2009年5月14日(木)
(追記ここまで)


 

続きを読む "葵祭前儀「献饌供御人行列」/写真目次" »

« 2014年6月 | トップページ | 2014年8月 »

2020年8月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
サイト内検索
ココログ最強検索 by 暴想

東日本大震災の記事を御覧の皆さまへ

このブログのご案内

  • ご訪問ありがとうございます♪

  • 風景写真家、アマナイメージズ契約作家。故郷滋賀の里山や寺社、各地の知られざる風景を撮影して歩いています。2007年12月から琵琶湖畔の町・堅田の写真を更新してきた写真ブログです。

  • ▼公式ホームページ(堅田を初めとする風景写真・自然写真を掲載しています) junphotoworks.com

    フェイスブックへのリンクは下記をご利用下さい。応援ありがとうございます!



  • Copyright(C)2007-2015.
    兼松 純(Jun Kanematsu)

    写真に電子透かしを使用しています。

    当ブログに掲載されている写真・画像・文章・イラストの無断複写、転載等の使用および二次使用を禁じます。
    No reproduction or republication without written permission.

    ■当ブログ掲載写真は、地域の方に楽しんでいただく作品発表の場として、2007年より掲載してきました。2014年には、祭事写真のために筆者(兼松)が書いた解説文を専門家が新聞コラムに無断使用する事態があり、弁護士相談の上で関係者各位に申し入れを行いました。 判断に迷うときは、事前にお問い合わせいただきますようお願いします。

    ■2014年春からアマナイメージズに作品の一部を預けています。 WEBに掲載していない作品もございますので、詳細はお問い合わせ下さい。

連絡先/Contact

ホームページへのリンク

堅田の町のご紹介

お気に入りサイト・ブログ

無料ブログはココログ