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2014年6月 9日 (月)

あかねさす 紫野1(蒲生野の額田王の歌ゆかりの地をめぐる。鏡神社・龍王寺(雪野寺跡):滋賀県蒲生郡竜王町)~近江山河抄の舞台を歩く(64)


白洲正子さんの紀行文『近江山河抄』(1974年刊)の舞台を写真とともにご紹介しています。
これでちょうど1000枚目の写真になりました。(撮影日:2014年5月19日)


冒頭の写真は、蒲生郡竜王町の美松台という住宅街で撮影したもの。
タイトルの「あかねさす 紫野」は、万葉集に出てくるおなじみの相聞歌からとっている。

「茜さす 紫野行き 標野(しめの)行き 野守は見ずや 君が袖振る」(額田王)
「紫草(むらさき)の 匂へる妹(いも)を 憎くあらば 人妻故に 我恋ひめやも」(大海人皇子)

この歌は近江の蒲生野(がもうの)で668年に行われた薬狩の際に詠まれたと言われている。
だが、「標野」が蒲生野のどこにあったのか、はっきりしていない。


蒲生野の手がかりになるのは、近江(滋賀)の蒲生郡(がもうぐん)という地名である。
1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、ウィキペデイアによれば以下の通り。
・竜王町の全域
・日野町の大部分(下駒月を除く)
・近江八幡市の大部分(江頭町・十王町・小田町・野村町・佐波江町・丸の内町を除く)
・東近江市の一部

蒲生野は広い。北は安土から南は水口のあたりまで、西は鏡山から日野のはずれに及び、湖東・湖南の平野の大部分を占めている。ということは、つまりはっきりしないのであって、まして薬狩がどこで行われたか知る由もない。
・・・
地図で見ると、日野町の東の鈴鹿山中に、竜王山という山があり、日野川と佐久良川は、そこから流れ出て、雪野寺[現在は龍王寺]の手前で合流する。その流域には、鬼室(きしつ)神社、綿向神社、石塔寺、苗村(なむら)神社などが点在し、古い歴史の道であったことを示している。帰化人と関係あるらしいことも、私には興味があった。-白洲正子『近江山河抄』「あかねさす 紫野」


蒲生野の額田王の歌碑といえば、東近江市の「万葉の森 船岡山」が知られている。
船岡山の山頂からは蒲生野を見渡せることから、ここに歌碑が置かれたのだろう。
写真は船岡山に近い安土町内野~東近江市糠塚町付近にて、昨年秋に撮影したもの。
この辺りは昨年秋にご紹介した瓦屋寺・太郎坊宮の麓に位置し、近江鉄道の市辺駅に近い。

市辺駅の南東1kmほどのところには、市辺押磐皇子(いちのべおしはのみこ)御陵がある。
市辺の地名(東近江市市辺町)は、この御陵に由来すると言われている。
日本書紀によれば、5世紀中頃、安康(あんこう)天皇が市辺皇子に皇位を譲ろうとした。
しかし、これを恨んだ従兄弟(後の雄略天皇)が狩りに市辺皇子を誘い出して殺してしまう。
皇子が誘い出された「蚊屋野」は、現在の蒲生郡日野町鎌掛付近と言われている。

市辺皇子は「八日市のあたりを領し、大和朝廷に匹敵する程の勢力を蓄えていた」(近江山河抄)。
市辺や糠塚周辺が、早くから開けていた地域だったのは確かだろう。

☆関連情報:糠塚町には「万葉の郷ぬかづか」という直売所があって、ここのパンは絶品!
自販機やトイレもあって、ハイカーさん・ドライバーの皆さんにおすすめの場所です。


額田王(ぬかたのおおきみ)の故郷は諸説あるが、一説に蒲生野の鏡山付近だと言われる。
日本書紀には「天皇、初め鏡王の娘、額田王をめして、十市皇女を生しませり」とある。
(天皇とは、後の天武天皇、つまり大海人皇子のこと。)

鏡王(かがみのおおきみ)、額田王・・・「王」から推察されるのは、皇族だということである。
継嗣令によれば、天皇の二世(孫)から五世(来孫)は「王」と呼称すると定められている。
(当初は「王」は四世(玄孫)までで、慶雲3年(706年)に五世まで拡大されている。)

額田王の父・鏡王は、近江国野洲郡鏡里の豪族とも、神官だったとも伝わっている。
また壬申の乱の際には、大友皇子側について戦死したと言われている。
額田王の娘・十市皇女(とおちのひめみこ)は、大友皇子(天智天皇の皇子)の妃である。
大友皇子と大海人皇子(天智天皇の弟)が戦った壬申の乱は、鏡一族に大きく影響しただろう。

鏡里は現在の滋賀県蒲生郡竜王町鏡。国道8号線沿いに道の駅「竜王かがみの里」がある。
東山道の宿駅「鏡の宿」として栄えたところで、付近には古墳や遺跡がとても多い。
鏡へは、野洲駅から三井アウトレットパーク滋賀竜王行きの路線バスが出ている。
「道の駅 竜王かがみの里」で降ると、すぐそばに鏡神社がある。

鏡神社の伝承によれば、額田王は、姉の鏡女王とともに巫女として宮廷に仕えたという。
鏡女王(鏡王女)ははじめ天智天皇の妃だったが、後に藤原鎌足の正妻となったと言われる。
額田王の姉妹ではないとする説もあり、詳しいことは分かっていない。

額田王は大海人皇子の恋人で、後に天智天皇(大海人皇子の兄)の後宮に入ったと言われる。
三角関係の証拠(?)としてよく挙げられるのが、冒頭の「茜さす紫野」の歌とその返歌。
だがこの歌、宴席での座興の歌ではないかと考える説が有力になってきているようだ。

というのも、歌が詠まれた翌年頃、娘の十市皇女と大友皇子の間に皇子(孫)が生まれている。
それだけの歳月が流れて、宮廷行事で皆の前で公に詠まれた歌であることを考えると、
激しい恋の歌というよりも、どこか相手をからかうユーモアのある歌と解釈するのが自然だろう。

「野守は見ずや」といい、「君が袖振る」といどまれては、昔の恋人として一言あらずばなるまい。
そこで、「人妻ゆゑに」愛さないことがありましょうか、と報いたが、拍手喝采した人々の歓声が
聞えるようである。
・・・
家系からいっても、祭事とは密接な関係があり、故郷の野べで行われる狩猟には、欠くことのできないスターであったであろう。見物人を意識したのは当り前のことで、意識したからあのように魅力 的な歌がよめたのである。・・・大向うをうならせる手腕と、ひとり呟くささめ言と、その両方を兼ねたところに彼女の真価がある。天智・天武両帝に愛されたのは当然といえよう。
-白洲正子『近江山河抄』「あかねさす 紫野」


鏡神社本殿(写真奥)は、南北朝時代の三間社流造柿葺。重要文化財になっている。
祭神の天日槍(あめのひぼこ)は、古事記や日本書紀に出てくる新羅の王子である。

日本書紀には、垂仁3年3月、新羅王子の天日槍が神宝を奉じて来朝したとある。
「捧持せる日鏡を山上に納め鏡山と称し、その山裾に於て従者に陶器を造らしめる」
鏡山というのは、天日槍が持参した日鏡にちなんだ名前らしいことが分かる。

同じく日本書紀には「近江国の鏡村の谷の陶人(すえびと)は、天日槍の従人なり」とある。
朝鮮半島からやってきた製陶業(須恵器づくり)の技術者をこの地に住まわせたのだろう。
鏡山周辺には須恵器の窯跡が多く、竜王町には「須恵」という地名が残っている。

須恵器について調べていくと、『古墳の話』(小林行雄著・岩波新書)に興味深い記述があった。
半島の新しい技術(須恵器など)を知った支配者たちは、より良い品を身近に置きたいと願った。
そこで百済や新羅に技術者の献上を要求し、新しい部民として都の近辺に定住させたという。
5世紀後半以降に多くみられた事象で、その一つが「陶部」(すえつくりべ)だった。
須恵器をつくる最先端の技術者集団が、鏡をはじめとする各地に迎えられたのである。


鏡山周辺には古墳が沢山あると聞いていたので、その一つに立ち寄ってみた。
道の駅からバスに乗って5分ほど行くと、山面(やまづら)というバス停がある。
バスを降りて、冒頭の写真の美松台へ入っていくと、見事な古墳があった・・・!!
※三ッ山古墳群(老々塚古墳)については、次回、詳しくご紹介します。

龍王寺までは山面から車で15分程度だが、バス路線がないので近江八幡駅まで行くことに。
近江八幡駅南口から竜王ダイハツ行きのバスに乗り、川守(かわもり)というバス停で降りる。


日野川の方向へ歩いていくと、田植えを終えた田圃の向こうに、雪野山が見えた。
川守バス停の向かいにあった龍王寺の看板を頼りに歩いていくと、15分ほどで寺に着いた。
雪野山の山頂付近には雪野山古墳があり、今年(2014年)3月に国の史跡に指定されている。


雪野山麓にある龍王寺は、かつて、雪野寺と呼ばれた古刹である。
白洲さんは、雪野寺の場所が分からず、二、三十年が過ぎたと書いている。
雪野寺が名を変えていたことを知らず、道が分からなかったとも。
私自身も土地勘がある訳ではないので、手がかりのない取材のご苦労はよく分かる。

いつのことだったか・・・[大学の考古学教室で]発掘品が並んでいるガラス戸棚の隅に、美しい
童子の首があることに気がついた。うかがってみると、近江の雪野寺で発見されたものとかで、
・・・秀でた眉の線のたしかさ、唇と顎のあたりのふくよかなぬくもりは、あきらかに白鳳の面影を伝えていた。軽く閉じた眼からは、今にも涙の一滴がこぼれ落ちそうで、その崇高とも無心ともいえる表情から、私は拝んでいる姿を想像した。・・・このような群像を擁していた塔は、どんなに見事な建築であったことか。雪野寺の名が忘れられなくなったのは、その時以来のことである。
-白洲正子『近江山河抄』「あかねさす 紫野」

▼雪野寺跡から出土した塑像童子形の写真はこちらをどうぞ(リンク)
雪野寺跡 童子形(Googleイメージ)


雪野寺こと龍王寺の鐘楼(滋賀県蒲生郡竜王町川守)。

雪野寺は現在「竜王寺」という・・・が、通称「野寺」ともいい、その方がこういう所の景色にふさわしい。寺伝によると、元明天皇の和銅三年、行基菩薩によって建立され、度々の兵火に消滅したが、平安時代に再興し、一条天皇から「竜寿鐘殿」の勅額を給わり、以来、竜王寺と呼ばれるに至ったという。
その鐘は今も本尊として鐘楼の中に祀ってあり、奈良時代の美しい姿の梵鐘である。
・・・
平安時代には、歌枕の名所となり、特にその鐘は特別なひびきをもって聞えていたらしい。
  暮れにきと告ぐるぞまこと降り晴るる雪野の寺の入相の鐘  和泉式部
-白洲正子『近江山河抄』「あかねさす 紫野」


雪野寺跡の宝篋印塔(龍王寺境内)。


龍王寺の本堂には「雪野寺」の文字。


龍王寺境内の石仏。歴史の深さを感じさせる。
隣には川守天神社があって、雪野山古墳ハイキングコースの看板がある。
5分程歩いていくとイノシシよけの扉があって、目の前に古墳群が続いていた。


天神山古墳群。手前が1支群4号墳、奥が1支群5号墳である。
6世紀後半~7世紀初頭の古墳と考えられており、蒲生郡では唯一といってよい副室構造だという。
中盤でご紹介した三ッ山古墳群が「横口式石室」なのに対し、こちらは「横穴式石室」である。

ちなみに、川守天神社から雪野山古墳までは徒歩30分だと案内板に出ていた。
ハイキングコースとして整備されており、丁寧に案内板が設置してあるのがありがたい。
雪野山古墳は埋め戻されて中を見ることはできないが、近くの妹背の里に復元模型がある。
この周辺は2013年秋の台風18号で被害を受けたが、駐車場では復旧工事が進んでいた。

☆関連情報:妹背の里は通常営業されています。http://ryuoh.or.jp/imosenosato.html


雪野寺跡(龍王寺境内)にて。伽藍の跡は何も残っていない。
だが、白洲さんが考える「標野」は、この雪野山なのである。
標野とは、皇室や貴人の所有地で一般の者の立ち入りを禁止した野という意味をもつ。
額田王と大海人皇子の歌を再掲した後、最後に白洲さんの推理をご紹介したい。

「茜さす 紫野行き 標野(しめの)行き 野守は見ずや 君が袖振る」(額田王)
「紫草(むらさき)の 匂へる妹(いも)を 憎くあらば 人妻故に 我恋ひめやも」(大海人皇子)

大江匡房に次のような歌がある。
  蒲生野のしめのの原の女郎花野寺に見するいもが袖なり (夫木集)

いうまでもなく、額田王の歌を踏えて詠んでいるが、この歌から察すると、平安時代の野寺は、蒲生野のしめ野を指したようである。『大日本地名辞書』には、「あかねさす」の歌について、「逝行とつづけたるは行歩の義に相違なきも、雪野山の辺にて、地名を掛けてよまれたるにやあらん」とあり、私はこの説に賛成したい。

「紫野ゆき標野ゆき」のユキは、野守のノにかかっており、ユキノの縁語に違いない。地形からいっても、山間の平野は、紫草に適しており、蒲が生えるような湿地帯ではない。それよりこの盆地自体が、既に「標野」の相をなしている。-白洲正子『近江山河抄』「あかねさす 紫野」


雪野山と龍王寺(雪野寺)。

貴重な植物を守るには、だだっ広い野原では無理で、世間から隔絶した、狭隘な土地を必要としただろう。せまいといっても、宮廷人が薬狩をするには手頃な面積で、かりに大海人皇子が袖を振ったとしても、ここなら必ず見ることが出来る。

おそらく天皇の行在所は、山の中腹の寺が建っているあたりにあり、額田王がそこから眺めていたとすれば、一幅の絵画になる。・・・万葉の歌の場合、現実の舞台の方は極く小さいのがふつうである。-白洲正子『近江山河抄』「あかねさす 紫野」


雪野山で咲いていたユウゲショウ(夕化粧)の花。

古墳の主の名はわからないが、・・・薬草を栽培するかたわら、標野の守護も兼ねたであろう。

もしそれが朝廷の直轄ではなく、一時的な標野であるなら、あかねや紫草を専有した人々は、非常に裕福だった筈である。「こもりく」と呼びたくなるような和やかな風景、小さな土地に不相応な古墳や出土品が、そういうことを物語る。[龍王寺の梵鐘を寄進した]小野時兼という人・・・寺名も人名も、「野」に関係があるのは注意していい。

すべてそうしたことが不明になったのも、立入禁止の標野であったからで、雪野寺の美しい名前だけが、歌枕として後世に残った。が、・・・少なくとも平安時代には、未だそういう記憶を止めていたと思われる。

その紫草も今はなく、ひと本の女郎花が、額田王の魂のようにゆれている―匡房はそういう情景を想像して(または実際に見て)、昔を懐かしんだのではないだろうか。
-白洲正子『近江山河抄』「近江路」

私が言えることはひとつ、蒲生野はどこへ行っても美しいということである。
そのことが多くの人のロマンを掻き立ててきたのだろうと思っている。

▼締めくくりに・・・女郎花(オミナエシ)はこんな花です
http://ja.wikipedia.org/wiki/オミナエシ

次回予定:「道の駅竜王かがみの里」周辺の隠れた名所を掲載します。
源義経ゆかりの場所(鏡神社と鏡宿、元服池)、西光寺跡の宝篋印塔、鏡山周辺の古墳


ご参考に:「あかねさす 紫野」関連リンク集~2014年6月現在

龍王寺(雪野寺跡) 滋賀県竜王町
龍王寺(近江水の宝/PDF)
鏡神社の社名の由来について知りたい(国立国会図書館レファレンス協同データベース)
埋蔵文化財活用ブックレット4 鏡山周辺の文化財(滋賀県教育委員会/PDF)
万葉の森 船岡山(滋賀県観光情報)
前近代:狭義の皇族「皇親」と広義の皇族「王氏」(ウィキペディア「皇族」)
現代語訳「継嗣令」(官制大観 律令官制下の官職に関わるリファレンス)

【近江バス時刻表】野洲駅(美松台経由三井アウトレットパーク行き)
※道の駅竜王かがみの里で下車。(片道380円)

【近江バス時刻表】道の駅竜王かがみの里
※野洲駅行き・近江八幡駅行きの両方が止まります。
※「山面」へは近江八幡駅行きまたは三井アウトレットパーク行き乗車5分。(片道180円)
※鏡山登山にもどうぞ。周辺地図⇒鏡山周辺の文化財(滋賀県教育委員会/PDF)

【近江バス時刻表】山面(やまづら)
※野洲駅行き・近江八幡駅行きの両方が止まります。(近江八幡駅へは片道420円)

【近江バス時刻表】近江八幡駅南口(竜王ダイハツ行き)
※龍王寺(雪野寺)へは川守で下車。(片道450円)

【近江バス時刻表】川守[かわもり](近江八幡駅南口行き)



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