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2014年6月

2014年6月30日 (月)

「新日本風土記」放送日のお知らせ(堅田・仰木が登場予定です)

 


先日お伝えした「新日本風土記」放送日のお知らせです。
「寿司」がテーマの回で、鮒寿司が取り上げられます。
堅田(鮒寿司)・献撰供御人行列(堅田から京都へ鮒寿司を奉納する祭事)・仰木の棚田(近江米の産地)が登場予定です。

テーマは「寿司」
放送日 2014年7月4日(金)午後9時
再放送 7月9日(水)午前8時
再放送 7月12日(土)午前6時
http://www.nhk.or.jp/fudoki/upcoming.html

▼7/18追記:「寿司」放送回の特集ページはこちらです。
http://www.nhk.or.jp/fudoki/140704broadcast1.html


 

 

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2014年6月28日 (土)

ちょっと涼しげな、優しいお顔立ちの仏様に出会いました。近江八幡の水郷、長命寺(808段の石段)の知られざる風景とともに。

 



撮影先で、ちょっと涼しげな、優しいお顔立ちの仏様(石仏)に出会いました。
梅雨の晴れ間に、滋賀県の近江八幡市へ行ってきました。








どこか懐かしい、日本の原風景のような場所。水郷めぐりの船が、ヨシ原の中を行く風景です。

「近江八幡の水郷」は、2006年(平成18)に国の「重要文化的景観」第1号に選定されました。

琵琶湖と繋がった西の湖(にしのこ)周辺に、ヨシ原と水路、水田が広がる美しい風景です。



近江八幡といえば、琵琶湖のほとりに、「808段の石段」を上る長命寺があります。

昨年の6月に訪ねたとき、もう一度、この石段の風景を撮りたいと思っていました。

というわけで、808段を上っての撮影です。





鬱蒼とした森と石仏が続きます。


まるで熊野古道のような趣のある長命寺参道。鳥居が印象的でした。


長命寺山の山腹、琵琶湖の見える場所に、長命寺(西国三十一番札所)があります。


三重塔と本堂の隣に、写真の三仏堂があります。(写真左側は護法権現社拝殿、奥は鐘楼)
昨年6月に行ったとき、三仏堂はちょうど工事中でした。



バスの時間があるので、短い滞在を惜しみながら、山道を戻りました。
この長命寺の麓から、車で10-20分ほどの所に、水郷の風景が数箇所残っています。
今回訪ねたのは、そのうちのひとつ、近江八幡市円山町です。


昭和になって周辺が干拓されるまで(大中の干拓)、こんな風景が広がっていたと思われます。
先の長命寺は西国三十一番札所ですが、三十二番の観音正寺まで、昔は船で行けたそうです。
観音正寺は安土の繖山(観音寺山)にあり、有名な安土山のそばに位置します。
安土城は三方水に囲まれた天然の要害であっただろうと、白洲正子さんは記しています。


奥に見える一番低い山が安土山だと、円山の船頭さんが教えてくれました。

ちなみに円山と長命寺の間にある北津田は、織田信長の先祖ゆかりの地といわれています。

 



五月雨は津田の入江のみをつくし見えぬも深きしるしなりけり (続後撰集)

と謳った覚盛法師は、平重盛の孫で、織田氏の先祖であったという。

平家が滅びた時、母親にともなわれてここに逃れ、津田氏を名のって北津田に住んでいたが、
信長は祖先と縁故の地を選んで、築城したのではあるまいか。

正確にいえば、覚盛法師の館が遠望される所に善美をつくした城を築いたので、いかにも
彼がやりそうなことである。-白洲正子『近江山河抄』「沖つ島山」

 


▼北津田、円山、そして長命寺の詳細については、バックナンバーをどうぞ。


沖つ島山3(近江八幡:水郷の風景、安土の山から見た西の湖、アジサイの咲く頃・長命寺)
~近江山河抄の舞台を歩く(28)
http://katata.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-2409.html

沖つ島山5(近江八幡:大嶋・奥津嶋神社<北津田>~渡合橋~水郷の風景<円山>/
圓山神社と寶珠寺)~近江山河抄の舞台を歩く(30)
http://katata.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-15ec.html


↑こちらは近江八幡市「北之庄町」の水郷めぐりです。
4月に「滋賀の桜(3) 近江八幡の水郷と、時代劇のロケ地・八幡堀」でご紹介しました。


 

 

 

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2014年6月18日 (水)

探訪【近江水の宝】重要文化的景観 高島市海津・西浜・知内の水辺景観をゆく 2014/6/28開催のお知らせ(申込みは6/26まで)

 



滋賀の重要文化的景観を訪ねて、琵琶湖畔を歩きませんか?という見学会のお知らせです。

場所は琵琶湖の西側、最北部にある高島市マキノ町。
リンク先の地図の通り、近江から越前(福井)へ通じる西近江路が通る街道の町です。

海津・西浜・知内地区の水辺の景観は、平成20年に国の重要文化的景観に選定されました。
海津地区は琵琶湖の港としても栄えた交通の要衝で、湖岸には見事な石積みが残っています。

「今回の探訪では、海津・西浜・知内地域文化的景観まちづくり協議会、
マキノまちづくりネットワークセンターのボランティアガイドと県・市の文化財専門職員が同行し、
海津・西浜・知内の水辺景観を詳しく訪ねます。」とのことです。(案内チラシより)

今回ご紹介する「水辺景観をゆく」は、滋賀県教育委員会主催の「近江歴史探訪」の一環です。
秋以降には、昨年ご紹介した飯道山や金勝山(写真)、前回掲載の竜王寺を探訪する回もあります!
ご参考までに、今後の日程とあわせて掲載しておきますね。

 

 

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2014年6月16日 (月)

「大津百町」の中の堅田~かつて大津旧市街に上堅田町・下堅田町と呼ばれた町がありました

 


堅田や近江(滋賀)をきちんと撮影したいと思い、
昨年の秋から、歴史博物館に通って勉強しています。

一旦調べだすと面白くて、脱線ばかりしていますが^^
思いがけない形で堅田に出会いました。

今回取り上げるのは、勉強していく中で知った
「大津の旧市街(大津百町)に堅田町と呼ばれた町があった」
という歴史のお話です。

「大津の中に堅田がある」と書くと、
「大津市北部に堅田という町がある」という意味に
理解するのが通常です。
(社会生活上はこちらの理解で十二分です^^)

ところが、今回ご紹介する堅田町は、
天正年間(1573-92・ほぼ安土桃山時代)に
堅田の船頭を大津に移住させたことで生まれたという、
歴史上の町なのです。

場所は、現在の大津市中央3丁目・大津市島ノ関。
ちょうど中央小学校周辺から島ノ関駅の辺りに、
上堅田町(かみかたたまち)・下堅田町(しもかたたまち)という
2つの町がありました。

古文書を見ると、上堅田町と下堅田町は
「堅田町」と総称されて登場していることがあります。


お手数ですが、地図の「+」マークをクリックして拡大の上、堅田町エリアをご覧下さい。

現在の大津市の地域は、
「大津町(いわゆる大津百町)」
「旧志賀町」「堅田」
「膳所」「瀬田」「石山」

というブロックに分けて考えたほうが、
理解しやすいかもしれません。

歴史的・地域的に独自のものがあって、
合併を繰り返して「大津市」になっているからです。


いわゆる堅田(通常の意味の堅田)は、
1090年に京都の下鴨神社の御厨(みくりや)となり、
以後は琵琶湖の水運や漁業権に関する特権を得て、
室町時代に琵琶湖最大の自治都市を築きました。

この話は、堅田から下鴨神社に鮒を奉納する供御人行列の中で、
何度もご紹介しています。

では、その後の歴史はどうなっていったのか。
調べていく中で出会ったのが、歴史上の堅田町でした。

1586年(天正14年)、豊臣秀吉は坂本城(明智光秀の居城)を廃城とし、
現在の大津港(浜大津)の辺りに大津城を築城します。

その際に、「大津百艘船」と呼ばれる船株仲間制度を作り、
坂本や堅田などの船持に湖上水運の特権を与えました。

堅田の船頭を大津の湖岸(いわゆる堅田町)に移住させ、
坂本城下の人々をやはり大津の湖岸(いわゆる坂本町)に
移住させています。

ちなみに大津の「堅田町」「坂本町」「船頭町」は、
船頭が多く居住する町として、古文書にも登場しています。


その後、関ヶ原の合戦で大津城は廃城となり、城は膳所に移りました。
大津城の天主は、写真の彦根城に移されたといわれています。

江戸時代になると、大津は江戸幕府の直轄(天領)となります。
大津城の跡には御蔵(幕府の蔵)と大津代官所が置かれました。

そして、「大津百町」(おおつひゃくちょう)と呼ばれる百個の町から成る
商業都市へと大津は移り変わっていきます。

この「大津百町(おおつひゃくちょう)」のうちの二つが、上堅田町と下堅田町です。

江戸時代の大津は、東海道の宿場町、三井寺の門前町、
そして琵琶湖の港町として賑わったと伝えられています。

 

 

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2014年6月11日 (水)

あかねさす 紫野2(道の駅 竜王かがみの里周辺の隠れた名所をめぐる。老々塚古墳・東山道鏡宿・義経元服池・鏡神社・西光寺跡の宝篋印塔:滋賀県蒲生郡竜王町)~近江山河抄の舞台を歩く(65)

 




それはまるで石舞台古墳のような、見事な古墳だった。

住宅街のはずれにある児童公園に案内板を見つけて、山へと続く小道をたどってゆく。
公園入口から1、2分しか歩いていないのに、山中に突如現れた老々塚古墳(三ッ山古墳群)。
鏡山周辺には古墳が多いと聞いていたが、この古墳には本当に驚いた。
石室というのは地中に埋まっていることが多いが、ここではほとんどが地表に現れている。



石室上部にはかなり大きな石を使っている。

三ッ山古墳群は6世紀中頃から7世紀前半頃の古墳群で、代表的な古墳がこの老々塚古墳だ。
所在地は滋賀県蒲生郡竜王町山面(やまづら)。美松台という住宅街の一角にある。



石室内部の様子。精緻に石が積み上げられているのが分かる。

前回ご紹介したように、竜王町と野洲市の境にある鏡山周辺は、須恵器の一大生産地だった。
鏡山周辺に多い古墳群は、須恵器生産に関わった人々と関連があると考えられているようだ。
老々塚古墳からは、竜をデザインした金銅製の太刀飾りが出土している。



こちらは横から見たところ。

天井には板状の石を2つ使っていることや、石の積み方がよく分かる。

 



中山道は・・・小篠原を経て、鏡山、竜王山とあまり高くない丘陵がつづくが、
そのいずれにも大きな古墳群があり、銅鐸もこの辺からたくさん出土している。
-白洲正子『近江山河抄』「あかねさす 紫野」

 


ちなみに、鏡山周辺(竜王町)にある古墳は、分かっているだけで以下の通り。
星ヶ崎古墳、広谷池古墳、三ッ山古墳群(老々塚古墳)、砂山北古墳群、岩屋古墳、オウゴ古墳。
隣の野洲市では銅鐸が多数出土し、日本一の大きさの銅鐸が発見されている。

☆三ッ山古墳群へは、野洲駅または近江八幡駅発の近江バスで「山面」(やまづら)下車。
食品会社と美松台の間の坂道を行くと、分岐点に矢印看板がある。
さらに進むと児童公園があって、「高塚古墳」と「三ッ山古墳」の看板が出ている。

▼アクセスなど、こちらの地図にまとめてみました。


滋賀県蒲生郡竜王町鏡は、東山道の宿駅「鏡宿」として栄えた場所である。
東山道は中山道の前身となった街道で、鏡宿は京都から東国へ行く際に通る場所だった。
「道の駅竜王かがみの里」の周辺には、隠れた名所が多い。



「道の駅 竜王かがみの里」バス停そばには、源義経が元服したという言い伝えの池がある。

鞍馬山を出た牛若丸(義経)は、追っ手の目をくらますために鏡宿で元服したと言われている。
鏡宿は東山道の宿駅として平安末期から室町時代にかけて栄えた。ちょうど義経の時代である。
江戸時代に中山道が整備された際、隣の守山宿と武佐宿が宿駅となったことで、鏡宿は衰退する。
現在は国道8号線となっているが、車が勢い良く走り抜けていく以外は、とても静かな場所だ。



現在の鏡宿と、国道8号線。

写真左側の民家の奥、緑が見えているのが鏡神社の入り口付近になる。
この少し先に、本陣跡と脇本陣跡、義経が泊まったという白木屋跡がある。



鏡神社の入り口にて。当地で元服したという義経は、鏡神社に参拝したと伝わっている。

境内社の八幡神社(はちまんじんじゃ)では、応神天皇と源義経を合祀している。
左側の御神木(松の木)のアップが、こちら↓



「源義経の烏帽子掛けの松」。

これにちなんだ謡曲「烏帽子折」の前半の舞台が、鏡神社である。

▼義経元服に際しての物語は、竜王町観光協会ホームページに詳しいのでご参照下さい。
http://www.town.ryuoh.shiga.jp/yoshitune/genpuku.html



撮影したのは5月中旬だったので、鏡山周辺の麓ではあちこちでツツジが咲いていた。




義経の元服の話だけでなく、鏡には興味深い伝承が多い。


「あかねさす紫野」の歌で知られる額田王は、一説に鏡の出身だったと言われている。
額田王の父・鏡王は、近江国野洲郡鏡里の豪族とも、神官だったとも伝わっている。

また鏡神社の祭神・天日槍(あめのひぼこ)は新羅の王子で、当地に須恵器を伝えたという。
日本書紀には、天日槍と鏡山、近江国の鏡村の陶人(すえびと)の話が出てくる。
鏡山周辺には須恵器の窯跡が多く、竜王町には「須恵」という地名が残っている。
※詳細は前回(あかねさす紫野1)をご覧下さい。



「道の駅竜王かがみの里」の駐車場の隣には、最澄が中興したという西光寺の跡がある。

室町時代の石灯籠(写真中央)と鎌倉時代の宝篋印塔が残っている。いずれも重要文化財。



西光寺跡の宝篋印塔。

二段の基壇の上に基礎を置き、基礎には向かい合う孔雀が彫られた格狭間がみられる。
高さは2.1mと大きい。塔身(ベージュ色の部分)の四隅にあるふくろうの彫刻が特徴だという。

 



そこ[鏡神社]から南側へ渡った松林の中に有名な鏡山の宝篋印塔が建っている。・・・
ふくろうを彫った塔身・・・が、閑散とした赤松林の中に突然、現れたときはびっくりした。
このような石塔はお寺の中に建っているより、自然の中で見る方が美しい。
それもなるべくなら思いがけなく出会った方がいい。-白洲正子『近江山河抄』「あかねさす 紫野」

 




西光寺跡の石灯籠と宝篋印塔。この奥はハイキングコースになっている。

案内板には、ここから30分程歩くと星ヶ崎古墳と星ヶ崎城跡があると出ていた。
星ヶ崎城は東山道と鏡宿を見渡せる場所にあることから、軍事上の要衝だったと考えられている。

星ヶ崎城は、鏡を本拠とした鏡氏(近江源氏佐々木氏の一族)の居城と伝わる城である。
その鏡氏が従ったのが、同じく佐々木氏の一族である六角氏だった。
六角氏といえば、鎌倉から戦国時代にかけて近江南部を拠点とした守護大名である。
六角氏は安土の観音寺城を居城とし、観音寺城には佐生(さそう)城などの支城があった。
星ヶ崎城は佐生城と建築上の特徴が似ていることから、六角氏に関連する城と考えられている。


この地図の左下↑にある「鏡山」(星ヶ崎城)からは、観音寺城まで望めるという。
観音寺城といえば、寺院(観音正寺)を山城の一部として利用した城だった。
鏡山北東端・星ヶ峰の山頂にある星ヶ崎城には、かつて山岳寺院があったといわれている。
星ヶ崎城と麓の西光寺の間にも、何か関連性があったのではと考えられているようだ。



「道の駅 竜王かがみの里」駐車場付近から見た、鏡山と西光寺跡(仁王堂)。

ドライブやハイキングの際にはぜひお立ち寄り下さい。


ご参考に:「あかねさす 紫野2」関連リンク集~2014年6月現在


竜王の遺跡(竜王町観光協会)
※古墳の解説と周辺地図です。

西光寺跡の宝篋印塔(滋賀県観光情報)
鏡山周辺の文化財(滋賀県教育委員会/PDF)
※解説と周辺地図です。

観光情報 歴史民俗博物館(野洲市)
※竜王町のお隣、野洲市の銅鐸博物館の情報です。

バス時刻表
【近江バス時刻表】野洲駅(美松台経由三井アウトレットパーク行き)
※道の駅へは「道の駅竜王かがみの里」で下車して下さい。(片道380円)

【近江バス時刻表】道の駅竜王かがみの里
※野洲駅行き・近江八幡駅行きの両方が止まります。
※三ッ山古墳群へは近江八幡駅行き又は三井アウトレットパーク行きで山面下車。(片道180円)
※鏡山登山にもどうぞ。周辺地図⇒鏡山周辺の文化財(滋賀県教育委員会/PDF)

【近江バス時刻表】山面(やまづら)
※野洲駅行き・近江八幡駅行きの両方が止まります。(近江八幡駅へは片道420円)


 

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2014年6月 9日 (月)

あかねさす 紫野1(蒲生野の額田王の歌ゆかりの地をめぐる。鏡神社・龍王寺(雪野寺跡):滋賀県蒲生郡竜王町)~近江山河抄の舞台を歩く(64)

 




白洲正子さんの紀行文『近江山河抄』(1974年刊)の舞台を写真とともにご紹介しています。
これでちょうど1000枚目の写真になりました。(撮影日:2014年5月19日)


冒頭の写真は、蒲生郡竜王町の美松台という住宅街で撮影したもの。
タイトルの「あかねさす 紫野」は、万葉集に出てくるおなじみの相聞歌からとっている。

「茜さす 紫野行き 標野(しめの)行き 野守は見ずや 君が袖振る」(額田王)
「紫草(むらさき)の 匂へる妹(いも)を 憎くあらば 人妻故に 我恋ひめやも」(大海人皇子)

この歌は近江の蒲生野(がもうの)で668年に行われた薬狩の際に詠まれたと言われている。
だが、「標野」が蒲生野のどこにあったのか、はっきりしていない。



蒲生野の手がかりになるのは、近江(滋賀)の蒲生郡(がもうぐん)という地名である。

1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、ウィキペデイアによれば以下の通り。
・竜王町の全域
・日野町の大部分(下駒月を除く)
・近江八幡市の大部分(江頭町・十王町・小田町・野村町・佐波江町・丸の内町を除く)
・東近江市の一部

 



蒲生野は広い。北は安土から南は水口のあたりまで、西は鏡山から日野のはずれに及び、湖東・湖南の平野の大部分を占めている。ということは、つまりはっきりしないのであって、まして薬狩がどこで行われたか知る由もない。
・・・
地図で見ると、日野町の東の鈴鹿山中に、竜王山という山があり、日野川と佐久良川は、そこから流れ出て、雪野寺[現在は龍王寺]の手前で合流する。その流域には、鬼室(きしつ)神社、綿向神社、石塔寺、苗村(なむら)神社などが点在し、古い歴史の道であったことを示している。帰化人と関係あるらしいことも、私には興味があった。-白洲正子『近江山河抄』「あかねさす 紫野」

 




蒲生野の額田王の歌碑といえば、東近江市の「万葉の森 船岡山」が知られている。

船岡山の山頂からは蒲生野を見渡せることから、ここに歌碑が置かれたのだろう。
写真は船岡山に近い安土町内野~東近江市糠塚町付近にて、昨年秋に撮影したもの。
この辺りは昨年秋にご紹介した瓦屋寺・太郎坊宮の麓に位置し、近江鉄道の市辺駅に近い。

市辺駅の南東1kmほどのところには、市辺押磐皇子(いちのべおしはのみこ)御陵がある。
市辺の地名(東近江市市辺町)は、この御陵に由来すると言われている。
日本書紀によれば、5世紀中頃、安康(あんこう)天皇が市辺皇子に皇位を譲ろうとした。
しかし、これを恨んだ従兄弟(後の雄略天皇)が狩りに市辺皇子を誘い出して殺してしまう。
皇子が誘い出された「蚊屋野」は、現在の蒲生郡日野町鎌掛付近と言われている。

市辺皇子は「八日市のあたりを領し、大和朝廷に匹敵する程の勢力を蓄えていた」(近江山河抄)。
市辺や糠塚周辺が、早くから開けていた地域だったのは確かだろう。

☆関連情報:糠塚町には「万葉の郷ぬかづか」という直売所があって、ここのパンは絶品!
自販機やトイレもあって、ハイカーさん・ドライバーの皆さんにおすすめの場所です。



額田王(ぬかたのおおきみ)の故郷は諸説あるが、一説に蒲生野の鏡山付近だと言われる。

日本書紀には「天皇、初め鏡王の娘、額田王をめして、十市皇女を生しませり」とある。
(天皇とは、後の天武天皇、つまり大海人皇子のこと。)

鏡王(かがみのおおきみ)、額田王・・・「王」から推察されるのは、皇族だということである。
継嗣令によれば、天皇の二世(孫)から五世(来孫)は「王」と呼称すると定められている。
(当初は「王」は四世(玄孫)までで、慶雲3年(706年)に五世まで拡大されている。)

額田王の父・鏡王は、近江国野洲郡鏡里の豪族とも、神官だったとも伝わっている。
また壬申の乱の際には、大友皇子側について戦死したと言われている。
額田王の娘・十市皇女(とおちのひめみこ)は、大友皇子(天智天皇の皇子)の妃である。
大友皇子と大海人皇子(天智天皇の弟)が戦った壬申の乱は、鏡一族に大きく影響しただろう。

鏡里は現在の滋賀県蒲生郡竜王町鏡。国道8号線沿いに道の駅「竜王かがみの里」がある。
東山道の宿駅「鏡の宿」として栄えたところで、付近には古墳や遺跡がとても多い。
鏡へは、野洲駅から三井アウトレットパーク滋賀竜王行きの路線バスが出ている。
「道の駅 竜王かがみの里」で降ると、すぐそばに鏡神社がある。


鏡神社の伝承によれば、額田王は、姉の鏡女王とともに巫女として宮廷に仕えたという。

鏡女王(鏡王女)ははじめ天智天皇の妃だったが、後に藤原鎌足の正妻となったと言われる。
額田王の姉妹ではないとする説もあり、詳しいことは分かっていない。

額田王は大海人皇子の恋人で、後に天智天皇(大海人皇子の兄)の後宮に入ったと言われる。
三角関係の証拠(?)としてよく挙げられるのが、冒頭の「茜さす紫野」の歌とその返歌。
だがこの歌、宴席での座興の歌ではないかと考える説が有力になってきているようだ。

というのも、歌が詠まれた翌年頃、娘の十市皇女と大友皇子の間に皇子(孫)が生まれている。
それだけの歳月が流れて、宮廷行事で皆の前で公に詠まれた歌であることを考えると、
激しい恋の歌というよりも、どこか相手をからかうユーモアのある歌と解釈するのが自然だろう。

 



「野守は見ずや」といい、「君が袖振る」といどまれては、昔の恋人として一言あらずばなるまい。
そこで、「人妻ゆゑに」愛さないことがありましょうか、と報いたが、拍手喝采した人々の歓声が
聞えるようである。
・・・
家系からいっても、祭事とは密接な関係があり、故郷の野べで行われる狩猟には、欠くことのできないスターであったであろう。見物人を意識したのは当り前のことで、意識したからあのように魅力
的な歌がよめたのである。・・・大向うをうならせる手腕と、ひとり呟くささめ言と、その両方を兼ねたところに彼女の真価がある。天智・天武両帝に愛されたのは当然といえよう。
-白洲正子『近江山河抄』「あかねさす 紫野」

 




鏡神社本殿(写真奥)は、南北朝時代の三間社流造柿葺。重要文化財になっている。

祭神の天日槍(あめのひぼこ)は、古事記や日本書紀に出てくる新羅の王子である。

日本書紀には、垂仁3年3月、新羅王子の天日槍が神宝を奉じて来朝したとある。

「捧持せる日鏡を山上に納め鏡山と称し、その山裾に於て従者に陶器を造らしめる」
鏡山というのは、天日槍が持参した日鏡にちなんだ名前らしいことが分かる。

同じく日本書紀には「近江国の鏡村の谷の陶人(すえびと)は、天日槍の従人なり」とある。
朝鮮半島からやってきた製陶業(須恵器づくり)の技術者をこの地に住まわせたのだろう。
鏡山周辺には須恵器の窯跡が多く、竜王町には「須恵」という地名が残っている。

須恵器について調べていくと、『古墳の話』(小林行雄著・岩波新書)に興味深い記述があった。
半島の新しい技術(須恵器など)を知った支配者たちは、より良い品を身近に置きたいと願った。
そこで百済や新羅に技術者の献上を要求し、新しい部民として都の近辺に定住させたという。
5世紀後半以降に多くみられた事象で、その一つが「陶部」(すえつくりべ)だった。
須恵器をつくる最先端の技術者集団が、鏡をはじめとする各地に迎えられたのである。



鏡山周辺には古墳が沢山あると聞いていたので、その一つに立ち寄ってみた。

道の駅からバスに乗って5分ほど行くと、山面(やまづら)というバス停がある。
バスを降りて、冒頭の写真の美松台へ入っていくと、見事な古墳があった・・・!!
※三ッ山古墳群(老々塚古墳)については、次回、詳しくご紹介します。

龍王寺までは山面から車で15分程度だが、バス路線がないので近江八幡駅まで行くことに。
近江八幡駅南口から竜王ダイハツ行きのバスに乗り、川守(かわもり)というバス停で降りる。



日野川の方向へ歩いていくと、田植えを終えた田圃の向こうに、雪野山が見えた。

川守バス停の向かいにあった龍王寺の看板を頼りに歩いていくと、15分ほどで寺に着いた。
雪野山の山頂付近には雪野山古墳があり、今年(2014年)3月に国の史跡に指定されている。



雪野山麓にある龍王寺は、かつて、雪野寺と呼ばれた古刹である。

白洲さんは、雪野寺の場所が分からず、二、三十年が過ぎたと書いている。
雪野寺が名を変えていたことを知らず、道が分からなかったとも。
私自身も土地勘がある訳ではないので、手がかりのない取材のご苦労はよく分かる。

 



いつのことだったか・・・[大学の考古学教室で]発掘品が並んでいるガラス戸棚の隅に、美しい
童子の首があることに気がついた。うかがってみると、近江の雪野寺で発見されたものとかで、
・・・秀でた眉の線のたしかさ、唇と顎のあたりのふくよかなぬくもりは、あきらかに白鳳の面影を伝えていた。軽く閉じた眼からは、今にも涙の一滴がこぼれ落ちそうで、その崇高とも無心ともいえる表情から、私は拝んでいる姿を想像した。・・・このような群像を擁していた塔は、どんなに見事な建築であったことか。雪野寺の名が忘れられなくなったのは、その時以来のことである。
-白洲正子『近江山河抄』「あかねさす 紫野」

 


▼雪野寺跡から出土した塑像童子形の写真はこちらをどうぞ(リンク)
雪野寺跡 童子形(Googleイメージ)



雪野寺こと龍王寺の鐘楼(滋賀県蒲生郡竜王町川守)。

 



雪野寺は現在「竜王寺」という・・・が、通称「野寺」ともいい、その方がこういう所の景色にふさわしい。寺伝によると、元明天皇の和銅三年、行基菩薩によって建立され、度々の兵火に消滅したが、平安時代に再興し、一条天皇から「竜寿鐘殿」の勅額を給わり、以来、竜王寺と呼ばれるに至ったという。
その鐘は今も本尊として鐘楼の中に祀ってあり、奈良時代の美しい姿の梵鐘である。
・・・
平安時代には、歌枕の名所となり、特にその鐘は特別なひびきをもって聞えていたらしい。
  暮れにきと告ぐるぞまこと降り晴るる雪野の寺の入相の鐘  和泉式部
-白洲正子『近江山河抄』「あかねさす 紫野」

 




雪野寺跡の宝篋印塔(龍王寺境内)。




龍王寺の本堂には「雪野寺」の文字。




龍王寺境内の石仏。歴史の深さを感じさせる。

隣には川守天神社があって、雪野山古墳ハイキングコースの看板がある。
5分程歩いていくとイノシシよけの扉があって、目の前に古墳群が続いていた。



天神山古墳群。手前が1支群4号墳、奥が1支群5号墳である。

6世紀後半~7世紀初頭の古墳と考えられており、蒲生郡では唯一といってよい副室構造だという。
中盤でご紹介した三ッ山古墳群が「横口式石室」なのに対し、こちらは「横穴式石室」である。

ちなみに、川守天神社から雪野山古墳までは徒歩30分だと案内板に出ていた。
ハイキングコースとして整備されており、丁寧に案内板が設置してあるのがありがたい。
雪野山古墳は埋め戻されて中を見ることはできないが、近くの妹背の里に復元模型がある。
この周辺は2013年秋の台風18号で被害を受けたが、駐車場では復旧工事が進んでいた。

☆関連情報:妹背の里は通常営業されています。http://ryuoh.or.jp/imosenosato.html



雪野寺跡(龍王寺境内)にて。伽藍の跡は何も残っていない。

だが、白洲さんが考える「標野」は、この雪野山なのである。
標野とは、皇室や貴人の所有地で一般の者の立ち入りを禁止した野という意味をもつ。
額田王と大海人皇子の歌を再掲した後、最後に白洲さんの推理をご紹介したい。

「茜さす 紫野行き 標野(しめの)行き 野守は見ずや 君が袖振る」(額田王)
「紫草(むらさき)の 匂へる妹(いも)を 憎くあらば 人妻故に 我恋ひめやも」(大海人皇子)

 



大江匡房に次のような歌がある。
  蒲生野のしめのの原の女郎花野寺に見するいもが袖なり (夫木集)

いうまでもなく、額田王の歌を踏えて詠んでいるが、この歌から察すると、平安時代の野寺は、蒲生野のしめ野を指したようである。『大日本地名辞書』には、「あかねさす」の歌について、「逝行とつづけたるは行歩の義に相違なきも、雪野山の辺にて、地名を掛けてよまれたるにやあらん」とあり、私はこの説に賛成したい。

「紫野ゆき標野ゆき」のユキは、野守のノにかかっており、ユキノの縁語に違いない。地形からいっても、山間の平野は、紫草に適しており、蒲が生えるような湿地帯ではない。それよりこの盆地自体が、既に「標野」の相をなしている。-白洲正子『近江山河抄』「あかねさす 紫野」

 



雪野山と龍王寺(雪野寺)。

 



貴重な植物を守るには、だだっ広い野原では無理で、世間から隔絶した、狭隘な土地を必要としただろう。せまいといっても、宮廷人が薬狩をするには手頃な面積で、かりに大海人皇子が袖を振ったとしても、ここなら必ず見ることが出来る。

おそらく天皇の行在所は、山の中腹の寺が建っているあたりにあり、額田王がそこから眺めていたとすれば、一幅の絵画になる。・・・万葉の歌の場合、現実の舞台の方は極く小さいのがふつうである。-白洲正子『近江山河抄』「あかねさす 紫野」

 



雪野山で咲いていたユウゲショウ(夕化粧)の花。

 



古墳の主の名はわからないが、・・・薬草を栽培するかたわら、標野の守護も兼ねたであろう。

もしそれが朝廷の直轄ではなく、一時的な標野であるなら、あかねや紫草を専有した人々は、非常に裕福だった筈である。「こもりく」と呼びたくなるような和やかな風景、小さな土地に不相応な古墳や出土品が、そういうことを物語る。[龍王寺の梵鐘を寄進した]小野時兼という人・・・寺名も人名も、「野」に関係があるのは注意していい。

すべてそうしたことが不明になったのも、立入禁止の標野であったからで、雪野寺の美しい名前だけが、歌枕として後世に残った。が、・・・少なくとも平安時代には、未だそういう記憶を止めていたと思われる。

その紫草も今はなく、ひと本の女郎花が、額田王の魂のようにゆれている―匡房はそういう情景を想像して(または実際に見て)、昔を懐かしんだのではないだろうか。
-白洲正子『近江山河抄』「近江路」

 


私が言えることはひとつ、蒲生野はどこへ行っても美しいということである。
そのことが多くの人のロマンを掻き立ててきたのだろうと思っている。

▼締めくくりに・・・女郎花(オミナエシ)はこんな花です
http://ja.wikipedia.org/wiki/オミナエシ


次回予定:「道の駅竜王かがみの里」周辺の隠れた名所を掲載します。
源義経ゆかりの場所(鏡神社と鏡宿、元服池)、西光寺跡の宝篋印塔、鏡山周辺の古墳



ご参考に:「あかねさす 紫野」関連リンク集~2014年6月現在


龍王寺(雪野寺跡) 滋賀県竜王町
龍王寺(近江水の宝/PDF)
鏡神社の社名の由来について知りたい(国立国会図書館レファレンス協同データベース)
埋蔵文化財活用ブックレット4 鏡山周辺の文化財(滋賀県教育委員会/PDF)
万葉の森 船岡山(滋賀県観光情報)
前近代:狭義の皇族「皇親」と広義の皇族「王氏」(ウィキペディア「皇族」)
現代語訳「継嗣令」(官制大観 律令官制下の官職に関わるリファレンス)

【近江バス時刻表】野洲駅(美松台経由三井アウトレットパーク行き)
※道の駅竜王かがみの里で下車。(片道380円)

【近江バス時刻表】道の駅竜王かがみの里
※野洲駅行き・近江八幡駅行きの両方が止まります。
※「山面」へは近江八幡駅行きまたは三井アウトレットパーク行き乗車5分。(片道180円)
※鏡山登山にもどうぞ。周辺地図⇒鏡山周辺の文化財(滋賀県教育委員会/PDF)

【近江バス時刻表】山面(やまづら)
※野洲駅行き・近江八幡駅行きの両方が止まります。(近江八幡駅へは片道420円)

【近江バス時刻表】近江八幡駅南口(竜王ダイハツ行き)
※龍王寺(雪野寺)へは川守で下車。(片道450円)

【近江バス時刻表】川守[かわもり](近江八幡駅南口行き)


 


 

 

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