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2014年3月10日 (月)

伊吹の荒ぶる神4(琵琶湖岸の神話の町~朝妻湊跡と湖底遺跡、世継の七夕伝説、山内一豊の母・法秀院ゆかりの地、元伊勢・坂田神明宮(滋賀県米原市朝妻筑摩・世継・飯・宇賀野))~近江山河抄の舞台を歩く(62)


関ケ原を越えて滋賀県に入ると、最初に迎えてくれるのが伊吹山である。
標高1,377m。日本百名山のひとつであり、美しいお花畑で知られている。
その麓に広がる風景を写真でご紹介しているのが、「伊吹の荒ぶる神」シリーズになる。

参考にしたのは、随筆家・白洲正子さんの紀行文『近江山河抄』(1974年刊)である。
2013年夏にまずご紹介したのが、中山道の宿場町である柏原と醒井(米原市柏原、醒井)。
そして、独自の情報として、醒井養鱒場で知られる上丹生(米原市上丹生)を追加した。
今回は3回に分けて、琵琶湖岸から関ケ原まで、伊吹山の麓の風景をご紹介します。
(撮影:2014年2月、2013年10月)


朝妻湊跡(米原市朝妻)。奈良時代から江戸時代に至るまで、湖上交通の要衝だった。
奈良時代、朝妻の隣の筑摩付近に、大膳職御厨(朝廷の台所)が置かれた。
朝妻は、北近江・美濃・飛騨・信濃からの献上品や役人を運ぶための港として賑わった。
朝妻湊からは大津、坂本へ定期便が出ていたという(※大津、坂本から京都へは陸路)。
この付近は「朝妻千軒」といわれ、家屋が千軒以上あったといわれる。
木曽義仲や織田信長が京都に向かって船出したのも、この朝妻湊からだった。

醒井の近くの湖水のほとりには、「世継」という村があるが、『大鏡』、『今鏡』などの物語が、「世継の翁」によって語られたのをみると、日本武だけでなく、神功皇后や武内宿禰の伝説の、おおよその出所は見当がつく。『坂田郡志』によると、世継は四ツ木とも書き、大きな木が四本立っていたというが、舞台か祭場のようなものを聯想させる。・・・上古に繁栄した朝妻の港の一部だから、世継の翁の語りを聞きに、集まる人も多かったと想像される。
-白洲正子『近江山河抄』「伊吹の荒ぶる神」

慶長18年(1612)、北村源十郎という人物が、現在のJR米原駅付近に米原港を開設する。
米原港、松原港、長浜港が彦根三港といわれ栄えていく中、朝妻湊は廃止となった。
明治18年(1886)、鉄道が敷かれると米原港も廃止され、時代は陸上交通へと変遷していく。
朝妻湊跡は現在、憩いのための公園になっている。


朝妻の尚江集落は、正中2年(1325)の大地震でほとんどが湖中に没したという伝承がある。
調査の結果、朝妻湊跡沖の湖底で、12世紀中葉を中心とする土器や軒平瓦が見つかった。
尚江千軒遺跡である。


筑摩神社に掲示してあった「尚江千軒遺跡」の解説。
筑摩神社沖でも、土坑や7~8世紀の須恵器横瓶を伴う石群が確認されている。


筑摩神社。神功皇后(オキナガタラシヒメ)が祈願したという伝承が残る神社である。
JR米原駅から、米原小学校脇の道を川沿いに30分ほど歩くと到着する。
車だと「入江橋」の信号の南になる。琵琶湖に面した車道のすぐそばに神社がある。


筑摩神社の例祭は「鍋冠まつり」といい、日本三大奇祭の一つとして知られている。
数え年8つの少女8人が狩衣姿に張子の鍋をかぶって、お旅所から筑摩神社まで歩く。
毎年5月3日に行われており、『伊勢物語』に「筑摩の祭」と詠まれている歴史ある祭である。

祭神が食物の神であることから、穀物を土鍋に入れて供えたのが起源と考えられている。
筑摩付近に置かれていた御厨(朝廷の台所)の様子を再現したという説もある。
「近江なる 筑摩の祭 とくせなむ つれなき人の 鍋のかず見む」(伊勢物語)


筑摩神社の南には、磯崎神社という興味深い神社がある。
なんと、ヤマトタケルノミコトは、当地(磯の地)で亡くなったという伝承があるのだ。
伊吹の神と戦って瀕死の重傷を負ったヤマトタケルノミコトは、居醒の清水で傷を癒した。
古事記、日本書紀には、その傷が元で亡くなったと書かれている。
伝承を元に磯崎神社が建てられ、ヤマトタケルノミコトは守護神として祭られた。

「鍋冠まつり」と同じ5月3日に、磯崎神社では「磯武者行列」という例祭が行われている。
ヤマトタケルノミコトにあやかって、男児は武者姿、女児は稚児姿で湖岸を巡行する。
鍋冠まつりといい、磯武者行列といい、民俗学的にも興味深い祭礼だと感じる。


話は世継に戻る。朝妻と世継には、湖北の七夕伝説が残っている。
↑世継の観光地図(写真)です。クリックすると拡大します。


朝妻神社。かつては牛頭天皇社と呼ばれ、境内の外に彦星の墓と言われる石が残っている。


想い人のいる女性は朝妻神社にお参りするといい。地元の方にそう教えていただいた。
ここは恋が叶う神社なのだ。


「天野川」(あまのがわ)にかかる朝妻橋を渡ると、世継の蛭子神社がある。
ここには仁賢天皇の第二皇女・朝濡(織姫)の墓がある。

想い人のいる男性は蛭子神社にお参りするといいと、地元の方に教えていただいた。

正式な手順を踏みたい人は、7月1日からの7日間、男性は姫宮(蛭子神社)へ、
女性は彦宮(朝妻神社)にお参りする。
そして、七夕の夜に2人の名前を書いた短冊を結び、天野川に流すと恋が成就する、という。
これが湖北の七夕伝説である。


天野川(あまのがわ)にかかる朝妻橋。朝妻神社と蛭子神社をつないでいる。


蛭子神社の境内にある句碑。先述した世継の翁の伝承を踏まえた歌である。
「鳰鳥(にほどり)の 息長川は 絶えぬとも 君に語らん 言(こと)つきめやも (万葉集)」
先程の「天野川」の古名が、息長川である。

この歌は、聖武天皇と光明皇后が、難波宮に幸された時、「河内の国 伎人(くれ)の郷の馬の国人」が奉ったと伝える。伊吹山中に発する息長川は、天野川となって朝妻で湖水に入るが、その川が絶えることがあっても、お話することはつきないでしょう、という言葉は、あきらかに世継の語りを踏えている。琵琶湖には鳰鳥(かいつぶり)がたくさんいるので、「鳰の海」[注:におのうみ]とも呼ばれたが、水中にもぐっていることの出来る息の長い鳥だから、息長の枕詞にも転用された。・・・伊吹おろしの凄まじさと、鳰鳥の息の長さと、そういうものが交り合って、息長氏の伝承となり、ひいては長命寺の由来を形づくるに至った。-白洲正子『近江山河抄』「伊吹の荒ぶる神」

息長(おきなが)氏。伊吹山の麓を歩くと、決まってぶつかる名前だった。

ヤマトタケルノミコトの妃の一人は息長氏だし、米原市内には息長陵と呼ばれる古墳がある。
息長陵に祀られているのは、敏達天皇の皇后・息長広姫(おきなが ひろひめ)といわれている。
調べていくと、息長広姫は、大津に都を開いた天智天皇の曾祖母にあたる人物だった。
ちなみに天智天皇の父(舒明天皇)の諡名は、息長足日広額(おきなが たらしひ ひろぬか)。

安(注:現在の野洲)の三上氏も、坂田郡の坂田氏も、みな息長の一族であった
オキナガタラシヒメと呼ばれた神功皇后も、この一族の出であったと白洲さんは記す。
息長氏は近江の一大勢力だった。


天野川が流れる世継の集落には、「かなぼう」と呼ばれる井戸水が見られる。
鉄分を含んだ霊仙山の伏流水が、地下100メートル前後から湧き出しているのだ。
かなぼうは三層になっていて、一層目は飲料水、二層目は冷却用に使う。
三層目(ゴザがかけてある箇所)は、野菜などを洗う生活用水として使われている。


世継からJR坂田駅へ向かって歩くと、天野川のほとりに、飯という集落がある。
ここは、山内一豊の妻として知られる千代のふるさとである。
千代の父は浅井家の家臣で、若宮喜助友興という武士だった。
幼くして両親を亡くした千代は、隣の宇賀野という集落に裁縫と行儀見習いに行っていた。
その人物こそが、一豊の母・法秀院だった。
法秀尼は戦で夫を亡くし、織田信長に追われて、宇賀野の長野家に身を寄せていた。
利発な千代を見初めた法秀院が、息子(一豊)の妻に推したと言われている。


息子の迷惑になることを慮った法秀院は、最期まで宇賀野を離れなかったという。
宇賀野もまた水の美しいところで、集落を水路が巡っていた。
地元の方のご案内で、法秀院や長野家のお話を伺うことができた。


宇賀野にある法秀院の墓。平成9年に現在の新しい墳墓になっている。
現在は地元の方が顕彰会を作って、大切に守っている。


坂田駅前にある、山内一豊と千代の像。地元の彫刻家の方の作品だと伺った。
NHKの大河ドラマ「巧妙が辻」(司馬遼太郎さん原作)の放送に際して作られたものだという。
一豊と千代が二人並んでいる像は、全国でもここだけだという話だった。


坂田駅のそばには「坂田神明宮」がある。内宮の坂田宮は元伊勢(もといせ)の一つである。
伊勢神宮は、伊勢に鎮座するまで、大和・伊賀・近江・美濃・尾張を移動した伝承をもつ。
一時的に鎮座した場所は元伊勢(もといせ)と呼ばれ、その一つが近江の坂田宮である。
伝承には、伊勢への道中、倭姫命は坂田宮(さかたのみや)に2年滞在したとある。

元伊勢については、近江のもうひとつの元伊勢、甲可日雲宮をめぐる話を参照いただきたい。
http://katata.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-01c0.html


坂田神明宮の境内にあった井戸。神秘的な水の色だった。
歴史ある社寺や建造物を撮っていると、自分の理解の次元を越えるものに出会うことが多い。
そんな時、神話や伝承は何かの寓話であって、暗示するものがあるように感じる。

神話の世界をどう捉えるかは難しいが、何かを政治的に美化するということではなくて、
ただその根底にあるものをつなげてみようというのが、今回の撮影のスタンスにある。
神話は好き嫌いというよりも、共同体の深層心理を探る一つの手がかりになると思っている。

倭姫命に日本武尊、世継の翁と息長氏。織姫に彦星、千代と一豊。
伊吹山の麓には、神話・伝承の人物から実在の人物まで、豊かな物語が残っている。
奇しくも、鈴鹿山脈の北側に坂田宮が、南側に甲可日雲宮があるのは興味深い。

次回予定:伊吹の荒ぶる神5(伊夫岐神社と息長陵(滋賀県米原市伊吹・村居田))

▼「伊吹の荒ぶる神」バックナンバー
1(中山道・柏原宿から醒井宿を歩く~前編:やいと祭と柏原宿歴史資料館、寄り道して清滝寺徳源院へ)
2(中山道・柏原宿から醒井宿を歩く~後編:柏原一里塚から醒井「居醒の清水」とバイカモの花)
3(水のまち・醒井から、木彫りの里・上丹生へ。醒井渓谷、霊仙三蔵記念堂、醒井養鱒場、いぼとり水と西行水)


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