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2013年12月27日 (金)

比良の暮雪10(琵琶湖畔のまち、堅田。浮御堂(海門山満月寺)と堅田の名所・歴史・風景を掲載)~近江山河抄の舞台を歩く(58)


琵琶湖に浮かぶようにして建つのが、近江八景「堅田の落雁」と歌われてきた浮御堂。
平安時代の僧侶・恵心僧都(源信)が、湖上交通の安全と衆生済度を願って995年頃に建立。
堂内には「千体仏」と呼ばれる1000体の阿弥陀仏が安置されている。
正式名は海門山満月寺(臨済宗大徳寺派)で、現在の建物は昭和12年の再建。
堅田駅前から町内循環バスに乗ると、数分で浮御堂前に到着する。

前回ご紹介した、比叡山の奥宮・葛川明王院へは、堅田駅前から路線バスが出ている。
その日は葛川を撮影した後、昼前に堅田へ戻ってきたので、琵琶湖畔まで足を伸ばしてみた。
当記事が比叡山、雄琴、仰木、葛川周辺と一緒に堅田を回る方のご参考になれば幸いです。
※今回掲載しているのは、撮影当時(2013年11月末)の写真です。

堅田は琵琶湖の最狭部に位置する町で、今堅田には琵琶湖大橋が架かる。
古来より交通の要所で、西は途中越を越えて京都の大原、北は小野氏のふるさと小野がある。
琵琶湖の畔を「西近江路」が通り、北はさらに高島、若狭へ、南は大津へ通じている。
比叡山とさほど離れておらず、JRだと比叡山坂本駅から二駅で堅田に着く。


浮御堂の開祖・恵心僧都は、比叡山→安楽律院→聖衆来迎寺(下阪本)へと下りてきた。
そして、水辺に聖衆来迎寺と浮御堂を建立している。

同じ琵琶湖畔の寺で、一方には十界図、堅田には千体仏があるのが、とても印象的だった。

十界図は恵心僧都が『往生要集』で著した地獄を絵にしたもので、聖衆来迎寺に残っている。
(正確に言うと現在は東京・京都の博物館等で保管されており、8月に数点里帰りする。)
他方、湖上の浮御堂の中に千体仏を置くというのは、極楽を表現することに他ならない。
もちろん聖衆来迎寺にも仏像は残されているから、単純に比較できないが、私にはそう感じられた。
堅田の光や水辺はきらきら輝き、訪ねる度に朗らかな気持ちになる。
ただし、湖上で風に吹かれながらの参拝なので、寒い時期は暖かくしてお出かけ下さい。


堅田は路地の町で、常に琵琶湖とともにある。
そして、内湖と呼ばれる琵琶湖のラグーン(潟湖)が町を取り囲むように広がっている。
水運で栄えたなごりで 杢兵衛造船所など造船所がいくつかあり、堅田漁港と堅田港がある。
また今堅田には、珍しい木造の灯台・出島灯台(でけじまとうだい)がある。


中世の堅田は水運・造船・漁業が盛んで、大阪の堺のような自治都市として栄えた。
湖上関を設けて通行税を取り、琵琶湖最大の自治都市を築いたといわれている。
浮御堂界隈の本堅田の町並みには、今でも暮らしの中に町屋が残っている。
写真の湖族の郷資料館では、秋から春先にかけて琵琶湖のシジミを販売している。


中世の堅田を支えたのが、蓮如に対する厚い信仰だった。
写真の本福寺は、京都を追われた蓮如が数年滞在した場所である。

当時の室町幕府は、花の御所造営の船に通行税をかけた堅田に、立腹していたといわれる。
室町幕府は比叡山延暦寺に命じて堅田を攻撃させ、1468年、堅田は焼き討ちに遭った。
町のほぼ全域が焼失し、住民は沖島に逃れた。これを堅田大責(かたたおおぜめ)と言う。
沖島に逃れた人達は、2年後、延暦寺に多額の礼金を上納して再び堅田へ帰ってきた。
祭りの神輿を持って逃れたという逸話のあるくらい、経済的・精神的に豊かな人達だった。
堅田の郷士・居初氏の庭園は、茶室・天然図画亭と共に国指定名勝に指定されている。


伊豆神社の掘割。江戸時代の古絵図と変わっていない。
江戸時代、本堅田には堅田藩がおかれ、堀田家が当地を治めた。

写真の道は琵琶湖(浮御堂北湖岸)に続いており、そばには堅田藩陣屋跡の案内板がある。
場所は、浮御堂の前を左折して、郵便局の前を過ぎてすぐ右の湖岸。
ちなみにこの1、2年のうちに堅田藩陣屋跡に飲食店が2軒できた。
どうやらイタリアンと韓国料理の店らしい(※駐車場あり)。

堅田には、近代の洋風建築も残っている。
日本基督教団堅田教会は建築家ヴォーリズ(William Merrell Vories)の1930年の作品である。


堅田を歩くと、本当にお地蔵さんが多い。写真は腰切り地蔵と呼ばれる北向地蔵。
地蔵の腰をさすると腰痛に効くといわれており、光徳寺と祥瑞寺の間の道路そばにある。
光徳寺は、殉教者・堅田源兵衛の首が祀られていることで知られている。


堅田は松尾芭蕉とゆかりの深いところで、芭蕉は40代以降、足しげく大津を訪ねている。
「朝茶飲む 僧静かなり 菊の花」は、祥瑞寺を訪ねた元禄3年(1690)秋の作。

隣の本福寺の住職・千那も弟子の一人で、芭蕉を最初に大津に呼んだ一人と言われる。
同じく弟子として有名な宝井其角は、父親が堅田出身で、其角も一時期堅田に滞在した。
本福寺の隣の路地には、宝井其角寓居跡の案内板がある。

堅田には、このほかにも芭蕉の句碑がいくつかある。
本福寺、浮御堂境内、堅田港そばの十六夜公園、堅田漁港。
詳細はバックナンバーをどうぞ⇒大津における芭蕉の発句、89句すべてを掲載しています


祥瑞寺は、室町時代に若き日の一休さんが修行した寺でもある。
室町時代、21歳の一休さんは瀬田川に入水して助けられ、堅田で修行して再起した。
最初の師匠が亡くなったことが原因だと言われているが、実際のところは誰にも分からない。
22歳(1415年)から34歳まで堅田で修行し、琵琶湖の浜で悟りを開いた。
そして祥瑞寺の華叟宗曇(かそう そうどん)和尚から、一休の道号を授かったと伝わっている。

▼祥瑞寺と一休さん ~Honkatata/本堅田 222-223
http://katata.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/honkatata-222-2.html

このブログでは、そんな話を、写真とともに、2007年12月27日から掲載してきた。
東日本大震災を経て、故郷滋賀の風景をきちんと撮っておきたいという気持ちが強くなった。
偶然に白洲正子さんの『近江山河抄』に出会って、この本の世界を表現してみたいと思った。
そういったことが重なって、現在、滋賀各地を回っている。

堅田は、「堅田内湖」と呼ばれる琵琶湖のラグーン(潟湖)の町である。
町の西側、堅田丘陵には春日山古墳春日山公園があり、美しい里山が続いている。
堅田は比叡山に近いと書いたが、奥比叡ドライブウェイの入り口(仰木)は堅田から入る。
仰木は、今森光彦さんの写真集「里山」の主な舞台になった所だ。
そういった風景も、またお届けしていきたいと思っている。

皆さま、良いお年をお迎えください。




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