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2013年12月

2013年12月27日 (金)

比良の暮雪10(琵琶湖畔のまち、堅田。浮御堂(海門山満月寺)と堅田の名所・歴史・風景を掲載)~近江山河抄の舞台を歩く(58)

 

 





琵琶湖に浮かぶようにして建つのが、近江八景「堅田の落雁」と歌われてきた浮御堂。

平安時代の僧侶・恵心僧都(源信)が、湖上交通の安全と衆生済度を願って995年頃に建立。
堂内には「千体仏」と呼ばれる1000体の阿弥陀仏が安置されている。
正式名は海門山満月寺(臨済宗大徳寺派)で、現在の建物は昭和12年の再建。
堅田駅前から町内循環バスに乗ると、数分で浮御堂前に到着する。

前回ご紹介した、比叡山の奥宮・葛川明王院へは、堅田駅前から路線バスが出ている。
その日は葛川を撮影した後、昼前に堅田へ戻ってきたので、琵琶湖畔まで足を伸ばしてみた。
当記事が比叡山、雄琴、仰木、葛川周辺と一緒に堅田を回る方のご参考になれば幸いです。
※今回掲載しているのは、撮影当時(2013年11月末)の写真です。

堅田は琵琶湖の最狭部に位置する町で、今堅田には琵琶湖大橋が架かる。
古来より交通の要所で、西は途中越を越えて京都の大原、北は小野氏のふるさと小野がある。
琵琶湖の畔を「西近江路」が通り、北はさらに高島、若狭へ、南は大津へ通じている。
比叡山とさほど離れておらず、JRだと比叡山坂本駅から二駅で堅田に着く。




浮御堂の開祖・恵心僧都は、比叡山→安楽律院→聖衆来迎寺(下阪本)へと下りてきた。
そして、水辺に聖衆来迎寺と浮御堂を建立している。

同じ琵琶湖畔の寺で、一方には十界図、堅田には千体仏があるのが、とても印象的だった。

十界図は恵心僧都が『往生要集』で著した地獄を絵にしたもので、聖衆来迎寺に残っている。
(正確に言うと現在は東京・京都の博物館等で保管されており、8月に数点里帰りする。)
他方、湖上の浮御堂の中に千体仏を置くというのは、極楽を表現することに他ならない。
もちろん聖衆来迎寺にも仏像は残されているから、単純に比較できないが、私にはそう感じられた。
堅田の光や水辺はきらきら輝き、訪ねる度に朗らかな気持ちになる。
ただし、湖上で風に吹かれながらの参拝なので、寒い時期は暖かくしてお出かけ下さい。




堅田は路地の町で、常に琵琶湖とともにある。

そして、内湖と呼ばれる琵琶湖のラグーン(潟湖)が町を取り囲むように広がっている。
水運で栄えたなごりで
杢兵衛造船所
など造船所がいくつかあり、堅田漁港と堅田港がある。
また今堅田には、珍しい木造の灯台・出島灯台(でけじまとうだい)がある。




中世の堅田は水運・造船・漁業が盛んで、大阪の堺のような自治都市として栄えた。

湖上関を設けて通行税を取り、琵琶湖最大の自治都市を築いたといわれている。
浮御堂界隈の本堅田の町並みには、今でも暮らしの中に町屋が残っている。
写真の湖族の郷資料館では、秋から春先にかけて琵琶湖のシジミを販売している。




中世の堅田を支えたのが、蓮如に対する厚い信仰だった。

写真の本福寺は、京都を追われた蓮如が数年滞在した場所である。

当時の室町幕府は、花の御所造営の船に通行税をかけた堅田に、立腹していたといわれる。
室町幕府は比叡山延暦寺に命じて堅田を攻撃させ、1468年、堅田は焼き討ちに遭った。
町のほぼ全域が焼失し、住民は沖島に逃れた。これを堅田大責(かたたおおぜめ)と言う。
沖島に逃れた人達は、2年後、延暦寺に多額の礼金を上納して再び堅田へ帰ってきた。
祭りの神輿を持って逃れたという逸話のあるくらい、経済的・精神的に豊かな人達だった。
堅田の郷士・居初氏の庭園は、茶室・天然図画亭と共に国指定名勝に指定されている。




伊豆神社の掘割。江戸時代の古絵図と変わっていない。

江戸時代、本堅田には堅田藩がおかれ、堀田家が当地を治めた。

写真の道は琵琶湖(浮御堂北湖岸)に続いており、そばには堅田藩陣屋跡の案内板がある。
場所は、浮御堂の前を左折して、郵便局の前を過ぎてすぐ右の湖岸。
ちなみにこの1、2年のうちに堅田藩陣屋跡に飲食店が2軒できた。
どうやらイタリアンと韓国料理の店らしい(※駐車場あり)。

堅田には、近代の洋風建築も残っている。
日本基督教団堅田教会は建築家ヴォーリズ(William Merrell Vories)の1930年の作品である。




堅田を歩くと、本当にお地蔵さんが多い。写真は腰切り地蔵と呼ばれる北向地蔵。

地蔵の腰をさすると腰痛に効くといわれており、光徳寺と祥瑞寺の間の道路そばにある。
光徳寺は、殉教者・堅田源兵衛の首が祀られていることで知られている。



堅田は松尾芭蕉とゆかりの深いところで、芭蕉は40代以降、足しげく大津を訪ねている。
「朝茶飲む 僧静かなり 菊の花」は、祥瑞寺を訪ねた元禄3年(1690)秋の作。

隣の本福寺の住職・千那も弟子の一人で、芭蕉を最初に大津に呼んだ一人と言われる。
同じく弟子として有名な宝井其角は、父親が堅田出身で、其角も一時期堅田に滞在した。
本福寺の隣の路地には、宝井其角寓居跡の案内板がある。

堅田には、このほかにも芭蕉の句碑がいくつかある。
本福寺、浮御堂境内、堅田港そばの十六夜公園、堅田漁港。
詳細はバックナンバーをどうぞ⇒大津における芭蕉の発句、89句すべてを掲載しています




祥瑞寺は、室町時代に若き日の一休さんが修行した寺でもある。

室町時代、21歳の一休さんは瀬田川に入水して助けられ、堅田で修行して再起した。
最初の師匠が亡くなったことが原因だと言われているが、実際のところは誰にも分からない。
22歳(1415年)から34歳まで堅田で修行し、琵琶湖の浜で悟りを開いた。
そして祥瑞寺の華叟宗曇(かそう そうどん)和尚から、一休の道号を授かったと伝わっている。

▼祥瑞寺と一休さん ~Honkatata/本堅田 222-223
http://katata.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/honkatata-222-2.html

このブログでは、そんな話を、写真とともに、2007年12月27日から掲載してきた。
東日本大震災を経て、故郷滋賀の風景をきちんと撮っておきたいという気持ちが強くなった。
偶然に白洲正子さんの『近江山河抄』に出会って、この本の世界を表現してみたいと思った。
そういったことが重なって、現在、滋賀各地を回っている。

堅田は、「堅田内湖」と呼ばれる琵琶湖のラグーン(潟湖)の町である。
町の西側、堅田丘陵には春日山古墳春日山公園があり、美しい里山が続いている。
堅田は比叡山に近いと書いたが、奥比叡ドライブウェイの入り口(仰木)は堅田から入る。
仰木は、今森光彦さんの写真集「里山」の主な舞台になった所だ。
そういった風景も、またお届けしていきたいと思っている。

皆さま、良いお年をお迎えください。




 

 

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2013年12月18日 (水)

比良の暮雪9(葛川明王院)~近江山河抄の舞台を歩く(57)

 





葛川明王院の朝。開け放たれた戸の向こうに、秋の名残の紅葉。





葛川明王院の本堂内部。自分で照明をつけて自由に参拝できるようになっている。





比叡山の麓、堅田から江若バスに揺られること、46分。坊村で下りて徒歩数分。

大津市北端の葛川地区の山麓に、葛川明王院がある。
この近辺は、1,000m級の山々が連なる比良山系の登山口になっている。
明王院だけを訪ねる人は少ないようで、歩いているのは殆どハイカーさんだった。

位置的な事を書くと琵琶湖の西岸に堅田という町があって、堅田の西に京都の大原がある。
そして、堅田の北西に葛川という地区があるとイメージして頂けたらありがたい。




葛川明王院は、平安時代に相応和尚(そうおうかしょう)が開いた修験道場である。

相応は比叡山の回峰行の創始者とされる人物で、明王院は重要な修行の場となっている。
4棟の建物すべてと境内地、隣の地主神社境内地が重要文化財に指定されている。




訪れた11月下旬、安曇川の支流である明王谷沿いには紅葉が残っていた。

写真右の岩の中に仏様が祀ってあるのが、小さく見えている。




葛川明王院本堂。1715年(正徳5)の建立。





本堂と階段と護摩堂。





護摩堂と庵室(あんしつ)。

左側の護摩堂は、1755年(宝暦5)の建立。
右側の庵室は、行者が寝泊りする建物で、内部は畳敷きだという。1834年(天保5)の建立。




政所表門(建立は江戸時代初期)。奥は社務所になっている。

境内の様子や建物の配置は、中世の頃とほとんど変わっていないというお話だった。




明王谷そばの石垣の参道。





参道の奥には、登山道の入口と、紅葉の石垣。





明王谷の南側には、明王院の鎮守である地主神社(じしゅ じんじゃ)がある。

859年(貞観元年)、相応和尚(そうおうかしょう)の創建と伝えられている。
本殿・幣殿(へいでん)とも、1502年(文亀元年)の建立で、ともに重要文化財。
中世の幣殿建築は類例が大変少ないとのことで、この地域の文化の高さが伺える。




葛川明王院の周辺は、大津・京都のいわゆるかくれ里でもある。

写真の比良山荘は高級料亭として知られており、宿泊もできる。
ちなみに、坊村バス停近辺にはお蕎麦屋さんなどもあり、公衆トイレも完備されていた。
行くのは大変だったけれど、江若バスの運転手さんや出会った方に本当によくして頂いた。
だから、こういう場所はいつも、ずっと心に残るのだと思う。




葛川明王院への道中、バスは花折峠口を通る。

この道は若狭街道(別名・鯖街道)と呼ばれ、福井の若狭と京都を結ぶ(国道367号線)。
最後に、花折峠と比叡山の回峰行について、白洲さんの言葉をご紹介したい。
ちなみに、比叡山横川から坂本の飯室谷までの行者道は、前回歩いてご紹介している。

 



今その行者道は、坂本から琵琶湖の岸を堅田へ出、そこから西へ入って、比良の山麓を、途中に出る。途中からは、花折峠の急坂を越え、安曇川ぞいに葛川へ至る・・・
-白洲正子『かくれ里』

[花折峠は]比叡山の回峰行者たちが、樒(しきみ)を折るところから出た名称で、峠の上からの見晴らしは、その美しい名にそむかない。回峰行というのは、平安初期の相応和尚が開いた修験道の一派で、比叡山から比良山へかけて「回峰」することにより、身心を鍛錬する。・・・毎年七月半ばには、叡山の奥の院ともいうべき「葛川明王院」に籠もって、きびしい行を行う。そこへの途中、花折峠で樒を採り、叡山を遥拝するのがしきたりになっている。「この世に別れを告げる」と彼らはいっているが、花折峠から先は断食と無言の行に入るので、その言葉どおり命がけの荒行である。-白洲正子『近江山河抄』「比良の暮雪」

 


比良の暮雪と堅田と琵琶湖-2(撮影地:滋賀県草津市、烏丸半島)


琵琶湖の対岸から見た比良山系。

 



堅田のあたりで比叡山が終り、その裾に重なるようにして、比良山が姿を現わすと景色は一変する。比叡山を陽の山とすれば、これは陰の山と呼ぶべきであろう。ヒラは古く枚、平とも書き、頂上が平らなところから出た名称と聞くが、それだけではなかったように思う。都の西北に当る出雲が黄泉(よみ)の国にたとえられたように、近江の西北にそびえる比良山は、黄泉平坂(よもつひらさか)を意味したのではなかろうか。実際にもここから先は丹波高原で、人も通らぬ別世界であった。-白洲正子『近江山河抄』「比良の暮雪」

 

比良の暮雪と堅田と琵琶湖-1(撮影地:滋賀県草津市、烏丸半島)



相応和尚の後継者たちが、比良山に籠るのは、平安時代以来、いや神代依頼、そこに伝わって来た起死回生の思想による。・・・また特に花折峠で「この世に別れを告げる」のは、その度毎に死んで生れ変ることを体験するためだ。-白洲正子『近江山河抄』「比良の暮雪」

 

白鬚神社と琵琶湖-2



比良山について、私は陰気なことばかり記したが、大切なことは、この山が、新しい生命の泉であることだ。その裏側にある葛川明王院は、比良山をへだてて、白鬚神社と相対しており、古代人のこういう感覚はきわめて正確なのである。-白洲正子『近江山河抄』「比良の暮雪」

 



白鬚神社(琵琶湖畔)と葛川明王院は、背中合わせのパワースポットとも読める。

とても新鮮な視点だった。

比叡山に延暦寺と坂本があるように、比良山に明王院と白鬚神社があるのかもしれない。
近江の霊山の場合、麓の里地または水辺とセットで、悟りが開かれているように感じる。
それは前回、比叡山の横川から回峰行の道を実際に駆け下りてきて実感したことだった。
春になったら今度は比良山系に登って、また違う視点で近江を眺めてみたい。
(撮影日:2013年11月30日、比良山系の雪景色は2013年2月に別途撮影)

※葛川明王院へは、バスは一日3往復で、堅田駅~坊村は片道1000円(イコカ・ピタパ可)。
今回の撮影は8:50堅田→9:36坊村、10:19坊村→11:03堅田のバスで、とんぼ返りした。
10:19の後は最終の15:46のみ(2013年11月現在)。
※堅田葛川線は2013/12/21にダイヤ改正される予定。最新情報は下記でご確認下さい。

▼江若バス時刻表(堅田葛川線/堅田駅発、細川行き)
http://www.kojak.co.jp/bus/rosen/

▼葛川明王院(滋賀県大津市葛川坊村町155)
http://www.kinki36fudo.org/27.html

Omiji078
⇒バックナンバーより、比良の暮雪1(比良八講)

※「比良の暮雪」(ひらのぼせつ)は近江八景の一つ。
比良山系の残雪のことで、春になっても(時に夏まで)雪が残っている風景をいったもの。
読み方等を調べている方がおられたので、追記しておきます。

▼その他のバックナンバー
比良の暮雪2(小野氏ゆかりの地と曼陀羅山を歩く~前編:小野神社、小野篁神社、石神古墳群、小野道風神社)

比良の暮雪3(小野氏ゆかりの地と曼陀羅山を歩く~中編:小野妹子神社(唐臼山古墳)からゼニワラ古墳、曼陀羅山古墳群)

比良の暮雪4(小野氏ゆかりの地と曼陀羅山を歩く~後編:曼陀羅山古墳群・和邇大塚山古墳)

比良の暮雪5(琵琶湖の西、小野から近江高島へ。近江の厳島「白鬚神社」)

比良の暮雪6(近江高島:白鬚神社、鵜川四十八体石仏群、大溝城跡、乙女が池)

比良の暮雪7(滋賀県高島市安曇川町:彦主人王御陵・田中神社・玉泉寺の石仏)

比良の暮雪8(高島市安曇川町、高島市鴨:神代文字の石、鴨稲荷山古墳、高島歴史民俗資料館、藤樹書院跡、陽明園)


次回:比良の暮雪10(堅田/浮御堂の紅葉)の予定です。



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2013年12月11日 (水)

日枝の山道5(比叡山横川から飯室谷まで、千日回峰行の道を駆け下りる。そして安楽律院へ)~近江山河抄の舞台を歩く(56)

 





白洲正子さんの『近江山河抄』を読んだ時、心に残った一節がある。

飯室谷へは、坂本の西教寺からも、仰木からも車で行けるが、
少々苦しくても、横川から下ってみないことには半分の価値もない。


横川(よかわ)といえば、比叡山延暦寺の一番奥、深い山の中にある。
飯室谷へは千日回峰行の道の一部になっているので、撮影は難しいだろうと思っていた。
ところが、この道は、ハイキングコースとして一般にも使われていることが分かった。

とはいえ、東海自然歩道からは外れており、このルートで比叡山に登る人は多くはない。
横川から飯室谷へは、標高差400m弱の山道を一気に下ることになる。
調べると、この道は「元三大師道」の一部で、横川側の登山口は恵心院の奥だと分かった。
安全を考えて、紅葉シーズンの天気のいい日曜の昼間を選び、坂本ケーブルで比叡山へ。
東塔・西塔を拝観後、バスで横川へ向かった。




写真は、比叡山東塔にある根本中堂。

 



神護景雲元年(七六七)、伝教大師最澄は、日枝の神山の麓で生れた。石の鳥居の傍にある生源寺が、その生誕の地といわれている。父は・・・歌枕で有名な三津の浜(下阪本)の小豪族で、信心ふかい人格者だったらしい。・・・

二十歳の時、[最澄は]突然比叡山の奥に籠ってしまった。延暦四年夏のことで、東大寺の戒壇院で、受戒した最澄は、鑑真和尚の理想をまっとうすべく、己れの道を開こうと志したに違いない。登山の経路もわかっていて、日吉大社に参拝した後、大宮川を遡り、落合から左の谷合いを伝って、虚空蔵尾に達した。・・・現在根本中堂が建っているあたりだと聞いている。

その道順だけ辿っても、行き当りばったり登ったのではないことは明らかである。・・・藤原武智麻呂が登山したという記録もあり(懐風藻)、天智天皇が大津の宮で、西北のかたに仙人を夢みたのも、山岳信仰の行者たちが籠もっていたことを示している。
-白洲正子『近江山河抄』「日枝の山道」

 





写真は、比叡山横川にある恵心院。

恵心僧都(源信)は『往生要集』を著したことで知られる僧で、堅田浮御堂の開祖でもある。

 



恵心僧都が感得したのは、横川であるとも、飯室谷の安楽律院とも、坂本の聖衆来迎寺だったとも伝えている。が、ひとたび感得すれば、二度と消え失せる映像ではないから、どこと定めるにも及ぶまい。それより彼が横川から飯室谷、さらに平地の来迎寺へと、だんだんに下って来たことの方に私は興味を持つ。それは日枝の神霊が、奥宮、里宮、田宮と順々に降りて来るのに似なくもない。・・・最澄が日枝の山霊に救いを求めたように、源信の中にも、古代の神が辿った道が根づよく生きていたに違いない。
-白洲正子『近江山河抄』「日枝の山道」

 





恵心院の奥に日本生命の慰霊塔があり、その入口脇に小僧さんの看板がある。

それが、横川から飯室谷への登山口の目印だった。




横川から飯室谷へ下る道は、最初は獣道のようで細くて険しい道だった。

けれど、駆け出してしまえば、不思議と怖くなかった。
千日回峰行の道だからこそ、失礼な撮り方はできない。不思議な緊張感が辺りを包む。


















道は次第に広くなり、途中に休憩所がある。中盤以降、急カーブの砂利道が続いた。
そして、元三大師道の石標。白洲正子さんもこの道を通ったことは、次の記述で分かる。

 



飯室谷へいっきに下る急坂がある。「元三大師みち」という石標があり、二キロあるというが、またたくうちにすべり降りてしまう。うっそうと茂った木立の中に、不動堂と、慈忍和尚の廟が建ち、私が行った時には、真赤な落椿が、苔むした石垣を染めていた。
-白洲正子『近江山河抄』「日枝の山道」

 

 



飯室谷へは、坂本の西教寺からも、仰木からも車で行けるが、少々苦しくても、横川から下ってみないことには半分の価値もない。観無量寿経も法華経も、私の理解を超えるが、近江の自然は、理屈ぬきで、浄土の世界へと誘ってくれる。-白洲正子『近江山河抄』「日枝の山道」

 







山道が終わって、近代的な建物が見えた。そして「横川元三大師道への道」の石標。

それが初めて見る飯室谷だった。横川から下ること、40分。一本道だった。
しばらく滞在し、他のお堂も参拝させていただいた。




飯室谷からまたすぐに山の中に入る。安楽律院まで、一転して上りが続く。





安楽谷の入口(結界)が見えてきた。

安楽谷は飯室谷の別所で、恵心僧都も隠棲していた場所である。




江戸中期以降、安楽谷はとても戒律の厳しい所だったという。

昭和になって放火で寺院は殆ど焼失してしまい、現在は無住の寺となっている。
しかし、見事な石畳の参道と、雰囲気のある境内が今もそのまま残っている。
映画「るろうに剣心」や大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」のロケにも使われた。





恵心僧都が隠棲した安楽律院は、飯室谷のつづきの安楽谷にあり、谷から山へかけて、石畳の参道がつづいている。琵琶湖も、三上山も、横川と同じ位置に眺められ、僧都が常に湖水の自然とともに生活していたことがわかる。-白洲正子『近江山河抄』「日枝の山道」

 





安楽律院の紅葉は見事だと聞いていた。まさに別世界だった。





先ほどの写真のお堂の前から眺めた風景。

この裏手には石段が続き、建物はまだまだあるようだった。境内は思った以上に広い。




苔むした石垣の上に、たくさんの石仏。





かつてこの地で修行していたという僧侶たちの事を思った。





安楽谷からさらに下界へ降りると、坂本の町、そして琵琶湖が眼前に広がっていた。

里に下りて来た安心感、琵琶湖の見える開放感は、ひとしおだった。
横川、安楽谷、下阪本と下ってきたという、恵心僧都の生涯を思った。
比叡の山から下りて来たからこそ、この風景がかけがえのものに思えたのではないだろうか。
そこには人の生活があって、山にいたからこそ里の美しさが分かる。

一本道の車道を歩いていくと西教寺の前に出た。ここに最寄のバス停があるが、また歩いた。
道は西教寺の紅葉を見に行く人であふれていた。さらに歩いていくと、日吉大社の前に出る。
西教寺の門前と日吉大社の境内を撮影させていただいた後、京阪坂本駅へと向かった。




日吉大社の参道は、一面の紅葉だった。





鳥居の向こうに、白洲正子さんが「日枝の神体山」と呼んだ八王子山が浮かんでいた。

私にはまるで、白洲さんの言う「日枝の山霊」が、里に下りて来て作った町のように思えた。
もちろん、坂本は比叡山とは違うし、比叡山ほど厳格なところではない。
けれど、里の優しさと、神聖さを併せ持つ、とても美しい門前町である。

山王祭・花渡り式-4
⇒バックナンバーより、日枝の山道1(日吉大社と山王祭)

坂本といえば、穴太積の石垣、町を巡る大宮川の水路、約50ある僧坊に社寺、町並みと緑。
穴太積の石垣(滋賀院門跡)
日枝の山道2(穴太積の石垣、坂本の里坊、慈眼堂の石仏、日吉東照宮)

旧竹林院庭園-2
日枝の山道3(延暦寺の門前町、坂本。旧竹林院~山の辺の道~西教寺)

十界図の四幅から十三幅
日枝の山道4(聖衆来迎寺と十界図の虫干し)

比叡山は、門前町・坂本とあわせて一つの完結した世界を作っている。
奥深い横川から下ってきたからこそ、一番感じたことだった。
(撮影日:2013年11月24日)


次回:比良の暮雪9(葛川明王院/堅田浮御堂の紅葉)の予定です。



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2013年12月 6日 (金)

近江路3(滋賀県湖南市:岩根の磨崖仏と善水寺/湖南三山そろっての紅葉の写真とともに)~近江山河抄の舞台を歩く(55)

 





日曜日の朝。曲がり角で道が3つあると言われると、何か意味があるのかなと思った。
そして、こういうとき、道の選び方に性格が出るような気がした。

私は徒歩だったので、最短の右の歩道を選んだ。いざとなれば車道に戻ればいい。
これは岩根というバス停を下りて、善水寺まで行こうとしたときの話です。






道は集落を抜けて山中に続いていた。最短路の場合、得てしてこういうことが多い。

日曜日の朝8時半過ぎだったので、大丈夫だと判断し、この道を行ってみることにした。




山中の石段を登っていく。

近江山河抄の舞台を歩く=寺社に参拝する=石段を登ると言って差し支えないと思う。
本当は上り坂は苦手なのだけれど、だいぶ鍛えられたのかもしれない(^-^;

 



水口の西北、東海道にそって、あまり高くない山がつづいており、この丘陵を「岩根」と呼ぶ。高くはないが、奥深い森林地帯で、すぐそばを東海道が走っているのが、別の世界のように見える。その名のとおり、岩石の多い所で、山中には善水寺という寺があり、石仏がたくさんかくされている。-白洲正子『近江山河抄』「近江路」

 





数分後、右手に観音堂が見えてきた。







観音堂の裏に巨岩(不動の大岩)があり、岩の左上に摩崖不動明王が刻まれている。

岩の大きさは東西19尺(約6m)、南北18尺(約5.5m)、高さ27尺(約8.2m)。
善水寺から頂いた資料によれば、摩崖仏には文亀四年(1503)の年記名があるという。




善水寺本堂まで、もう少し。

岩根山は地元の方が整備されているということで、歩いて伺う者にとってはありがたい限りだ。
付近には僧坊跡(十二坊)の案内板があって、竹林の中に僧坊跡が点在していた。




先ほどの看板の左には、道の脇にたくさんの石仏が横倒しになって置かれていた。

紅葉に見送られながら再び参道に戻ると、参拝者用の駐車場の脇に出た。朝9時前。




国宝の善水寺本堂。南北朝時代、貞観五年(1366)の再建。

期せずして一番乗りとなり、ゆっくり撮影させていただいた。
とても大きな、威風堂々としたお堂で、名実ともに一枚には収まりきらないスケールがある。




善水寺本堂と庭園。紅葉が彩りを添える。


伝承では、奈良時代の和銅年間(708~715)に元明天皇の勅命により創建されたとある。
国家鎮護の道場として開かれ、当時は和銅寺と号した。
その後平安時代に最澄が入山して天台宗の寺院となり、後に善水寺と名を改めている。

最澄は、比叡山延暦寺を開く際、寺の材木を湖南市の奥の甲賀市一帯に求めている。
だが材木を横田川(野洲川)に流す時、日照り続きのため水量が少なく、うまくいかなかった。
そこで雨乞いの地を探したところ、岩根山中腹より一筋の光が目に差し込んだという。
山中に薬師仏を勧請し、請雨の祈祷を七日間行ったところ、大雨が一昼夜降り続いた。
材木は一気に川を下り、琵琶湖の対岸にあたる比叡山の麓に無事着岸したという。




桓武天皇が病気の際、最澄が岩根の薬師仏の前で祈祷し、水を献上すると治癒された。

そこで善水寺の寺号を賜ったといい、由来となった水が元三大師堂の横に湧いている。
参拝者用に飲めるようになっていたので、柄杓に受けて、手に掬って一口戴いてみた。
ずっと気を張って撮影してきたせいか、一口の湧き水は最高のご馳走だった。
もしかしたら、政務に追われたであろう桓武天皇にとっても、そうだったのかもしれない。
(撮影日:2013年12月1日)

善水寺:滋賀県湖南市岩根3518
http://www.zensuiji.jp/


 





旧甲西町(湖南市)には摩崖仏が多く見られる。この機会にぜひご紹介したい。

善水寺の前から右へ車道を下りていくと、目の前に空中楼閣のように不動寺が現われる。
(ちなみに写っているのは他のハイカーさんです。)




紅葉の不動寺。

伝承によれば、延暦年間(782~805)に空海が創建した寺で、もとは清涼山と号した。
享保十九年(1734)に火災に遭い、寛延二年(1749)に再興して岩根山と称する。
現在は黄檗宗の寺になっていて、地元の方がお堂を管理されている。




不動寺の摩崖不動明王尊。寺に隣接する巨岩に一体刻まれている。

像高150cm、肘幅77cm、顔28cm、顔幅30cmで、鎌倉時代の作。
右側に「建武元年(1334)三月七日、卜部左兵衛入道充乗造之」の銘がある。
ちなみに卜部とは、不動寺の代々の住職の姓だという。




岩根花園集落の摩崖不動明王尊。車谷不動と呼ばれ、江戸時代初期の作という。

像高425cm、肘幅210cm、顔幅80cm、右手に持った宝剣の長さ2.3mと、かなり大きい。
道の向こうから撮影しても、摩崖仏の表情がはっきりと分かる。
場所は、善水寺の近くの十二坊温泉ゆららから、1km程山道を下ったところにある。
※場所の詳細は滋賀県湖南市観光ガイド ぶらりこなんをご参照下さい。

以前、甲西駅から車谷不動を経て、善水寺、不動寺を訪ね、三雲駅まで歩いたことがある。
参考までに書くと、甲西駅から車谷不動までは確か40分ほどかかった。
駅からまっすぐ歩いて甲西大橋を渡り、小学校の辺りから山道に入った記憶がある。
不動寺と車谷不動はそのときに撮影したもの。誘ってくれた友人には感謝しきれない。

廃少菩提寺 閻魔像(閻魔地蔵)(滋賀県湖南市)

廃少菩提寺 閻魔像(閻魔地蔵)。

こちらは6月に紫香楽の宮6(正福寺と廃少菩提寺)でご紹介している。

廃少菩提寺 石造多宝塔

廃少菩提寺 石造多宝塔。

 



中でも少菩提寺跡の石塔はみごとなものである。高さ四・五五メートルの大きさで、仁治二年(一二四一)の銘がある。見なれぬ形なので、寄せ集めかと思ったが、そうではなく、近江に特有の二重の多宝塔であるという。いい味に風化しており、その背後に菩提寺山が深々と鎮まっているのは、心にしみる風景である。-白洲正子『近江山河抄』「近江路」

 





平成16年10月1日、旧石部町と旧甲西町が合併して「湖南市」が誕生した。
平成17年11月より善水寺と併せて湖南三山と称されることになったのが常楽寺と長寿寺だ。

善水寺を撮影した日の午後、旧石部町にある常楽寺と長寿寺にも寄せていただいた。
湖南三山そろっての紅葉をご紹介したい。写真は国宝の常楽寺本堂。




こちらは国宝の常楽寺三重塔。

今のご住職が赴任したときは、三重塔がどこにあるか分からないくらい山が茂っていたという。
現在の美しい風景は、ご住職自ら山の手入れをされてこられた賜物だと、私は思っている。




西寺の集落と常楽寺本堂の屋根。撮影した日、常楽寺の紅葉はちょうど見ごろだった。

湖南三山の善水寺や長寿寺と比べると、紅葉の時期は遅めといえる。
ちなみに湖東三山では例年、百済寺の紅葉だけ遅めになる。ご参考までに。

常楽寺:滋賀県湖南市西寺6丁目5-1
http://www.eonet.ne.jp/~jo-rakuji/




常楽寺から1.2km先にあるのが、長寿寺。常楽寺からは一本道だ。





山門をくぐると、優しい色の紅葉が迎えてくれる。

長寿寺は常楽寺同様、聖武天皇の紫香楽宮の守護として、良弁により開かれた寺である。
どちらも秋以外は予約が必要だが、2013年6月にも伺って撮影させていただいている。




奥に長寿寺の本堂が見えてくる。

 



が、なんといっても美しいのは、東寺(長寿寺)と西寺(常楽寺)であろう。
ことに東寺のたたずまいは優雅である。楓と桜並木の参道を行くと、檜皮葺の屋根が見えて来て、
赤松林の中に鎮まる鎌倉時代の建築は、眺めているだけで心が休まる。
-白洲正子『近江山河抄』「紫香楽の宮」

 


▼長寿寺本堂の写真はこちらから御覧いただけます。
紫香楽の宮5(青もみじの季節に訪ねる、常楽寺と長寿寺)

長寿寺:滋賀県湖南市東寺5丁目2-27
http://www.burari-konan.jp/konan3zan/tyoujyuji.html


次回予定:日枝の山道5(比叡山横川から飯室谷まで、千日回峰行の道を駆け下りる)



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続きを読む "近江路3(滋賀県湖南市:岩根の磨崖仏と善水寺/湖南三山そろっての紅葉の写真とともに)~近江山河抄の舞台を歩く(55)" »

2013年12月 4日 (水)

沖つ島山8(東近江のかくれ里、紅葉の名所・石馬寺にて)~近江山河抄の舞台を歩く(54)

 





滋賀県東近江市にある石馬寺(いしばじ)もまた、紅葉の隠れた名所である。

教林坊や観音正寺のある繖山に近く、前回ご紹介した瓦屋寺からもさほど離れていない。
白洲正子さんの『かくれ里』にも出てくる古刹である。




参道入口の脇には、無数の石仏。花がお供えしてある。





乱れ石積みの階段を登っていくと、優しい色の紅葉が迎えてくれた。





石馬寺と神社の分岐点。かんのん坂と呼ばれており、登っていくと本堂がある。

石段がきついので、ここまで登って来る人は少ない。




撮影した日はちょうど紅葉の見ごろで、本堂はすぐ目の前にあった。





石馬寺の紅葉は、優しい色合いでやわらかい黄色が印象的。

山の中なので、紅葉に緑が映え、とても自然な色に感じられる。
石馬寺を訪ねるなら秋がおすすめですと、地元の方が仰っていた気持ちが、よく分かる。
ちなみに、どの写真も一切色の修正をかけていない。




石馬の石庭。後ろに本堂と鐘楼が見えている。

御住職の話では修験道に起源を持つ寺で、庭奥の巨岩の周囲は水が枯れることがないとか。
そういえば、本堂で見せていただいた中に、鎌倉時代の役行者像があった。
前回ご紹介した太郎坊宮といい、東近江は山岳信仰と修験道の地なのだと実感する。




本堂の横には、修験道を彷彿させる石仏たち。頭上の紅葉が見事。

なんて美しい所なんだろう!




境内の奥にも、御覧のように修験の雰囲気が漂っている。





石馬寺は推古2年(594)、聖徳太子が開いたという伝承がある。

太子が繖山山麓を訪ねた際、乗ってきた馬を松の木につないで山に登った。
ところが山を下りると、つないでいた馬は池に沈んで石になっていたという。
霊験を感じた太子は寺を建立して、石馬寺と名付けたと伝わっている。
境内入り口には石馬の池(写真)があり、石馬寺縁起発祥の古池として保存されている。

教林坊もそうだが、近江八幡市、安土町、東近江市には、聖徳太子開基の伝承の寺が多い。
推古天皇の摂政だった聖徳太子は、鎮護国家を祈る霊地を求めて近江を旅したと言われる。

ちなみに、近江八幡市には願成就寺(がんじょうじゅじ)という寺がある。
推古天皇27年正月に聖徳太子(48才)が勅を賜り、近江国(滋賀県)に48箇所の寺を建立。
最後に建てた寺が願成就寺で、故に願いが成就したとして願成就寺と号したと言われている。
願成就寺の写真はこちら(バックナンバーより)




麓の集落から石馬寺に続く参道を、振り返りながら撮影。

石馬寺は信長の兵火で灰燼に帰し、正保元年(1644)に禅寺として再建されている。
信長と敵対した近江佐々木氏の庇護を受けていたゆえの悲劇は、湖東三山と共通している。
江戸時代に禅寺となって再興されたことも、同じ東近江の瓦屋寺とよく似ている。

古来から湖東は山岳信仰の聖地であり、帰化人の秦氏がいて、豊かな歴史と文化を育んできた。
現在、東近江の寺院が注目されているのは、自然な流れなのかもしれない。
今年の秋は東近江を訪ねる機会が多く、改めてその魅力に気付かされた。
(撮影日:2013年11月26日)

石馬寺:滋賀県東近江市五個荘石馬寺町823
http://ishibaji.jp/


 


「沖つ島山」シリーズ バックナンバー
1(安土のかくれ里、教林坊と老蘇の森)
2(近江八幡:ちょっと番外編:八幡堀と、ネコと、菖蒲と紫陽花)
3(近江八幡:水郷の風景、安土の山から見た西の湖、アジサイの咲く頃・長命寺)
4(安土の繖山:桑実寺、観音寺城跡と観音正寺/付記:観音寺城関連リンク集)
5(近江八幡:大嶋・奥津嶋神社<北津田>~渡合橋~水郷の風景<円山>/圓山神社と寶珠寺)
6(琵琶湖最大の島・沖島。沖島と奥島山(大嶋・奥津嶋神社)と八幡山(日牟礼八幡宮)を結ぶ線)
7(近江源氏・佐々木氏ゆかりの地を巡る。氏神「沙沙貴神社」と京極家の菩提寺「徳源院」)


次回:近江路3(滋賀県湖南市:岩根の石仏と善水寺)の予定です。



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続きを読む "沖つ島山8(東近江のかくれ里、紅葉の名所・石馬寺にて)~近江山河抄の舞台を歩く(54)" »

2013年12月 2日 (月)

近江路2(東近江のかくれ里:紅葉の瓦屋寺と太郎坊宮)~近江山河抄の舞台を歩く(53)

 

 


紅葉の瓦屋寺


滋賀県東近江市にある瓦屋寺(かわらやじ)は、紅葉の隠れた名所として知られている。

湖東平野のほぼ中央に位置する箕作山(みつくりやま)の中腹に、ひっそりと寺が建つ。

瓦屋寺の由緒


瓦屋寺の由緒。

聖徳太子が四天王寺を建立した際、当地で瓦を焼き、瓦屋寺を建立したという伝承がある。
瓦屋寺は寛平3年(891)に東大寺の末寺となるが、16世紀末に兵火で焼失し荒廃したという。
江戸時代初期に香山祖桂和尚によって再興され、現在は臨済宗の寺になっている。

瓦屋寺の不動明王


境内の入口脇の庭園には、不動明王が祀られている。

瓦屋寺へは、近江鉄道の八日市駅から延命公園を抜け、寺に続く車道を歩くルートをとった。
駅から寺まで徒歩で約1時間。地元の方にご案内頂き、箕作山を縦走しながら撮影となった。

なお表参道から瓦屋寺へ登る場合は、駅から20分歩くと登り口で、1250段程の石段を登る。
車で行く場合は、寺の前まで車道があり、駐車場もある。太郎坊宮からも車で行ける。

瓦屋寺の石畳


石畳をたどって、境内に入っていく。一面の紅葉が迎えてくれる。


瓦屋寺本堂


入母屋造りの茅葺屋根の本堂。建立は延宝年間(1672年頃)。


瓦屋寺の磐座


境内のあちこちに磐座があり、古代から信仰の対象とされてきた。

麓の延命公園には古墳群があり、この地が長い歴史を持つことを伺わせる。

瓦屋寺境内のお地蔵さん


境内のお地蔵さん。こちらもかなり古いもののようだ。

時間が止まっているかのような、悠然とした空気の境内を後にして、太郎坊宮へと向かう。

 



東海道とほとんど平行して、東の平野には、近江八幡、八日市[注:現・東近江市]、日野などを結ぶ街道が通っている。この辺がいわゆる蒲生野で、外来の文化が色濃く残っている。

・・・聖徳太子に関する伝説が、至る所に見られるが、それは四天王寺を建立した際、帰化人の秦氏が協力したからで、近江で木材を調達したり、瓦を焼いたりした。八日市の太郎坊宮の山つづきには、瓦屋寺と称する寺院があり、広々とした境内に、茅葺屋根の本堂が建っている。今は禅寺に変っているが、推古の寺はいつまでも推古の面影を失わないのはおもしろい。

・・・私は太郎坊の行きずりによってみたのだが、思いもかけず美しい白鳳の瓦を見、たった一枚の瓦にも、ずしりと重い手応えを感じた。-白洲正子『近江山河抄』「近江路」

 


太郎坊宮へ続く参道


太郎坊宮へ続く参道と合流する。


太郎坊宮鳥居


太郎坊宮(たろうぼうぐう)は、正式名を阿賀神社(あがじんじゃ)という。

聖徳太子が瓦屋寺を創建した際、霊験を得て創建されたと伝えられる。
後に最澄が社殿・社坊を献じたといわれ、天台山岳宗教や山岳信仰の霊地となった。
修験者の守護神とされたのが「太郎坊の天狗」で、神社の守護神となっている。

太郎坊宮の紅葉


祭神は天照大御神の第一皇子で、勝運の神である「正哉吾勝勝速日天忍穂耳命」。

(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)
なんとも長い名前の神様だが、勝運の神として厚い信仰を持つ。

レスリングの吉田沙保里選手のご家族も、太郎坊宮の「勝守」を買っていかれたと宮司さん。
同じ話が2013/5/21の読売新聞に掲載されていたので、このブログでもご紹介しておきます。
お寺と神社とその物がたり~第4部 勝運を授ける~<最終話>太郎坊宮(東近江)

太郎坊宮の御神体


太郎坊宮の御神体は、巨岩である。


太郎坊宮の夫婦岩


向き合うようにして立つ夫婦岩。悪心ある者が通ると挟まれるという伝承がある。

もちろん、そんな怖い岩ではなく、夫婦和合や縁結びのご利益もしっかりある。

昼食(持参した弁当)を食べた後、太郎坊宮の龍神社の脇からハイキング道へ入る。
箕作山(372m)、小脇山(373.4m)を縦走。

箕作山系


箕作山系・小脇山の麓から撮影。あの山のてっぺんから見た風景がこちら↓


繖山


北に位置するのが、安土の繖山(きぬがさやま、別名・観音寺山)。

佐々木六角氏の居城・観音寺城跡があったところで、観音正寺のある山だ。

西の湖


繖山の西側。写真中央に西の湖、奥に奥島山(長命寺周辺)、琵琶湖、そして比良山系。


湖東平野


蒲生野と呼ばれる湖東平野が、眼前に広がっていた。




小脇山城跡


小脇山城跡。

箕作山には佐々木六角氏の支城・箕作山城があり、天然の要害だったことが伺える。

岩戸山十三仏の近くにあったお地蔵さん


岩戸山十三仏の近くにあったお地蔵さん。


岩戸山十三仏のお堂と巨岩


岩戸山十三仏のお堂(※普段は非公開)と巨岩。紅葉が美しい。


岩戸山十三仏:聖徳太子が瓦屋寺を建てた際、この山並みに金色の光を発する岩をみつけ、
その岩肌に爪で十三仏を掘り込んだという伝承を持つ。

三界神


参道まで降りていく途中、「三界神」と言う名の奇岩を見た。


岩戸山十三仏参道にて


参道にはお地蔵さんが立ち並び、写真のように一箇所に置かれている所もあった。


岩戸山十三仏参道の竹林


石段の道が続いた後、最後は竹林の中の山道になる。麓が近い。

舌切り雀のお宿ってこんなところだっただろうか、などと想像しながら下っていく。




麓におりたら、水を張った田んぼの中に、白い雲と青空と山が浮かんでいた。

安土も美しいところだったが、その南の箕作山麓もまた、とても美しいところだった。
この後「万葉の郷ぬかづか」まで歩いて、休憩後、市辺駅まで歩いて帰途に着いた。
(撮影日:2013年11月23日)

▼箕作山麓のハイキングマップはこちらで配布されているので、ご紹介します。
みつくり山わくわく通信(清水・小脇街づくり委員会)

▼安土の繖山を歩いたときの記録はこちらに掲載しています。

沖つ島山4(安土の繖山:桑実寺、観音寺城跡と観音正寺/付記:観音寺城関連リンク集)



次回:沖つ島山8(石馬寺)の予定です。



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