« 2013年10月 | トップページ | 2013年12月 »

2013年11月

2013年11月29日 (金)

鈴鹿の流れ星8(紅葉の湖東三山 -百済寺、金剛輪寺、西明寺- を訪ねる)~近江山河抄の舞台を歩く(52)

 


庭園の池に写る秋


滋賀県東近江市にある百済寺(ひゃくさいじ)にて、庭園の池に写る秋。


紅葉と百済寺

 



小椋谷の入口の永源寺から、北へ向って行くと、百済寺、金剛輪寺、西明寺が、ほぼ同じ間隔に並んでいる。「湖東三山」とも呼ばれ、近江では指折りの古い寺院である。

百済寺は、百済の僧のために、聖徳太子が建立したと伝えるが、蒲生野に住んでいた帰化人の援助によるのであろう。-白洲正子『近江山河抄』「鈴鹿の流れ星」

 


百済寺・喜見院の庭園


百済寺・喜見院の庭園。天下遠望の名園とも呼ばれ、蒲生野、遠くは比良を一望できる。

写真中央のやや右に、こぶのように見えるのが、太郎坊宮(次回掲載予定)。

百済寺本堂
百済寺参道

石畳の長い参道を登っていくと、空中楼閣のように百済寺の本堂が見えてくる。

かつて百済寺は「湖東の小叡山」と呼ばれたほどの壮大な寺院だった。
しかし、明応7年(1498)の火災、文亀3年(1503)の兵火で全焼。
天正元年(1573)には織田信長の焼き討ちに遭い、またも全焼している。

中世に当地を支配した佐々木六角氏は、百済寺の近くに支城の鯰江城を築いていた。
信長と敵対する六角氏に味方したため、百済寺は焼き討ちに遭ったという。
その後、春日局などの喜捨を得て、慶安3年(1650年)に本堂・仁王門・山門等を再興。
境内は国の史跡に指定されている。

百済寺城跡の石垣


寺の境内には、百済寺城跡の石垣が残っている。

小石を積み上げた石垣のため、信長も安土への「石曳」をせず、破壊されずに残ったという。

釈迦山百済寺:滋賀県東近江市百済寺町323
http://www.hyakusaiji.or.jp/


 


金剛輪寺の千体地蔵


金剛輪寺は、聖武天皇の勅願によって、天平13年(741)に行基が開基したと伝わる。
参道の両脇に沿って、風車をお供えした千体地蔵が並び、強く印象に残る。


金剛輪寺の参道


金剛輪寺の参道はかなり長い。上り坂が続くため、参拝者はゆっくりと上がっていく。


金剛輪寺本堂と紅葉


参道を登りきると視界は一変する。鎌倉時代の本堂と三重塔が現われ、疲れも吹き飛ぶ。

この寺も信長の焼き討ちに遭っているが、僧侶の機知で本堂等は焼失を免れたという。

金剛輪寺の紅葉

金剛輪寺の紅葉は「血染めのもみじ」と呼ばれる鮮やかさ・華やかさが特徴だ。

 



金剛輪寺は天平十三年、行基が創立した寺で、長い石畳の参道を行くと、石段の上に大きな本堂が現われる。鎌倉時代の建築で、広々とした境内は気持がよく、紅葉の頃は特に美しい。-白洲正子『近江山河抄』「鈴鹿の流れ星」

 


金剛輪寺宝塔


金剛輪寺宝塔。本堂脇の鐘楼の奥にある階段を登ると、宝塔が一つ、ひっそりと建つ。

現高260cm。上部が欠けており、完全であれば十一尺塔になるという。

なお、金剛輪寺のある場所は、平成の市町村合併の前は「秦荘町」と呼ばれていた。
1955年(昭和30年)4月1日以前は「秦川村」と呼ばれていたことから、この地は渡来人の秦氏と
何らかの関係があるとみられている。今でも金剛輪寺の後ろの山を秦川山(松尾寺山)という。

金剛輪寺:滋賀県愛知郡愛荘町松尾寺874
http://kongourinji.jp/


 


西明寺の不断桜


西明寺の不断桜。春秋冬に開花するという桜で、天然記念物になっている。

高山性の桜で、彼岸桜系統の冬桜に属するという。

西明寺の二天門


西明寺の二天門。紅葉が鮮やかで、個人的に一番好きな場所だ。

西明寺は、承和元年(834)に仁明天皇の勅願によって三修上人が創建したと伝わる。
三修上人は、修験道の霊山である伊吹山を開山したといわれる伝説の行者である。
西明寺もまた信長の焼き討ちに遭っているが、僧侶の機知で焼失を免れている。

西明寺の三重塔

 



この寺は、平安初期に、伊吹山を開いた三修上人が、池の中に光明が輝くのを見て、「池寺」と名づけたのにはじまるという。・・・中でも美しいのは、三重塔の中にある鎌倉時代の壁画で、天井から柱の隅々まで、極彩色の菩薩像で埋まっている。
-白洲正子『近江山河抄』「鈴鹿の流れ星」

 

西明寺の参道

 



おそらく三重塔の壁画は、池寺の池に出現した光明を映したもので、山と水と、天と地と、互いに呼応することにより、この世の浄土を表現しようとしたに違いない。・・・あざやかな五彩からほとばしる光が、無数の円を描くうち一つになって、中央に鎮座する大日如来に吸収されて行く。

忍者や木地師の底辺から、大日如来の浄土に及ぶまで、鈴鹿の山中には何と多くのものがかくされていることか。・・・そういうものを生むに至った歴史について考える時、私は目くるめく思いがする。-白洲正子『近江山河抄』「鈴鹿の流れ星」

 




撮影日:2013年11月19日(湖東三山-百済寺、金剛輪寺、西明寺-)


西明寺:滋賀県犬上郡甲良町大字池寺26
http://www.saimyouji.com/index.html


次回:近江路2(東近江のかくれ里:紅葉の太郎坊宮と瓦屋寺)の予定です。



大きな地図で見る


 

続きを読む "鈴鹿の流れ星8(紅葉の湖東三山 -百済寺、金剛輪寺、西明寺- を訪ねる)~近江山河抄の舞台を歩く(52)" »

2013年11月27日 (水)

鈴鹿の流れ星7(滋賀県東近江市:紅葉の永源寺を訪ねる)~近江山河抄の舞台を歩く(51)

 


永源寺の紅葉-1
滋賀県の紅葉の名所として知られる永源寺。

永源寺の紅葉-2
永源寺の紅葉は色のバランスが見事で、見ていて心に優しい印象がある。

永源寺の紅葉-3
今回は11月19日に撮影した今年の紅葉をお届けします。

永源寺の紅葉-4
永源寺は臨済宗永源寺派の本山で、山号は瑞石山。創建は室町時代の初めだという。


永源寺の紅葉-5

宝篋印塔(ほうきょういんとう)も、紅葉の中。


永源寺の紅葉-6

石仏も、笑っているかのような表情をしている。


永源寺参道の石段(羅漢坂)を登っていくと、左の岩山にこんな風に石仏が安置されている。
10年近く前、初めて永源寺を訪ねたとき、一眼レフで写真を撮っていた女の人に会った。
おそらくプロのカメラマンだったのだろうと思う。凛としてかっこよくて、私はただ見惚れていた。
この石仏を見ると、あのときの素敵なお姉さんを思い出す。

永源寺の紅葉-7

永源寺境内にて。

受付で拝観料を納めた後、割合自由に拝観できるのが、永源寺のとてもいいところだ。

永源寺の紅葉-8
紅葉の映える山門。

永源寺の紅葉-9

永源寺:1361年創建。開山は寂室元光(正灯国師)、開基は佐々木氏頼(六角氏頼)。


中世戦乱期に兵火により衰微したが、江戸時代中期に中興の祖とされる一糸文守(仏頂国師)が住山し、後水尾天皇や東福門院、彦根藩の帰依を受けて、伽藍が再興された。
1873年に明治政府の政策により東福寺派に属したが、1880年に永源寺派として独立した。
(出典:ウィキペディア)

永源寺の紅葉-10

方丈(本堂)は、1765年(明和2)のもの。国内屈指の葦葺屋根だという。


永源寺の紅葉-11

眼下には、愛知川。永源寺の1.4km先には、永源寺ダムがある。

東近江市永源寺地区は、木地師発祥の里として知られる。

 



国道一号線をつっ切ると、土山町の山間部に入り、末は野洲川ダムに至る。このあたりから永源寺にかけて、惟喬親王の伝説が無数にあり、木地師が住む小椋谷に至って、それは頂点に達する。・・・出所は湖北の朽木谷で、平安時代にそこへ移住した木地師が、故郷の小椋谷へ運んだらしい。・・・

小椋谷へは、今永源寺から、愛知川ぞいに入って行くので、さもその寺と関係がありそうに見えるが、永源寺は比較的新しい寺で、木地師のような大集団が依存するためには、はるかに大きく、裕福な寺をひかえている必要があった。・・・そのことを確かめに奥の院まで入ったのである。

そして、来てみてやっぱりよかったと思う。[百済寺甲]村の人に尋ねると、峠一つ越えれば、裏は小椋谷の箕川で、歩いて二、三十分しかかからない。・・・彼らは鈴鹿の谷沿いに、金剛輪寺へも、西明寺へも、多賀大社までも通ったに相違ない。多賀大社で売っている名物のおしゃもじは、その当時の名残りである。-白洲正子『近江山河抄』「鈴鹿の流れ星」

 



というわけで、同じ日に百済寺・金剛輪寺・西明寺(湖東三山)へも立ち寄ってみることにした。
湖東三山は公共交通機関で行きにくい所だが、紅葉の時期にはシャトルバスが出る。
百済寺と永源寺の間は、紅葉の時期だけシャトルバスが出るので、そちらを利用している。

なお永源寺へは近江鉄道の八日市駅から路線バスがあり、八日市駅から近江鉄道を利用して
JR近江八幡駅へ出ることができる。

追記:永源寺地域の木地師の現状について、京都新聞(2011.10.23掲載)記事をどうぞ。
なお、小椋谷一帯では今年になって、木地師の後継者ができたと伺っている。
http://www.kyoto-np.co.jp/info/keizaitokusyu_old/shin_kokoku/111023.html


次回予定:鈴鹿の流れ星8(紅葉の湖東三山-百済寺、金剛輪寺、西明寺-を訪ねる)



大きな地図で見る


 

続きを読む "鈴鹿の流れ星7(滋賀県東近江市:紅葉の永源寺を訪ねる)~近江山河抄の舞台を歩く(51)" »

2013年11月25日 (月)

鈴鹿の流れ星6(甲賀のかくれ里:油日神社と櫟野寺&油日神社の大宮ごもり)~近江山河抄の舞台を歩く(50)

 


油日神社の大鳥居

草津線の油日駅で下りて、線路を渡って右にいくと、油日神社の大鳥居がある。

ここから油日の交差点に出ると、油日神社までは人も車も殆ど出会わない一本道だ。
とはいえ、草津駅でJR草津線に乗り換えて、油日駅まで42分。
油日神社までは、駅から徒歩で30分。自転車なら20分。今回は駅のレンタサイクルを利用した。
ちなみに油日駅は無人駅で、地元の方が切符の回収やレンタサイクルの受付をされている。

油日の集落と油日岳

油日神社への道中にて撮影。正面に油日岳が見える。油日の向こうは三重県伊賀市。

この油日岳を神体山とするのが、油日神社である。

 



またの日に私は、油日神社を訪ねた。竜法師から東南へ下った油日嶽の麓の、深い木立の中に鎮まっている。先年『かくれ里』という本を書いた時、一番はじめに訪ねた所で、それから既に四、五年経つが、景色は少しも変っていない。-白洲正子『近江山河抄』「鈴鹿の流れ星」

 


油日神社と櫟野寺の分岐点

油日神社と櫟野寺の分岐点。土山まで13kmとある。

このあたりは、鈴鹿の流れ星1でご紹介した「土山」の南に位置する。
そういえば土山町の東前野のバス停で、寺庄駅(油日駅の2駅手前)行のバスが出ていた。

油日神社の神田

油日神社の神田。

分岐点の手前、道路向かいにあるが、自動車では見落としてしまうかもしれない。

 



神田のまわりには注連縄をはりめぐらし、・・・その田をたがやす人を「大田主(おおたぬし)」と呼び、氏子・・・が代々受け持っている、といったように、油日村[注:現在は滋賀県甲賀市甲賀町油日]は今時珍しい別天地である。そういう生活の秩序は、風景の上にも歴然と現われ、田畑や森林の手入れもよく行き届き、どことなく他の所と違う雰囲気がある。
-白洲正子『近江山河抄』「鈴鹿の流れ星」

 


油日神社楼門

油日神社。創建は用明天皇または天武天皇の時代と伝わる古い社だ。

聖徳太子が社殿を建立し油日大明神を祀ったとの伝承もある。
写真の楼門・回廊とも1566年(永禄9年)建立で、堂々たる風格がある。
楼門・回廊・本殿・拝殿ともに重要文化財。映画『大奥』などのロケ地にも使われている。

油日神社に奉納された油

油日神社は「油の神様」として全国の油業者の信仰を集めている。


油日神社回廊と水路

回廊のまわりを清らかな水が巡る。水路は神社の外に続いていた。


油日神社拝殿とコウヤマキ

油日神社拝殿の左隣に、高さ35mの高野槇(コウヤマキ)の大木がある。

樹齢は約750年と推定され、滋賀県の自然記念物に指定されている。

大宮ごもりの日、油日神社拝殿

拝殿は桃山時代の建立で、夜になるとまた格別の趣がある。


油日神社の大宮ごもり-1

油日神社の大宮ごもり(※別の日に撮影)


9月11日に油日岳山頂で徹夜で神火を焚き、13日夕方から深夜まで神社で灯明を点し、
油の神様に祈祷を捧げる行事である。

油日神社の大宮ごもり-2

9月13日の18時前から千数百の灯明が点され、境内や参拝者を照らす。


油日神社の大宮ごもり-7

灯明のひとつひとつに、点した人の思いがこもる。


油日神社の大宮ごもり-3

20時過ぎから、本殿で宮司さまの祈祷が始まる。


油日神社の大宮ごもり-4

宮司さまの祈祷に熱心に耳を傾ける、氏子の皆さん(拝殿にて)。

この時初めて油日に伺ったが、2ヶ月前なのに、駅から機材を担いで歩いたのが懐かしい。
田んぼと民家の点在する一本道で、帰りは真っ暗。道中もほとんど人に会わなかった。
今度は明るいときに来ようと思い、再度伺ったのが、10月終わりのある日の午後。

油日神社の楼門は、光の中

油日神社の楼門は、光の中。


油日神社の脇参道

鐘楼の脇にある参道を抜けると、櫟野寺(らくやじ)への道に合流する。




櫟野寺への途中で出会ったのが、鹿深(かふか)りんご園。


りんご園のりんご

たくさんのりんごが実っていた。見ていて幸せな気持ちになる。


油日の田園風景

田園風景を横目に、緩やかな坂道を、ひたすら自転車のペダルを漕ぐ。

油日岳の登山口の前を通り、緑色の遊歩道の下を過ぎると、左に櫟野寺の看板がある。
油日神社からは15分ほど過ぎていただろうか。そこから坂道を一気に下る。

甲賀町櫟野

甲賀町櫟野(いちの)。お寺は櫟野寺(らくやじ)だが、地名は「いちの」と読む。




櫟野の集落を望む。真ん中の三角屋根が櫟野寺。


櫟野川

杣川の支流・櫟野川にかかる朱塗りの橋を渡る。

橋を渡ると正面に櫟野寺、左に駐車場がある。

櫟野寺参道の石仏

櫟野寺の参道左側には、無数の石仏が立ち並んでいた。

 



油日の近くには櫟野寺のほかにも、趣の深い古寺がたくさんあり、いずれも十一面観音を祀っている。・・・天台宗の寺院が多く、伝教大師の草創ということになっているが、それは叡山が創立した当時の名残であろう。-白洲正子『近江山河抄』「鈴鹿の流れ星」

 


櫟野寺本堂

山門をくぐるとすぐ本堂がある。ここに日本最大の木造十一面観音坐像がある。

お堂の奥が開かれたとき、言葉にならなかった。像高312cmの一木造。
見上げるような鈍い黄金色の十一面観音があった。櫟野寺の本尊で、秘仏である。
スケールが違う。私は今まであんなに大きな十一面観音を見たことがなかった。

現在は、春と秋を中心に特別拝観が行なわれている。
立体で本物を見るのは、全く違う。ぜひ多くの方に御覧になって頂きたい。
※写真⇒http://www.biwako-visitors.jp/shinbutsuimasu/shinbutsu/kouka/kouka_025.php

特別拝観:1月1日~3日、4月18日~5月第2日曜日、8月9日、10月18日~11月第2日曜日
http://www.rakuyaji.jp/

櫟野寺の由緒

櫟野寺の由緒。

792年(延暦11年)、伝教大師最澄が十一面観音を安置したのが始まりと伝えられている。
飯道山麓の杣川一帯は、中世に杣庄と呼ばれる荘園が広がっていた。
後に新宮・矢川・三大寺の三荘に分かれる。現在の甲南町の一部と水口町三大寺である。
最澄は比叡山延暦寺の根本中堂の用材を得るため、このあたりを訪ねていたといわれる。
後年、征夷大将軍・坂上田村麻呂が鈴鹿山の鬼退治をした際に帰依し、祈願寺とした。

櫟野寺の山門

櫟野寺の山門(裏側から)。

この後行きと同じ道を帰った。下り坂が多かったので、20分ほどで駅まで帰れた記憶がある。
油日神社の見事な回廊、そして櫟野寺の十一面観音坐像が、瞼に焼き付いて離れなかった。
いつかまた油日と櫟野に行きたいと思っている。(撮影日:2013年10月28日、9月13日)


次回:鈴鹿の流れ星7(紅葉の永源寺と湖東三山)の予定です。



View Larger Map


 

続きを読む "鈴鹿の流れ星6(甲賀のかくれ里:油日神社と櫟野寺&油日神社の大宮ごもり)~近江山河抄の舞台を歩く(50)" »

2013年11月22日 (金)

鈴鹿の流れ星5(甲賀市甲南町:矢川神社、新宮神社、正福寺。忍者の里の知られざる名刹たち)~近江山河抄の舞台を歩く(49)

 


ご訪問ありがとうございます!この記事で1300回目となりました。
「鈴鹿の流れ星」では、この秋に甲賀市各地で撮影したさまざまな写真を掲載しています。
次々回は湖東三山の紅葉を掲載予定です。
もうすぐ季節に追いつくので、しばしご容赦を・・・

矢川神社の鳥居

矢川神社という、とても長い歴史を持つ神社がある。

鈴鹿の流れ星3で紹介した飯道神社同様、「延喜式神名帳」に記載がある古社である。
祭神は矢河枝比売(やかわえひめ)といい、湖西の和邇(わに)氏の女性と言われている。

矢河枝比売は応神天皇に見初められて妃となるが、とても深く愛されたようだ。
古事記には、応神天皇が矢河枝比売に送った美しい相聞歌が載っている。
近江八幡市の長命寺の奥には矢河枝比売の伝承が多く、王浜や宮ヶ浜といった地名が残る。

 



杉谷川と杣川が出会うところ、深川市場の中心に、矢川神社が建っている。
前章に記した矢河枝比売(やかわえひめ)を主神とし、この辺ではもっとも古い社であろう。
・・・
矢河枝比売に出会うのは、いつも水と関係のある場所だが、和邇の一族は琵琶湖だけでなく、その周辺の河川にも、勢力を及ぼしていたに違いない。矢河枝比売は水を司る巫女で、古代の詞でいえば水依(みずより)比売として、大きな権力を握っていたのではあるまいか。応神天皇が結婚を申し込んだのは当り前のことで、それは水利権と同時に、材木も水産物も手に入れることを意味した。-白洲正子『近江山河抄』「鈴鹿の流れ星」

 

 


矢川神社楼門

矢川神社楼門。室町時代中期の門である。

社記によれば1472年(文明4)、大和国布留郷五十余村から雨乞いの返礼として寄進された。
二階造りだったが、文禄年間(1592-1596)の大風で組物より上を失い、現在の形になった。

 



新宮神社と同じ形式の楼門が、うっそうとした森を背景に建っている景色は、さすがに重々しい風格がある。昔はこのあたりを杣の庄といい、南都諸大寺の用材は、すべてこの地で調達され、杣川から宇治川経由で大和へ運ばれて行った。
-白洲正子『近江山河抄』「鈴鹿の流れ星」

 


そういえば、前回ご紹介した嶺南寺は、奈良に縁の深い良弁の開基である。
栗東市の金勝山周辺と同様、甲南町もまた、奈良の影響下にあったことが分かる。

矢川神社楼門を見上げたところ

矢川神社楼門を見上げたところ。屋根は入母屋造の茅葺で、とても立派なものだ。


矢川神社境内

矢川神社境内。


矢川神社の石橋

楼門の前には見事な石橋がある。

この後、子どもさんがお母さんとやって来て、上に乗って遊んでいた。

甲南町の風景

撮影したのは、10月14日。甲南駅前で自転車を借りて、広い甲南町を約10km走った。

ちなみに気温は30度。これを書いている11月22日とは隔世の感がある。

新宮神社表門とコスモスの花

新宮神社の参道に、突如、茅葺屋根の門が現れた。新宮神社表門である。

墨書から1485年(文明17)の建立だと分かるこの門、実は未完成のままである。
天井の小屋の中に二階柱があることから、当初は楼門を計画していたと考えられている。
とはいえ、室町時代の楼門形式を後世に伝える見事な門である。国の重要文化財。

新宮神社表門

 



地図で見てもわかるように、この周辺には神社やお寺が無数にあり、その殆どに十一面観音を祀っている。中で印象に残ったのは、新宮神社の茅葺の楼門で、太い円柱が吹きはなしに建っている姿は、実にのびのびとして美しい。-白洲正子『近江山河抄』「鈴鹿の流れ星」

 


新宮神社の入口と拝殿
新宮神社の入口と拝殿。
ここに来るまでの参道が車道になっており、奥に神社があることが若干分かりにくかった。
長い参道は、春は桜の名所だという。きっと美しいだろう。

新宮神社
新宮神社(甲南町新治)。

732年(天平4)、紀州熊野大明神の分霊を勧請したのが始まりと伝えられている。
このあたりは飯道山麓の杣川一帯で、飯道山は古来より修験道の山として栄えた。
修験道の中心地である熊野の大明神を祀っているのも、うなずける。

飯道山麓の杣川一帯は、中世に杣庄と呼ばれる荘園が広がっていた。
後に新宮・矢川・三大寺の三荘に分かれる。現在の甲南町の一部と水口町三大寺である。
それぞれに新宮神社・矢川神社・三大神社(現・日吉神社)という古刹がある。

新宮神社本殿
新宮神社本殿。見事というほかない。

地元の甲南町新治には、興味深い昔話が伝わっている。
新治の姫を巡って三大寺の神が深川の神と争い、三大寺の神が姫と結ばれたという昔話だ。
これが縁で、甲南町新治では明治の頃まで「新宮の五社祭り」が行なわれていたそうだ。

三大寺の神輿二基と新治の神輿三基が、新治の熊野の刈家で祝言の杯を交わし、
猿楽や流鏑馬などを催していたという。

なお、姫を巡って争った際に深川の神が逃げる途中、左目に刺さった矢を抜いて捨てたという。
その矢がそのまま生えついた所が「一つ藪」と呼ばれ、今でも新治の大明に矢竹が残っている。
甲南町は、飯道山や三大寺とのつながりもまた深い。

新宮神社表門
新宮神社境内にて。本殿の脇にも立派な社があった。
新宮神社そのものについては、参考資料が殆ど見当たらず、本当にもどかしかった。
これだけのものが忘れ去られていくとしたら、本当に口惜しい。
どこも無理に観光地化する必要はないが、資料を残していただけたらありがたいと願う。
微力ながら記録を残そうと思ったのが、『近江山河抄の舞台を歩く』撮影の原点になっている。

この後、新宮神社表門の前から甲南第二小学校の方向へ自転車を走らせた。
『近江山河抄』で一言紹介されていた正福寺を訪ねるためである。

岩尾山との分岐点
途中で岩尾山との分岐点に出た。岩尾山は6km先なので、今回は立ち寄らなかった。

岩尾山は、飯道山同様、忍者が修行した山と言われている。
ただし、ここは甲賀だけでなく、伊賀の忍者の行場でもあったと白洲正子さんは記す。

岩尾山との分岐点(337号線)

岩尾山との分岐点(337号線)。案内板には「新名神 甲南IC 1.3km」とある。

ここから、前回ご紹介した「嶺南寺」まで1.9km、「甲賀流忍術屋敷」まで2.7km。
また、ここから自転車で10分程行くと、目指す正福寺がある。

この道は観光協会HPに紹介されていたレンタサイクルのルートだが、あまりお勧めできない。
というのも、甲南ICに近く、広域農道なので、車やダンプが飛ばして通り過ぎて行くからだ。
自転車に乗っているほうは冷や冷やするが、自動車の運転手さんもまた怖いだろうと思う。

なぜこのような話を書くかというと、湖南市の「正福寺」へ行った時も同じ経験をしたからだ。
各地でレンタサイクルを利用させて頂いたが、車道をコースにしているところが多い。
コースを考える方にお願いしたいのは、実際に一度自転車で走ってもらえればという事である。
自転車は重宝するだけに、ルート次第で、もっといろんな人に利用してもらえるのではないか。

正福寺
正福寺(甲南町杉谷)。
聖徳太子の創建と伝えられている寺院で、当初は天台宗、後に徳川家ゆかりの寺となった。
1681年(天和元年)江戸幕府5代将軍徳川綱吉により再興され、臨済宗の寺院となっている。

正福寺のお地蔵さん
石段の下には、お地蔵さん。

 

正福寺山門

 

石段を登っていくと、立派な仁王像が二体、山門の中からこちらを睨んでいた。

 

正福寺の石仏

 

正福寺の山門をくぐると、鐘楼のそばに無数の石仏があった。

 

正福寺の宝篋印塔

 

正福寺の宝篋印塔。南北朝時代の作。

正福寺本堂

正福寺本堂。賽銭箱に徳川家の「葵の紋」がついているのが御覧頂けるだろうか。

徳川家ゆかりの寺となったのは、第5代将軍綱吉の世継ぎの祈祷が叶ったからだという。
本尊の十一面観音菩薩に出生祈願をしたところ、綱吉は息子(徳松)を授かったとある。
江戸時代以降は徳川家の祈願所として、また世継ぎ観音の寺として信仰されてきた。
・・・世継ぎ世継ぎというけれど、私はどうしても女の人の気持ちを考えてしまう。
今も昔もなんだかせつない話だ。

八坂神社境内の翁の像
正福寺の隣に八坂神社があり、境内の奥に翁の像があった。
どういうものなのかよく分からなかったが、雰囲気があったので撮影。

正福寺山門前にベンチがあったので、お弁当を食べていたら、地元の人に声をかけられた。
甲南駅の近くでお店を経営されている方だという。正福寺は予約すれば拝観できるとのこと。
駅からレンタサイクルで回っていると言ったら、近道など教えていただいた。
自転車の場合は、新宮神社から野田に出て、甲南駅へ帰るのがいいようだ。

お花畑
新宮神社から野田に出る途中、見かけたお花畑。
とにかく広い甲南町。何より田園風景の美しいところだった。次の機会に岩尾山に伺いたい。


次回:鈴鹿の流れ星6(甲賀のかくれ里:油日神社と櫟野寺)の予定です。



大きな地図で見る


 

 

 

続きを読む "鈴鹿の流れ星5(甲賀市甲南町:矢川神社、新宮神社、正福寺。忍者の里の知られざる名刹たち)~近江山河抄の舞台を歩く(49)" »

2013年11月20日 (水)

鈴鹿の流れ星4(甲賀市甲南町:竜法師と瀬古の流星、甲賀流忍術屋敷、嶺南寺)~近江山河抄の舞台を歩く(48)

 


甲賀流忍術屋敷の忍者(甲賀市甲南町竜法師)

甲賀市甲南町は甲賀流忍術発祥の地で、竜法師地区には忍者屋敷が現存する。

「鈴鹿の流れ星」と聞いて思い出したのは、竜法師で見た「瀬古の流星」のことだった。
瀬古の流星は忍者が合図のために打ち上げたという狼煙で、花火の原型ともいわれている。

竜法師を初めて訪ねたのは約15年前、「流星」の打ち上げ日である9月12日の夕方だった。
最寄駅はJR草津線の甲南駅。上下線とも1時間に1本が通る、とても静かな駅だった。
会場の瀬古薬師堂という名前を頼りに、夕闇迫る静かな町をひたすら歩いた記憶がある。

薬師堂の近くで会ったおじいさんが、道路向かいの田んぼで打ちあげると教えてくれた。
駅からご一緒した若いご夫婦と3人でほっとしたのを、昨日の事のように覚えている。

瀬古薬師堂(甲賀市甲南町竜法師)

瀬古薬師堂(甲南町竜法師‎)。


当地の疫病流行を深く痛んだ最澄が、薬師如来を刻んで東北の地(瀬古)に安置し、
疫病退散の修法を行なったのが起源とされている。

油日岳を水源とする杣川(そまがわ)は、竜法師付近で浅野川と合流する。
そして、野洲川最大の支流である杣川沿いは、古くから交通の要衝だった。
古東海道である杣街道(現・県道4号草津伊賀線)が通り、三重県の柘植へと通じている。
竜法師という地を選んで瀬古薬師堂が建てられ、忍術屋敷が残ったのである。

今年の春、『近江山河抄』「鈴鹿の流れ星」を読んで、話が竜法師から始まっていて驚いた。
花火は狼煙から発達したもので、「流星火」と呼ぶこともあったとある。
そして、竜法師(りゅうぼうし・ryuboshi)は流星の転訛だともいわれていると・・・。
「鈴鹿の流れ星」は、やはり、竜法師に伝わる狼煙花火のことだった---。

瀬古の流星が復活したのは昭和51年。『近江山河抄』の刊行は、その2年前の昭和49年。
白洲さんが「鈴鹿の流れ星」を実際に御覧になったのかどうかは、分からない。
だが、9月になったら、もう一度、瀬古の流星を見に行こうと決めた。

瀬古薬師堂のそばで咲いていたコスモスと、アゲハチョウ(甲賀市甲南町竜法師)

瀬古薬師堂のそばで咲いていたコスモスと、アゲハチョウ。(撮影日:2013年9月12日)

「流星」までは時間があったので、忍者屋敷と嶺南寺まで行ってみることにした。
嶺南寺は、忍術屋敷近くにある天台宗寺院で、あの良弁の開基だという。
夕方なのでコミュニティバスはなく、レンタサイクルも17時終わりなので、歩くしかない。
甲南町は、広い。本当に広い。気温は30度、湿度も高かったので汗だくだった。

忍術屋敷に入ると、お茶を出していただいた。
甲賀忍者秘伝の薬草茶で、屋敷の中で販売もしている。あっさりとした味だった。

甲賀流忍術屋敷の門(甲賀市甲南町竜法師)

甲賀流忍術屋敷。忍者自身の住居として現存する日本で唯一の建物である。

内部では実際にかくし梯子を上ることもできる。
隠し部屋の仕掛けや、忍者の道具についても、詳しく説明していただいた。
印象的だったのが、どんでん返しに落とし穴。

甲賀流忍術屋敷(甲賀市甲南町竜法師)

 



この家は望月出雲守といって、五十三軒の忍者の筆頭であった。・・・徳川家康が、本能寺の変で急いで三河へ逃げ帰った時、この家に泊ったと伝えられ、さすがにどっしりした構えである。

・・・中でも驚いたのは、屋内に深い井戸のあることで、揚板に人が乗ると落ちる仕掛けになっており、ある時は三十六人もの敵が一度にはまって死んだという。

こういう話は興味本位に聞くと面白いが、さて彼らの身になって考えると、陰惨な心地になる。人の秘密をさぐることは、また自分も一生追われる身で、私生活などまったくなかったことがわかる。せめてもの楽しみは、人をあざむいたり、おとし入れるための秘術をつくすことで、殆ど芸術的といいたい程の道具の数々を眺めていると、「因果者」という言葉が浮んで来る。

・・・そういう陰花植物的な存在が、鈴鹿の山麓に芽生えたことは興味がある。このあたりの入り組んだ地形と陰湿な風土は、彼らを育むに適しており、団結の精神も殊の外強かったのではないかと想像される。

 

-白洲正子『近江山河抄』「鈴鹿の流れ星」

 


嶺南寺山門と天満宮(甲賀市甲南町竜法師)
嶺南寺(甲賀市甲南町竜法師)

嶺南寺。竜法師地区、忍術屋敷近くにある天台宗寺院。奈良時代末期、良弁の開基。

良弁は近江出身で、聖武天皇の信任が厚く、奈良の東大寺の別当となった僧侶である。
近江南部には、石山寺、金勝寺、安養寺、常楽寺、長寿寺など良弁開基の寺が多い。

嶺南寺の石仏(甲賀市甲南町竜法師)

嶺南寺の境内にあった石仏。近江は本当に石の文化だとつくづく思う。


嶺南寺隣の天満宮・鳥居(甲賀市甲南町竜法師)
嶺南寺隣の天満宮・石段(甲賀市甲南町竜法師)
嶺南寺隣の天満宮・本殿(甲賀市甲南町竜法師)

嶺南寺の隣にある天満宮。なかなか趣のある天満宮だった。


嶺南寺隣の天満宮・撫で牛(甲賀市甲南町竜法師)

天満宮の「撫で牛」。いい顔をしている。


瀬古の流星打ち上げ会場付近(甲賀市甲南町竜法師)

話は瀬古の流星に戻る。(写真は打ち上げ会場のあたりで撮影。)


実際に見た瀬古の流星は、まさに狼煙で、素朴ながらも残光が印象的な花火だった。
暗闇に弧を描いて、上へと、あるいは横へと、気ままにひゅーっととんでいった。

あの日ご一緒した二人は、私と同じ学校の出身だと、帰りの電車の中で分かった。
夢がかなったらまた「流星」を見に来たいと仰っていたが、どうされているだろうか。

その後、竜法師には商業施設ができて賑やかになり、「流星」を撮影する人も増えた。
お二人とも元気にお過ごしなら、とても嬉しいです。

▼瀬古の流星の写真はこちら(甲賀市観光協会HP)
http://www.koka-kanko.org/res/?evid=249



次回:鈴鹿の流れ星5(甲賀市甲南町:矢川神社、新宮神社、正福寺)の予定です。



大きな地図で見る


 

 

続きを読む "鈴鹿の流れ星4(甲賀市甲南町:竜法師と瀬古の流星、甲賀流忍術屋敷、嶺南寺)~近江山河抄の舞台を歩く(48)" »

2013年11月18日 (月)

紫香楽の宮7(紫香楽宮跡/宮町遺跡と内裏野地区)~近江山河抄の舞台を歩く(47)

 


甲賀市信楽町宮町

信楽町宮町。ここには、かつて紫香楽宮(しがらきのみや)の「宮殿跡」があった。

奈良時代、聖武天皇は平城京以外に三つの都を造った。難波京、恭仁京、紫香楽宮である。
聖武天皇は信楽で大仏建立を発願し、実際に造り始めていた事は、あまり知られていない。

従来から「紫香楽宮跡」と呼ばれてきた場所(内裏野地区)は、甲賀寺跡と考えられている。
これは宮町遺跡の発見によるところが大きい。今回はその話をご紹介したいと思う。

契機は1971年(昭和46)、宮町で圃場整備工事中に巨大な掘立柱の柱根が発見された。
内1本は742年(天平14)から743年(天平15)に伐採されたことが年輪年代法で特定された。
1980~82年(昭和55~57)、遺跡の分布調査が行なわれ、信楽各地で遺物が発見された。

この間、1981年(昭和56)に、黄瀬地区で近世古文書の調査が行なわれた。
その結果「内裏野」という地名は1677年(延宝5)より以前には遡らないことが明らかになる。
内裏野地区が宮殿跡と考えられてきた根拠の1つがひっくり返ったのである。

1984年(昭和59)から宮町遺跡の発掘調査が行なわれ、2012年1月で第40次調査に及ぶ。
2000年(平成12)、第28次調査でついに宮町遺跡の中心部が見つかった。
2005年(平成17)、国史跡「紫香楽宮跡」に宮町遺跡が追加指定された。

宮町遺跡の案内板(甲賀市信楽町宮町)

宮町遺跡の案内板(※写真をクリックすると拡大します)


宮町遺跡の中心部(甲賀市信楽町宮町)

宮町遺跡の中心部。(撮影地:宮町会館前)


紫香楽宮の造営が始まったのは、742年(天平14)。当時の時代背景は混沌としていた。
737年(天平9)、天然痘の大流行により藤原不比等の息子4人がそろって急死する。
代わって政権を握った橘諸兄に対し、740年(天平12)9月、藤原広嗣が反乱を起こした。
同年10月上旬、反乱の続く中を、聖武天皇は平城京を後にして伊勢に行幸する。
広嗣の処刑後も聖武天皇は都に戻らなかった。恭仁京を造営して遷都すると宣言する。
約4年半後に平城京に戻るまで、聖武天皇とともに都が移動する事態となる。

恭仁京の造営を進めながら紫香楽に離宮が造られたのが、742年(天平14)である。
聖武天皇は紫香楽に頻繁に行幸し、10月に大仏建立の詔を出して甲賀寺を開いた。
紫香楽宮と甲賀寺の造営が重なり、743年(天平15)に恭仁京の造営は中止される。

しかし、744年(天平16)閏1月、突如として都が恭仁京から難波京に移る。
2月24日、聖武天皇は紫香楽に去るが、26日、橘諸兄が難波京を都とする詔を読み上げた。
その間甲賀寺の造営は進み、11月に大仏の体骨柱(内型の芯の木組の柱)が立てられた。
難波京と紫香楽の間では、政治的な緊張が数ヶ月続いたと言われている。
745年(天平17)の元日、紫香楽宮は「新京」と呼ばれ、都となった。

宮町遺跡・あさかやま木簡案内板(甲賀市信楽町宮町)

宮町遺跡から出土した万葉歌木簡「あさかやま」(※写真をクリックすると拡大します)


2008年(平成20)5月、宮町遺跡で発見された「あさかやま木簡」が話題となった。
「あさかやま」は、『万葉集』の巻16の3807番に収録されている歌である。
安積香山(あさかやま) 影さへ身ゆる 山の井の 浅き心を 我が思はなくに

万葉集は、まず15巻本が、745年(天平17)から数年の間に成立したと考えられている。
ところが、この木簡は744年(天平16)末か745年(天平17)初め頃に廃棄されたと判明した。
つまり、万葉集成立前に、万葉集収録の歌が木簡に記載されていたことになる。

万葉集は民間に流布していた歌を取り入れて成立したと考えられている。
宮町遺跡の「あさかやま木簡」は、そのことをを初めて裏付けた、貴重な史料なのである。

そして、この「あさかやま」は「難波津の歌」が書かれた木簡の裏から見つかっている。
「あさかやま」の歌とセットで手習いに使われるのが、「難波津の歌」である。
こちらは10世紀になって編纂された『古今和歌集』の「仮名序」に見える。
難波津に 咲くやこの花 冬ごもり いまは春べと 咲くやこの花

紀貫之は「仮名序」で、なにはつ-あさかやまの2つの歌は、歌の父母のようなものと記す。
木簡の発見で「仮名序」より150年以上前に両歌の組み合わせが存在したことが判明した。

宮町から見た飯道山(甲賀市信楽町宮町)

宮町から見た飯道山(はんどうさん)。山岳信仰と修験道の山である。


愛宕山夜燈(甲賀市信楽町宮町)

宮町の集落で見かけた愛宕山夜燈。弘法大師の名も見える。


宮町会館前の石仏(甲賀市信楽町宮町)

宮町会館前には、たくさんの石仏があって圧倒された。

ここから南下して、内裏野地区(甲賀寺跡)へと向かった。

新宮神社遺跡案内板(甲賀市信楽町黄瀬)

「新宮神社遺跡」の案内板に出会った。紫香楽宮の役所跡と考えられている場所だ。

ここはちょうど宮町遺跡と内裏野地区の中間にあたる。
宮町遺跡中心部が見つかった2000年(平成12)、ここで南北に走る道路と橋脚が見つかった。
その後、内裏野地区から宮町遺跡周辺に多くの遺跡が眠っていることが明らかになってきた。

第二名神高速道路の橋脚(甲賀市信楽町黄瀬)

「新宮神社遺跡」の上を走るのは、第二名神高速道路。


甲賀市信楽町黄瀬

信楽町黄瀬(きのせ)の交差点にて。内裏野地区へはあと1km。


紫香楽宮跡「内裏野地区」の池(甲賀市信楽町黄瀬)

紫香楽宮跡「内裏野地区」。

1926年(大正15)に国史跡の指定を受けた時点では、宮殿跡と考えられていた。

紫香楽宮跡「内裏野地区」の礎石(甲賀市信楽町黄瀬)

内裏野地区には多くの礎石が残っている。

現存する礎石遺構の建物規模は東大寺の4分の1だが、丘陵自体は東大寺とほぼ同規模だ。
そして、中心伽藍は、東大寺の大仏殿の位置に重なることが分かっている。
今後の発掘調査によって、多くのことが明らかになっていくだろう。

 



信楽において、大仏建立という、世紀の事業が発願されたことは、銘記すべきである。天平十六年一月には実行に移され、甲賀の寺(信楽)に大仏の骨柱が建ち、「天皇親から臨みて、手づからその縄を引く」(続日本紀)。簡潔な文章だが、喜びにあふれた天皇の、ひたむきな姿が目に浮ぶ。-白洲正子『近江山河抄』「紫香楽の宮」

 


紫香楽宮跡「内裏野地区」の神社(甲賀市信楽町黄瀬)

内裏野地区に建てられた神社。

信楽高原鉄道の紫香楽宮跡(しがらきぐうし)駅は、このすぐそばにある。
今回はJR貴生川駅から飯道山・飯道神社を経由して、宮町から紫香楽宮跡駅まで歩いた。
飯道山・飯道神社については、前回をご参照いただきたい。

745年(天平17)に都となった紫香楽宮のその後を、最後に記しておきたい。
同年4月から、紫香楽宮周辺で、遷都に不満を持つ者による放火が相次いだ。
そこへ地震が襲う。また、聖武天皇の皇子・安積親王が17歳で亡くなった。
聖武天皇は5月に恭仁京へ、そして平城京へと移った。6月、平城京遷都が公示された。
連れ戻された、という方が適切であろう。と白洲正子さんは述べている。

もっとも、大仏が奈良で造営されることになっても、甲賀寺の造営は続けられた。
都でなくなってからも紫香楽宮には留守官が任命され、兵士も派遣されていたようだ。
甲賀寺は最後は火災で焼失したと考えられている。
(撮影日:2013年10月6日)

出典:「天平の都と大仏建立-紫香楽宮と甲賀寺-改訂版」(甲賀市教育委員会編、2012年)

金勝寺正面参道と仁王門


付記:滋賀県栗東市の山中に、奈良の都を守護するために建てられた寺がある。

平城京の鬼門(北東)に位置しており、寺は奈良を向いて建てられている。
その事は、殆ど知られていない。

天平5年(733)、聖武天皇の勅願により、良弁(ろうべん)によって金勝寺は開かれた。
良弁は近江出身で、奈良の大仏を造営した功績で東大寺の初代別当となった僧である。
金勝寺の山続きに信楽(甲賀市信楽町)があって、聖武天皇が作った紫香楽宮の跡がある。
紫香楽の宮2(奈良平城京の鬼門・金勝寺と狛坂磨崖仏/知られざる金勝の石仏たち)
紫香楽の宮3(かくれ里「金勝」。大野神社、金勝寺里坊、金胎寺から金勝寺へ)

西応寺境内の石仏

金勝寺(こんしょうじ)の文化圏は、大津市から栗東市、湖南市、甲賀市と広範囲に及ぶ。

金勝寺、石山寺、常楽寺、長寿寺など、近江南部には良弁によって開かれた寺院が多い。
常楽寺と長寿寺は紫香楽宮の鬼門(北東)に建てられた寺である。
紫香楽の宮4(聖武天皇と良弁僧正ゆかりの寺、安養寺と西応寺)
紫香楽の宮5(青もみじの季節に行く、常楽寺と長寿寺)
紫香楽の宮6(正福寺と廃少菩提寺)

石山寺境内と硅灰石の奇岩
聖武天皇は良弁に命じて、大仏造立に必要な黄金が得られるよう、吉野の金峯山に祈らせた。
夢のお告げにしたがって石山を訪れた良弁は、比良明神の化身である老人に導かれる。
巨大な岩の上に聖徳太子念持仏の6寸の金銅如意輪観音像を安置し、草庵を建てたという。
紫香楽の宮1(瀬田川と石山寺)

狛坂磨崖仏

 



狛坂廃寺の石仏については、前にも書いたことがあるが、ひとくちに金勝山(こんぜやま)といっても、その周辺を歩いてみると、想像以上に規模の大きいことに驚く。紫香楽の宮の背後には、莫大な勢力と、財産が蓄積されていた。奈良の大仏は、忽然と出現したのではない。三千世界を象徴する毘廬遮那仏(びるしゃなぶつ)の理念は、金勝山を中心とする信仰と、歴史の層の厚みによって、はじめて達成することを得たのである。肝に銘じて、そのことを知っていたのは、或いは良弁と聖武天皇の二人だけであったかも知れない。
-白洲正子『近江山河抄』「紫香楽の宮」

 



次回:鈴鹿の流れ星4(甲賀市甲南町:竜法師と甲賀忍者屋敷、瀬古の流星、矢川神社、新宮神社、正福寺)の予定です。



大きな地図で見る


 

 

続きを読む "紫香楽の宮7(紫香楽宮跡/宮町遺跡と内裏野地区)~近江山河抄の舞台を歩く(47)" »

2013年11月15日 (金)

鈴鹿の流れ星3(滋賀県甲賀市:修験道の山、飯道山に登る)~近江山河抄の舞台を歩く(46)

 


飯道山道標(甲賀市水口町三大寺)

飯道山(はんどうさん)に登ってみたいと思っていた。

古くから修験道・山岳信仰の聖地とされ、甲賀忍者の修行の場だったとも言われる山だ。
そして、信楽側の登山口である宮町には、紫香楽宮の宮殿跡があったと考えられている。
今回、地元の方にご案内頂ける機会に恵まれて、貴生川駅から歩くことになった。
貴生川→水口町三大寺→飯道山→信楽町宮町→宮町遺跡→内裏野地区→紫香楽宮跡駅の約10kmである。

※内裏野地区:紫香楽宮跡と呼ばれ、駅名にもなっている。現在は甲賀寺跡と考えられている。
※前回、信楽町の日雲神社を「紫香楽宮跡」に近いと書いたが、より正確には内裏野地区。

甲賀市水口町三大寺でみかけたお地蔵さん

水口町三大寺でみかけたお地蔵さん。前掛けのデザインがとてもいい。

三大寺はとてもゆったりとした集落で、歩いていて気持ちがよかった。

この登山の8日後に、三大寺に近い甲南町の新宮神社に伺って、ある昔話を知った。
新治の姫をめぐって三大寺の神が深川の神と争い、三大寺が姫と結ばれた昔話である。
これが縁で、甲南町新治では明治の頃まで「新宮の五社祭り」が行なわれていたそうだ。

三大寺の神輿二基と新治の神輿三基が、新治の熊野の刈家で祝言の杯を交わし、
猿楽や流鏑馬などを催していたという。

飯道山麓の杣川一帯は、中世に杣庄と呼ばれる荘園が広がっていた。
後に新宮・矢川・三大寺の三荘に分かれる。現在の甲南町の一部と水口町三大寺である。
それぞれに新宮神社・矢川神社・三大神社(現・日吉神社)という古刹がある。
甲南町は甲賀忍者のふるさとだが、飯道山や三大寺とのつながりもまた深い。

飯道寺(甲賀市水口町三大寺)

三大寺登山口への途中にあるのが、飯道寺。もとは麓の里坊のひとつだったという。

鎌倉時代に隣接の三大神社(現・日吉神社)の別当となり、普賢院宝持院と称された。
江戸時代に延暦寺の末寺となり、寺号を惣持坊本覚院と改めている。

飯道山上にあった飯道寺(奈良時代の開基)は、明治の神仏分離令により廃寺となった。
そこで明治25年に、本覚院が飯道寺と改称し、飯道寺の伝統を引き継いだという。
毎年11月3日には江州飯道山行者講による「笈渡し祭」が行われているというお話だった。

飯道山の石仏(甲賀市水口町三大寺)

飯道山は近江の修験道場として栄えてきたところで、江州飯道山行者講が残っている。

栗東の金勝山(こんぜやま)、大津の太神山(たなかみやま)と並ぶ修験道の山である。

杖の権現茶屋休憩所(飯道山)

杖の権現茶屋休憩所。岩壷不動尊の先からここまで、きつい岩場の上り道が続く。

飯道山頂上へは、ここからさらに500mの距離を登る。

三上山(飯道山頂上からの眺め)

眼下に三上山が見える。飯道山頂上(標高664m)からの眺め。


飯道山頂上(標高664m)

ここから飯道神社へと向かう。25分程下った二の峰山頂に、飯道寺遺跡と神社がある。


飯道寺遺跡

飯道寺遺跡。最盛期の飯道寺には20箇所余りの坊院が建ち並んでいたと言われる。

智積院跡~宝蔵跡には、立派な石垣がそのまま残されている。

飯道山の風景-1

役行者の開基という伝承がある飯道山。中世から近世にかけて最も栄えたという。

山岳信仰の場にふさわしい、独特の風景を見ることができる。

飯道山の風景-2

 



役行者(えんのぎょうじゃ)にはじまる山岳信仰は、空海・最澄らがもたらした密教と結びつき、本地垂迹(ほんちすいじゃく)説という独特の理念を打建てた。天竺の仏が、日本の神に姿を変えて、人間を救うという説である。多くの僧が・・・山に籠って独自の修行と呪法を行うようになり、吉野から熊野にかけて大峰巡りがその中心となった。山野に臥したところから、山伏(山臥)と呼ばれ、野武士(野臥)という言葉もそこから出た。・・・次第に形をととのえたのは十世紀ごろからで、以来「修験道」と呼ばれるようになる。
・・・
「野臥」が盛んに活躍したことが『太平記』に見え、山に馴れた僧兵や山伏たちは、縦横に山野を闊歩し、間諜の役を果したであろう。狼火や花火が用いられたのはその頃のことで、彼らの中から忍者も発生した。後に山伏は呪術者として、民衆の中に深く浸透して行ったが、日本の文化はそういう蔭の人々によって、諸国へ普及したのである。
-白洲正子『近江山河抄』「伊吹の荒ぶる神」

 


山上の飯道神社の鳥居(甲賀市信楽町宮町)

飯道神社の鳥居をくぐる。眼下には信楽町宮町の集落が広がっていた。

ここで昼食をとり、飯道神社を撮影した。

飯道神社と巨岩(甲賀市信楽町宮町)

飯道神社。裏山に修験者の行場があり、奇岩・巨岩が散在している。


飯道神社裏山の巨岩(甲賀市信楽町宮町)

岩の名前は、のぞき岩、不動明分け岩、蟻の塔渡し、胎内くぐりなど、さまざま。


飯道神社本殿-1(甲賀市信楽町宮町)

飯道神社は「延喜式神名帳」に甲賀郡八座の一座として記載がある古社である。


飯道神社本殿-2(甲賀市水口町三大寺)

現在の本殿は慶安3年(1650)の再建で、昭和50~53年に解体修理された。


飯道神社本殿-3(甲賀市水口町三大寺)

桧皮葺、入母屋権現造りで、極彩色の華やかな本殿である。国の重要文化財。


宮町の飯道神社の鳥居(甲賀市信楽町宮町)

信楽町宮町へ下りると、ここにも飯道神社の鳥居があった。


甲賀市信楽町宮町

目の前は、信楽町宮町。ここには、かつて紫香楽宮の宮殿跡があった。

(撮影日:2013年10月6日)

 



地形的にいっても、紫香楽の宮の鎮護として、一つの宗教圏を形づくっていたに相違ない。
当時の山岳信仰の行者たちは、単に仏教を広めるだけでなく、木材や鉱物を供給する生産者であり、土木を開発する技術者でもあり、医学に詳しい知識人の集まりであった。・・・聖武天皇が紫香楽の宮を造り、大仏建立を企てたのも、そういう集団をひかえていたために他ならない。伝教法師が比叡山を開いた時も、ここに来て材木を調達している。その伝統は、修験道の山伏に受けつがれ、・・・肥沃な山野は、鎌倉時代には甲賀武士の活躍する地盤となり、山岳兵法と結びついて、甲賀流の忍術を育くむに至った。
-白洲正子『近江山河抄』「鈴鹿の流れ星」

 



次回:紫香楽の宮7(紫香楽の宮跡/宮町遺跡と内裏野地区)の予定です。



大きな地図で見る


 

 

続きを読む "鈴鹿の流れ星3(滋賀県甲賀市:修験道の山、飯道山に登る)~近江山河抄の舞台を歩く(46)" »

2013年11月13日 (水)

鈴鹿の流れ星2(滋賀県甲賀市から湖南市:信楽の日雲神社、水口の笠山神社、三雲の上乗寺。倭姫命の伝承と甲可日雲宮続編)~近江山河抄の舞台を歩く(45)

 


日雲神社参道(甲賀市信楽町牧)

伊勢神宮は、伊勢に鎮座するまで、大和・伊賀・近江・美濃・尾張を移動した伝承をもつ。

一時的に鎮座した場所は元伊勢(もといせ)と呼ばれる。その一つが近江の甲可日雲宮だ。
滋賀県甲賀市とその周辺には、甲可日雲宮の伝承地が10以上存在する。
前回はその中から、甲賀市土山町の甲可日雲宮(日雲神社)と田村神社をご紹介した。

甲賀市信楽町牧にも日雲神社がある。最寄駅は信楽高原鉄道の雲井である。
昼過ぎに貴生川から信楽高原鉄道代行バスに乗って、雲井へ向かった。
雲井駐在所前が臨時のバス停で、駐在所の角を右へ数分行くと日雲神社の看板がある。
鳥居をくぐり、長い参道を歩く。とても気持ちのいい、きれいな参道だった。


大きな地図で見る

日雲神社境内(甲賀市信楽町牧)

日雲神社境内。

実は信楽高原鉄道の線路を越えて来ている。線路が参道を横切っているためだ。

姫の宮(日雲神社、甲賀市信楽町牧)

本殿の脇に「姫の宮」があり、一番左に「倭姫神社」とある。


伊勢神宮の鎮座をめぐる神話は、いわば、旅する神様の話といえるだろう。
天照大神の杖となって大和から伊勢を旅した皇女が、倭姫命(やまとひめのみこと)である。
第11代垂仁天皇の皇女で、伊勢神宮内宮を創建したとされる人物だ。
倭姫命は、伊勢神宮に仕える未婚の内親王(斎王)の直接の起源とも言われている。

日雲神社太鼓踊りの由来(甲賀市信楽町牧)

日雲神社の由来。太鼓踊りの由来を見ても、長い歴史のある神社だと分かる。

土山の田村神社同様、清冽で強く印象に残る神社だった。
両者とも間違いなくパワースポットといえるだろう。日雲宮はどちらでもおかしくない。

日雲神社の狛犬(甲賀市信楽町牧)

日雲神社の狛犬。どこかエキゾチックだ。


日雲神社拝殿(甲賀市信楽町牧)

 



『日本書紀』によると、垂仁二十五年、倭姫は「菟田の篠幡(うだのささはた)」から、近江・美濃を経て、伊勢の五十鈴の川上に落着いた。・・・祭政一致の時代には、皇室の威光を示すために、天照大神を奉じて、諸国を巡ったのはあり得ることだし、前もって落着く場所を探した事実もあったに違いない。野洲川を前方にひかえた肥沃な平野と、美しい自然の環境は、大神宮の候補地にふさわしい場所で、そういう伝説[日雲の宮の伝説]が生れたのは当然のことのように思われる。
-白洲正子『近江山河抄』「鈴鹿の流れ星」

 


日雲神社鳥居(甲賀市信楽町牧)
日雲神社へ続く道(甲賀市信楽町牧)

帰りのバスの時間を気にしながら、日雲神社の長い参道を、後ろ髪を引かれつつ帰る。

そういえば日雲神社から、聖武天皇の紫香楽宮跡(甲賀寺跡)まで、さほど離れていない。
前回ご紹介した土山町の甲可日雲宮のそばには、平安時代に頓宮が置かれている。
日雲宮は後世においても特別な場所と考えられていたといえるだろう。

鹿嶋神社(甲賀市信楽町牧)

日雲神社の鳥居と、道をはさんで向き合って建っていたのが、鹿嶋神社。

日雲神社と何か関係があるのかもしれないが、詳しいことは分からなかった。
ちなみに日雲神社の鳥居から、雲井駐在所前まで徒歩(早足)で7分位で行ける。
なんとかバスには間に合った。貴生川駅まで戻り、貴生川から徒歩で笠山神社へ向かう。


大きな地図で見る

杣川(甲賀市水口町)

橋の上から見た杣川(そまがわ)は、とても静かだった。

この少し上流で、信楽高原鉄道の鉄橋の橋脚が流されたとは、とても思えない。
杣川の河川敷に沿って、甲賀市水口町高山の笠山神社へ、片道20分のウォーキング。
笠山神社には、倭姫命が笠をかけた杉(笠杉)の伝承が残っているのだ。

杣川の水神(甲賀市水口町)
笠山神社への道案内(甲賀市水口町)

水神様の碑に出会う。近くには笠山神社への道案内。向こうに草津線の踏切が見える。

ここから高山の集落へと入っていく。

花(甲賀市水口町高山にて)
笠山神社の竹林(甲賀市水口町高山)

花を見ながら歩く。中央の竹林の手前に笠山神社がある(緑の生垣の辺り)。


伝承に、倭姫命が天照大神を祀って鎮座地を探す道中、白笠をこの地の神木の杉に掛けた。
以来、笠山と呼ばれるようになったという。
「笠」が「瘡」(天然痘・疱瘡)に通じることから、古来より病気平癒の神として参拝されてきた。
そのため瘡山神社ともいわれる。最近は交通安全の守護としても知られている。
(参考:飯道山観光協会「飯道山系ハイキングマップ」)

笠山神社の二代目笠杉(甲賀市水口町高山)

実はこの笠杉、二代目である。先代は昭和55年に600年の木寿を終えている。

ただ、倭姫命が活躍したのは紀元前とされているので、600年では年代が合わない。
『近江山河抄』の刊行は昭和49年なので、白洲正子さんは先代を御覧になったらしい。

笠山神社境内(甲賀市水口町高山)

先代の笠杉の幹は、神社の奉安殿(写真左の建物)で大切に保管されている。

 



樹齢二千年といわれる大木で、私は未だかつてこのような立派な杉を見たことがない。ここでは杉が御神体で、笠山神社という小祠が建っているが、笠は瘡に通じることから、おできのお呪い(まじない)に利くとされているのも、民衆の信仰がうかがわれて面白い。
この辺はまだ発掘が行なわれていないが、裏の山には古墳群があり、倭姫の伝説も、笠杉も、土地の人々が大事にしたから残ったのであろう。
-白洲正子『近江山河抄』「鈴鹿の流れ星」

 


上乗寺(湖南市三雲)

貴生川から草津線に乗り、次の駅(三雲)で降りる。地名は甲賀市から湖南市三雲へ。

日雲・・・三雲・・・ご想像のとおり、地名の三雲は日雲から転じたと言われている。
三雲の上乗寺(じょうじょうじ)は、甲可日雲宮の伝承地のひとつである。

上乗寺(臨済宗)は、古くは雲野山天号寺と称したらしく、南禅寺仏燈国師の開山という。
この地の三雲定持らが壇徒だったが、織田信長が三雲城を攻めた際の兵火で焼失した。
その後、大厳が中興し、慶安元年(1648)木食回道が住み、観音山上乗寺と改めた。
元禄5年(1692)妙心寺に属したが、享和年間に火災にあい全焼した。
本寺はもと観音山北麓にあったが、今の地の神明宮境内に建立し、円通山上乗寺と改めた。
(甲西町(※平成2年当時)教育委員会設置の案内板より)

上乗寺の石仏(湖南市三雲)

上乗寺は、三雲駅から徒歩20分の竹林の中にある。

普段は無住の寺のようで、墓地の奥に本堂への山道が続いていた(通行は徒歩のみ可)。
石段は崩れかけていて、薄暗い。女性は一人で行かないほうがいいかもしれない。

上乗寺と庭園(湖南市三雲)

上乗寺本堂と庭園。

本堂の脇に車道があったが、しばらく人が来た気配が無かった。
町が設置した案内板は風雨にさらされ、一帯は空気が止まったみたいに静まり返っている。
あまり長居はできないと感じ、すぐに引き上げた。

夕方に近かったせいか、曇ってきたせいか分からないが、「気」は感じなかった。
全てのものが止まっているような、例えば軍艦島のような、と言えば表現できるだろうか。
人がいないという事と、長い間人や生き物が来た気配がない事は、まったく違う。
今回は最初に日雲神社へ伺ったから、対照的で、余計に強く感じたのかもしれない。

甲可日雲宮と倭姫命の伝承地は、いずこも独特の雰囲気を持っていた。
かなりの歴史もある。それゆえに甲乙つけがたいのが実感だった。
撮影していると、色々なものに出会う。色んな寺社に出会った半日だった。
(撮影日:2013年10月30日)

 



日雲の宮は大神宮の跡ではないかもしれないが、諸国に見られる太陽信仰の遺跡で、天照大神と同系であったことは確かである。現在は勅使野の上乗寺に、その跡が残っているが、宮居には絶好の場所のように見える。飯道山の西側、紫香楽の宮の近くにも、日雲神社があるが、飯道山は古くイイミチヤマと呼び、農耕民族が祀った神山であった。・・・山岳信仰も、[飯道山の]修験道も、ひいては[甲賀]忍者に及ぶまで、ひと筋につながる伝統のなかから発生した。
-白洲正子『近江山河抄』「鈴鹿の流れ星」

 



次回:鈴鹿の流れ星3(滋賀県甲賀市:飯道山と飯道神社)の予定です。



大きな地図で見る


 

 

続きを読む "鈴鹿の流れ星2(滋賀県甲賀市から湖南市:信楽の日雲神社、水口の笠山神社、三雲の上乗寺。倭姫命の伝承と甲可日雲宮続編)~近江山河抄の舞台を歩く(45)" »

2013年11月11日 (月)

鈴鹿の流れ星1(滋賀県甲賀市土山町:垂水斎王頓宮跡、倭姫命の伝承と甲可日雲宮、田村神社)~近江山河抄の舞台を歩く(44)

 


甲賀市土山町頓宮


国道1号線を鈴鹿峠から滋賀県に入ると、そこは甲賀市土山町である。

鈴鹿山脈の南端に位置する土山は、東海道五十三次の宿場町。お茶所としても知られる。
土山町頓宮(とんぐう)に入ると、「頓宮大茶園」と「垂水斎王頓宮跡」の表示が見えてくる。

垂水斎王頓宮跡と茶畑(甲賀市土山町頓宮)


国道1号線脇の茶畑の中にあるのが、垂水斎王頓宮跡(たるみ さいおう とんぐうあと)。

かつて土山町には、斎王が伊勢に赴く際、みそぎのために泊まる仮宮(頓宮)があった。

斎王(斎宮)とは、伊勢神宮に仕える未婚の内親王または女王をいう。
飛鳥時代以前から存在していたが、天武天皇の時代に正式に制度として確立する。
歴代の天皇が即位するたびに占いで選ばれ、通常は天皇の崩御・譲位まで務めたという。

886年(平安時代)以降、斎王が選ばれると京都から伊勢まで五泊六日で群行した。
近江の国では勢田・甲賀・垂水の三ヶ所、伊勢の国では鈴鹿・壱志の二ヶ所で宿泊した。

垂水斎王頓宮跡入口(甲賀市土山町頓宮)
垂水斎王頓宮跡(甲賀市土山町頓宮)

垂水斎王頓宮跡。この頓宮は平安時代にできたもので、昭和19年に国の史跡になった。

頓宮は郡行が終わるとすぐに解体されたので、所在地の特定はかなり難しいという。
垂水頓宮は昭和10年に国の現地調査が行なわれ、頓宮跡だと実証された貴重な場所だ。

垂水頓宮跡保存会によれば、垂水には378年間に31人の斎王が泊まった記録がある。
現在は、写真の建物裏に井戸の跡があり、敷地の周囲には土手が残っている。

あいの土山斎王群行(甲賀市土山町大野)

土山町では、平成10年から顕彰行事「あいの土山斎王群行」が行なわれている。

出発前のみそぎの儀式は、ここでも重要視されている。
(撮影日:2013年3月24日。甲賀市立大野小学校にて、出発前のひとこま)

垂水斎王頓宮跡と甲可日雲宮の林、そして茶畑(甲賀市土山町頓宮)

垂水斎王頓宮跡の敷地裏の道を右へ行くと、茶畑の中に、もうひとつ林がある(写真左)。

甲可日雲宮(日雲神社)の林である。ここも頓宮と縁のある場所だが、案内は出ていない。

斎王の直接の起源とされるのが、倭姫命(やまとひめのみこと)という皇女である。
倭姫命は第11代垂仁天皇の第4皇女で、『古事記』『日本書紀』に登場する。
鈴鹿山脈の北(米原市醒井)には日本武尊の伝承が多いが、日本武尊のおばが倭姫命だ。

式年遷宮で話題の伊勢神宮だが、その内宮を創建したのが倭姫命とされている。
内宮創建に際し、倭姫命は近江の甲可日雲宮(こうかひぐものみや)に4年滞在したという。
紀元前の伝承なので、平安朝の垂水斎王頓宮のほうがずっと後の時代になる。
垂水斎王頓宮と甲可日雲宮の関係について、白洲正子さんは次のように書いている。

 



[頓宮跡は]野洲川の上流の横田川にそっていて、仮の宮所のこととて何も残っていないが、茶畑に囲まれた見晴らしのよい高台にある。・・・伊勢への道は他にもあるのに、特に野洲川の流域がえらばれたのは、日雲宮との関係によるとしか思えない。
-白洲正子『近江山河抄』「鈴鹿の流れ星」

 


甲可日雲宮(甲賀市土山町頓宮)

↑甲可日雲宮の鳥居をくぐると、すぐに日雲神社の鳥居がある。↓

周囲は「あいの土山マラソン」のコースになっているが、その表記も日雲神社になっていた。
ちなみにGoogle Mapでは甲可日雲宮になっている。どちらも呼称なのだろう。

甲可日雲宮(日雲神社、甲賀市土山町頓宮)

いわゆる甲可日雲宮は、一言で言えば「元伊勢」(もといせ)の一つである。

伊勢神宮が三重県伊勢市に鎮座するまで一時的に祀られた伝承地のことだ。
伊勢神宮の母体といっていいかもしれない。

神話の世界をどう捉えるかは難しいが、何かを政治的に美化するということではなくて、
ただその根底にあるものをつなげてみようというのが、今回の撮影のスタンスにある。

歴史ある社寺や建造物を撮っていると、自分の理解の次元を越えるものに出会うことが多い。
そんな時、神話や伝承は何かの寓話であって、暗示するものがあるように感じる。

神話や伝承の話が好きだと思われることがあるが、私にとっては好き嫌いというよりも、
共同体の深層心理を探る一つの手がかりになると思っている。

というわけで、しばらく神話の世界にお付き合い願えれば、ありがたい。

甲可日雲宮境内(甲賀市土山町)
伊勢神宮内宮の祭神は天照大神、つまり、皇室の祖とされる神(皇祖神)である。
第10代崇神天皇の時代まで皇居内に祀られていたが、崇神天皇はその状態を畏れた。
そこで皇女・豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託して、天照大神を笠縫邑に移した。
(笠縫邑がどこなのかは諸説あり、大和(奈良県)のどこかと考えられている。)

第11代垂仁天皇の皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)がこれを引き継ぐこととなる。
倭姫命は大和から伊賀・近江・美濃・尾張を経て伊勢に入り、神託を受け天照大神を祀った。
これが伊勢神宮内宮の起源だとされている。

この道中で、倭姫命は近江の甲可日雲宮(こうかひぐものみや)に4年滞在したとある。
その後、近江ではもう一箇所、坂田宮(さかたのみや)に2年滞在したとある。

坂田宮の場所に争いはないようで、坂田神明宮(米原市近江町)と推定されている。
しかし、甲可日雲宮の伝承地は、甲賀市と隣の湖南市に、10箇所以上もある。
そのひとつが、垂水斎王頓宮跡そばの「甲可日雲宮」なのである。
そういうわけで土山町を始めとする甲賀市一帯には、倭姫命の伝承が色濃く残っている。

垂水斎王頓宮跡遠景と国道1号線(甲賀市土山町前野)

国道1号線を頓宮(写真)からバスで5分行くと、甲可日雲宮のもう一つの伝承地がある。

(頓宮最寄のバス停:貴生川駅より甲賀市コミュニティバス「土山本線」東前野または白川橋)

田村神社と国道1号線(甲賀市土山町)

国道の向こうに見えているのが、田村神社(土山町北土山)。

実は、この田村神社は、倭姫命をも祭神として祀っている。

田村神社の主祭神は、平安初期の武人であり征夷大将軍となった坂上田村麻呂である。
田村麻呂は鈴鹿山の鬼退治をした功績により、平安時代初期に田村神社に祀られたという。
鈴鹿山の鬼が何を意味するのか気になったが、倭姫命とは関係ないようだ。
鈴鹿の鬼は、日本武尊の伊吹山の毒矢の話と同様、体制に反対した者のようにも読める。

田村神社二の鳥居(甲賀市土山町)

一の鳥居をくぐると見事な社寺林が広がり、二の鳥居(写真)は神秘的な雰囲気がある。

壮大な社寺林を抜けていくと、まるで森林浴をしているようで、歴史の深さを感じた。
奥に見えている三の鳥居をくぐると社務所があって、さらに境内の橋を渡っていく。

田村神社本殿(甲賀市土山町)

朝の田村神社本殿。

現在の本殿は、2012年の鎮座1200年を記念して、2011年に造替されたばかりだ。

田村神社本殿とご神木(甲賀市土山町)

境内の木々も、また見事だった。


田村神社境内を流れる御手洗川(甲賀市土山町)

田村神社境内を流れる御手洗川で、参拝者は厄除を祈念する。

御手洗川の眺めは、斎王のみそぎの儀式を想起させるのに十分だった。
古来から水の流れが重要視されていたのは間違いない。

田村神社境内を流れる御手洗川(甲賀市土山町)

野洲川の支流・田村川が、田村神社境内のすぐ脇を悠々と流れていた。

 



[垂水斎王頓宮跡の]すぐそばには田村神社があって、倭姫命と坂上田村麿を祀っているが、
田村麿の方は、鈴鹿山の鬼退治の武勲により、後に附加されたといわれている。
倭姫は、別名を鈴鹿姫と呼んだといい、この地方とは縁の深い女性であった。
-白洲正子『近江山河抄』「鈴鹿の流れ星」

 


そういえば、倭姫命が滞在した坂田宮は、鈴鹿山脈の北側(滋賀県米原市)に位置する。
そして甲可日雲宮は、鈴鹿山脈の南側にある甲賀市の辺りにあったと考えられている。
鈴鹿も米原も甲賀も、かなり奥が深いと感じる。(撮影日:2013年10月28日、3月24日)

なお、甲可日雲宮とは関係ないのだが、最後にご紹介しておきたいことがある。
「近江の厳島」こと白鬚神社(こちらは高島市)も、倭姫命の創建と伝わる神社なのだ。

白鬚神社と琵琶湖-2
白鬚神社境内(例祭の日に)


白鬚神社本殿。創建は伊勢神宮内宮と同じく、倭姫命(やまとひめのみこと)によるもの。

創建年の垂仁天皇25年(BC5年※)は、伊勢神宮内宮創建とされる垂仁天皇26年に近い。
白鬚神社は伊勢神宮と同じくらいの歴史の長さがあり、同じルーツを持つことがうかがえる。

※BC5年は『古事記』『日本書紀』に記述される在位期間を機械的に西暦に置き換えた年代。
参考:上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧(ウィキペディア)

白鬚神社本殿案内板


次回:鈴鹿の流れ星2(甲賀市と湖南市三雲:甲可日雲宮伝承地と倭姫命ゆかりの地を巡る)の予定です。



大きな地図で見る


 

 

続きを読む "鈴鹿の流れ星1(滋賀県甲賀市土山町:垂水斎王頓宮跡、倭姫命の伝承と甲可日雲宮、田村神社)~近江山河抄の舞台を歩く(44)" »

2013年11月 6日 (水)

比良の暮雪8(高島市安曇川町、高島市鴨:神代文字の石、鴨稲荷山古墳、高島歴史民俗資料館、藤樹書院跡、陽明園)~近江山河抄の舞台を歩く(43)

 


石敢当(高島市安曇川町)

石敢当案内板(高島市安曇川町)


安曇川駅からさほど離れていない南市の交差点に、「石敢当」(いしがんとう)がある。

道路のつきあたりや村の辻々に建てられ、集落の守護や魔除けの意味をもつ石柱だ。
石敢当は南九州から沖縄によく見られるが、これは滋賀県唯一のもので道標も兼ねている。

この石敢当は江戸時代のものだが、集落自体はかなり昔からあったようだ。
というのも、近くには、古墳時代の建物跡が発見された東窪田遺跡や八反田遺跡がある。
高島市の資料では、古墳時代の集落がこの一帯に広がっていた可能性を指摘している。

南市の交差点から、湖西線に平行してまっすぐ南へ行くと、北出地区に出る。
途中でふたまたに分かれる道の右側を行くとすぐ、滋賀県最大級の石造宝塔がある。

石造宝塔「鶴塚」(高島市安曇川町)


石造宝塔「鶴塚」。鎌倉時代の宝塔で高さ4.2m。二体の仏像が彫刻されているのが特徴。

伝承によると、昔、ある武将がこのあたりで雄鶴を射落としたが、頭がなかったという。
翌年、同所で雌鶴を射落としたところ、その鶴は翼の下に雄鶴の頭を抱いていた。
心打たれた武将は塔を建て、鶴夫婦の霊を弔った(鶴塚)と伝わっている。

鶴塚の姿は同じく鎌倉時代に作られた長安寺の牛塔(大津市)を彷彿させた。
前回ご紹介した三重生神社、田中神社、玉泉寺にも見事な石造宝塔が残っている。

淡海の国のもう一つの枕詞を「石走る(いわばしる)」というのも、石に恵まれていたことの形容かも知れない。と、『近江山河抄』の中で白洲正子さんが書いていたのを思い出す。

神代文字の石と力石(高島市安曇川町)


同じ北出地区にあるのが、安閑神社そばの「神代文字の石」。

絵画とも文字とも判別のつかない陰刻を残し、古くから神代文字の石として伝えられている。
同じ安曇川町の三尾神社旧跡には神代文字書「秀真伝」40巻が伝わっており、興味深い。

神代文字の石(高島市安曇川町)

神代文字の石と力石の案内板(高島市安曇川町)


「神代文字の石」の隣には、当時の水争いの一端をうかがわせる「力石(水口石)」。

鶴塚が作られたのと同じ鎌倉時代、このあたりに力持ちの娘さんがいたらしい。

この二つの石が置いてある安閑神社は、祭神が安閑天皇(継体天皇の第一皇子)である。
継体天皇は高島で誕生したと言われており、安曇川には継体天皇の関連遺跡が多い。
安閑神社から湖西線の方向に少し行き、箕島神社の前を南下すると三尾里という集落に入る。
ここに継体天皇ゆかりの円墳がある。安曇川町で唯一、平地に築かれた円墳である。

胞衣塚(高島市安曇川町)

胞衣塚案内板(高島市安曇川町)


三尾里地区の南にあるのが、継体天皇のへその緒を埋めたと言う「胞衣塚(えなづか)」。

胞衣塚は直径約12m、高さは約2mで、6世紀頃の築造と考えられている。
そして、南を流れる川は「御殿川」と呼ばれている。

伝承によれば、継体天皇の父・彦主人王は「近江国高島郡三尾之別業」に住んでいた。
越前国高向(福井県坂井市丸岡町高椋)より振姫を妃に迎え、継体天皇が産まれた。
そして、この三尾里一帯が、「三尾之別業」の伝承地だとされている。

胞衣塚と御殿川(高島市安曇川町)


胞衣塚(写真右)と御殿川(写真左)。川のそばに立派な常夜灯がある。

ここからさらに南下すると、高島市鴨(北鴨地区)に入る。

天皇橋(高島市鴨)


鴨川に架かる「天皇橋」。もとは天王(てんおう)橋と呼ばれていた。

この橋を渡ってすぐの宿鴨地区で、1902年(明治35年)鴨稲荷山古墳が発見された。
鴨稲荷山古墳の発見後に、天皇橋と呼ばれるようになったそうだ。

鴨稲荷山古墳(高島市鴨)


鴨稲荷山古墳。全長60mの周濠を有する前方後円墳で、現在は後円部だけが残っている。

写真右側の小屋(覆い屋)は、後円部の横穴式石室の上にあり、地元の寄付で建てられた。
内部に石棺があって、ガラスごしに見学できる。内部の写真を滋賀県よりご提供いただいた。

鴨稲荷山古墳石棺(高島市鴨)


鴨稲荷山古墳石棺(写真提供:滋賀県広報課)

鴨稲荷山古墳は、湖西地方では平野部に立地する唯一の前方後円墳である。
築造時期は6世紀前半、継体天皇を擁立した三尾氏の族長が被埋葬者と考えられている。
副葬品の複製の一部は、近くの高島歴史民俗資料館で見ることができる。

金銅製宝冠複製(高島歴史民俗資料館にて)


金銅製宝冠複製(高島歴史民俗資料館、原品は京都大学総合博物館)。

鴨稲荷山古墳に埋葬された人物が身に着けていた金銅製の副葬品を再現したもの。
金色の飾り靴や耳飾、太刀の複製なども展示されていて、きらきら輝いていた。
これらの副葬品は、朝鮮半島の新羅王陵の出土品とよく似ていることが分かっている。
また、副葬品の配置は奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳と同様だという。

高島歴史民俗資料館は1階と2階に展示室があり、考古資料を無料で見学できる。
以前ご紹介した大溝城や、晩年を高島で過ごした近藤重蔵に関する展示もあった。
そして、今年の夏のあの話題に関する新聞記事なども展示してあった。
高島市の上御殿遺跡で国内に類がない「双環柄頭」型の短剣が見つかっている。
中国北方のオルドス式銅剣に似た短剣だという。

▼毎日新聞 2013年08月09日 大阪朝刊の解説記事(リンク)
http://mainichi.jp/feature/news/20130809ddn041040013000c.html

高島歴史民俗資料館
所在地:高島市鴨2239
TEL:0740-36-1553
開館時間:9:00~16:30 
休館日 :月曜日、火曜日、祝祭日(5/5・11/3は開館)、年末年始(12月28日~1月4日)
アクセス:安曇川駅より徒歩約20分又は江若バス近江高島駅行(南鴨経由)宿鴨下車

鴨川の上を走るJR湖西線(高島市鴨)


鴨川の上を走るJR湖西線。おなじみ、緑色の電車(113系)が走っていく。

対岸(竹林の辺り)の河川敷に沿って車道があり、中江藤樹の里の入口まで続いている。
天皇橋を渡って鴨川に沿って歩き、安曇川町の藤樹書院跡まで行くことができた。

藤樹書院跡の庭(高島市安曇川町)


高島市鴨から安曇川町上小川に入ると、水路に導かれるように藤樹書院跡の前に出る。

ここは日本の陽明学の祖と言われる儒学者・中江藤樹(1608-1648)の故郷だ。
上小川から青柳地区にかけては、藤樹神社や記念館、墓所などが集まっている。

藤樹書院跡の庭は掃き清められていて、踏み荒らすのが申し訳ないほどだった。
今回は書院跡のみ立ち寄ったが、隣の「良知館」で地元の方の説明を受けることができる。

「至良知」
人は誰でも生まれながらに美しい心(良知)を持っている。
その心を汚さずに、鏡のように綺麗にしておく事が大切である。

出典:http://www.touju.jp/study.html(近江聖人中江藤樹記念館)

藤樹書院跡にて、五事を正す(高島市安曇川町)


藤樹書院跡に掛けてあった言葉「五事を正す」もまた強く印象に残る言葉だった。

近江聖人と呼ばれる藤樹の教えは、その平明さゆえに広く受け入れられたといえる。

「五事を正す」

    貌(ぼう)-顔かたち
    和やかな顔つきで人と接し

    言(げん)-言葉づかい
    思いやりのある言葉で話しかけ

    視(し)-まなざし
    澄んだ目でものごとを見つめ

    聴(ちょう)-よく聞く
    耳を傾けて人の話を聴き

    思(し)-思いやり
    真心を込めて相手のことを思う

出典:http://www.touju.jp/study.html(近江聖人中江藤樹記念館)

藤樹書院跡(高島市安曇川町)


農家の中江吉次の長男として、近江の小川村で誕生した与右衛門が、後の藤樹である。

9歳の時に祖父・徳左衛門の養子となり、祖父とともに伯耆米子藩、伊予大洲藩に仕えた。
27歳のとき母への孝行を理由に藩に辞職を願い出るが、拒否されたため脱藩する。
近江に戻って郷里の小川村で開いた私塾が、藤樹書院である。
屋敷に藤があったことから、藤樹先生と呼ばれるようになった。

藤樹書院は茅葺き入母屋造りの書院で、藤樹が41歳で亡くなる半年前に完成した。
講堂は明治13年の小川村大火で焼失するが、明治15年に再建されている。
大火の際も遺品などは残り、写真の門は江戸時代後期のままである。
大正11年に国の史跡に指定され、命日の9月25日には儒式の祭典が行われている。

玉桂寺(高島市安曇川町)

玉桂寺の藤樹墓所(高島市安曇川町)


藤樹書院の前から見える日吉神社の角を曲がると、玉桂寺がある。

境内に中江藤樹の墓所があり、儒式の墓に倣って土盛りがあって墓碑が建つ。
母親、三男の常省氏と並んで葬られていて、2007年に国史跡に追加指定された。

藤樹神社鳥居(高島市安曇川町)


藤樹神社。大正11年に県社として創立されている。


陽明園のあづまや(陽明亭)の内部(高島市安曇川町)


藤樹神社の隣にある陽明園。あづまや「陽明亭」の壁面は御覧のとおりの美しさだった。

陽明園は、王陽明の故郷・余姚市の全面協力により建てられた中国式庭園である。
王陽明の生きた明代(1368~1661)の建築様式を復元している。

陽明園(高島市安曇川町)

陽明園の龍(高島市安曇川町)

今回歩いたコースを掲載します。(撮影日:2013年10月31日)

08:24 安曇川駅到着(JR湖西線)
08:35 江若バス 朽木学校行き乗車→08:41 庄堺バス停到着(10分ほど周辺散策)

以下、すべて徒歩(約12km)

08:59 三重生神社 [安曇川町常磐木]
09:10 安産もたれ石 [安曇川町田中]
09:15 彦主人王御陵(田中王塚古墳)
09:21 田中36号古墳
09:25 田中神社(休憩)
09:44 玉泉寺の石仏
10:02 町石[田中交差点近く]

10:16 南市の石敢当
10:27 鶴塚 [安曇川町北出]
10:30 神代文字の石 [安曇川町北出]
10:42 胞衣塚と御殿川 [安曇川町三尾里]

10:50 鴨川と天皇橋 [高島市鴨]
10:55-11:30 鴨稲荷山古墳と高島市歴史民俗資料館
↓鴨川沿いに歩く
11:58 藤樹書院跡[安曇川町上小川]
12:13 藤樹墓所(玉林寺)
12:17 藤樹神社(7分ほど滞在)
12:28 陽明園[安曇川町青柳]

陽明園向かいにある道の駅に立ち寄った後、安曇川駅まで15分歩いて帰路に着いた。
安曇川と鴨は、過去と現代が交錯する貴重な場所だと、改めて実感している。

参考資料:高島歴史探訪ガイドマップ 継体天皇関連遺跡を歩く(滋賀県高島市)
高島遺跡散策マップ-安曇川地域編-(高島市教育委員会、2010年)


次回:鈴鹿の流れ星1(甲賀市土山町:倭姫命の伝承と甲可日雲宮、田村神社、垂水斎王頓宮跡)の予定です。



大きな地図で見る

「比良の暮雪」バックナンバー(撮影地:大津市北部、高島市)
比良の暮雪7(高島市安曇川町:彦主人王御陵・田中神社・玉泉寺の石仏)
比良の暮雪6(近江高島:白鬚神社、鵜川四十八体石仏群、大溝城跡、乙女が池)
比良の暮雪5(小野から近江高島へ。JR湖西線の車窓の風景と、近江の厳島「白鬚神社」)
比良の暮雪4(小野後編:曼陀羅山古墳群・和邇大塚山古墳)
比良の暮雪3(小野中編:小野妹子神社(唐臼山古墳)からゼニワラ古墳、曼陀羅山古墳群)
比良の暮雪2(小野前編:小野神社、小野篁神社、石神古墳群、小野道風神社)
比良の暮雪1(比良八講(2013年3月26日撮影))


 

 

続きを読む "比良の暮雪8(高島市安曇川町、高島市鴨:神代文字の石、鴨稲荷山古墳、高島歴史民俗資料館、藤樹書院跡、陽明園)~近江山河抄の舞台を歩く(43)" »

2013年11月 2日 (土)

比良の暮雪7(滋賀県高島市安曇川町:彦主人王御陵・田中神社・玉泉寺の石仏)~近江山河抄の舞台を歩く(42)

 


滋賀県では、2013年9月の台風18号で、安曇川の南にある鴨川(高島市鴨)が氾濫した。
鴨川氾濫の被害の半数近くが、南鴨地区に集中したと伺っている。

南鴨に近い宿鴨地区には、鴨稲荷山古墳と、高島市歴史民俗資料館がある。
今回は安曇川出身の中江藤樹の話だけ書くこともできたが、一緒にご紹介したかった。
被災地としてではなく鴨に行きたくて、1ヶ月以上待って、10月末に撮影に伺った。

鴨稲荷山古墳も、高島市歴史民俗資料館も、普通に見学できた。
天皇橋から鴨川に沿って歩き、安曇川町の藤樹書院跡まで行くこともできた。
そのことをまず記して、出会った方々に感謝しながら、安曇川のご紹介から始めたい。

田中王塚古墳(彦主人王御陵、高島市安曇川町)


琵琶湖の西側に位置する高島市安曇川町には、継体天皇ゆかりの遺跡が数多く残る。

第26代継体天皇(在位507- 531年)は、高嶋郷三尾野に生まれ、5歳のときに父を亡くした。
母の故郷・越前国高向(福井県坂井市丸岡町高椋)で育てられ、57歳のとき即位したという。
写真は、父である彦主人王(ひこうしおう・ひこうしのおおきみ)の墓と伝わる田中王塚古墳。

玉泉寺の石仏(高島市安曇川町)


安曇川を歩くと、神秘的で知られざる貴重な文化財に、次々と出会った。

玉泉寺の石仏は室町時代後期の作で、鵜川四十八体仏と同時期と推定されている。

神代文字の石(高島市安曇川町)


安曇川駅に近い、北出地区の安閑神社境内にあるのが「神代文字の石」。

絵画とも文字とも判別のつかない陰刻を残し、古くから神代文字の石として伝えられている。
同じ安曇川町の三尾神社旧跡には神代文字書「秀真伝」40巻が伝わっており、興味深い。
なお、安閑神社の祭神は安閑天皇で、継体天皇の第一皇子である。

陽明園の龍(高島市安曇川町)

陽明園のあづまや(陽明亭)の天井(高島市安曇川町)


安曇川といえば、近江聖人・中江藤樹を生んだ土地として知られている。

藤樹先生が広めた陽明学の本場・中国から贈られた「陽明園」が、道の駅のそばにある。
陽明園のあづまや(陽明亭)の天井は、御覧のとおりの美しさだった。

藤樹書院跡にて、五事を正す(高島市安曇川町)


藤樹書院跡に掛けてあった言葉。強く印象に残る言葉だった。

上小川から青柳地区にかけては、藤樹神社や記念館、墓所などが集まっている。

※今回は、安曇川駅起点に反時計回りで一周した行程(約13km)の、前半を掲載。
正午に陽明園へ到着することを目標に、安曇川駅から庄堺まではバスを利用している。

庄堺バス停の向こう側(高島市安曇川町)


五番領、十八川道、三重生(みおう)・・・。

8時35分に安曇川駅から乗った朽木行きのバスは、印象的な名前のバス停を通過していく。
庄堺を訪ねたのは、彦主人王の陵墓と伝わる田中王塚古墳を訪ねるためだった。
地名やバス停の名前は、まるで神話の世界を髣髴させるもので、期待が膨らんでいく。
6分後、庄堺バス停で下車。写真の田んぼの向こうは安曇川、そして、饗庭野演習場方面。

安曇川の撮影は後日にして、南へと歩き出す。すぐに三重生神社‎の社寺林が見えてきた。
三重生神社(安曇川町常磐木)は、継体天皇の両親(彦主人王と振姫)を祭神とする神社だ。

三重生神社の石造宝塔(高島市安曇川町)


三重生神社の本殿裏にある、鎌倉時代後期の石造宝塔。

この後、至る所で石造宝塔を見ることになった。

安産もたれ石(高島市安曇川町)

三尾神社旧跡案内板(高島市安曇川町)


常磐木から298号線を南へ行くと、山道の入口に「安産もたれ石」(写真右側)がある。

彦主人王の妃・振姫(ふりひめ)が、継体天皇を出産した時もたれたという伝承がある石だ。
一帯は三尾神社の旧跡で、振媛は三尾の社の拝殿を産屋として三つ子を安産したという。
このときの第三子が、後の継体天皇である。

山中の緩やかな坂道をしばらく登っていくと、車道と合流する。
そこが彦主人王御陵の参道の前だった。

田中王塚古墳の森(彦主人王御陵、高島市安曇川町)

田中王塚古墳案内板(彦主人王御陵、高島市安曇川町)


正面の森が、彦主人王御陵こと、田中王塚古墳。

「田中山古墳群」を構成する最大の古墳で、地元では「王塚」又は「ウシ塚」と呼ばれる。
直系58mの帆立貝式古墳(または円墳)と考えられており、築造は5世紀と推定されている。
5世紀といえば、彦主人王の時代と一致する。宮内庁が管理する陵墓参考地になっている。

田中36号墳(高島市安曇川町)

田中山古墳群(高島市安曇川町)


王塚古墳のすぐ下にあったのが、田中36号墳。築造時期は6世紀末と考えられている。

平成19年に発掘調査が行われ、現在は埋め戻されているということだった。
歩けば古墳に出会った小野(大津市小野)を思い出す。

田中神社拝殿の彫刻(高島市安曇川町)

田中神社境内(高島市安曇川町)


田中神社は大字田中郷の総氏神で、清冽な境内がとても印象的な神社だ。

田中36号墳の道路向かいにあって、社務所の裏から境内に入ることができる。
先程の三尾神社は、大正4年12月5日に田中神社内の摂社・三尾神社として遷座している。

田中神社(高島市安曇川町)

田中神社の石造宝塔数基(高島市安曇川町)


田中神社の階段脇には、見事な石造宝塔が数基、置かれてあった。

由緒などは何も書かれていなかったが、かなり古いものであることは間違いなかった。
この辺りに石の建造物が多い理由は、田中神社の長い参道の隣にある玉泉寺で知った。

高島市安曇川町


玉泉寺は天平年間に行基が開いたと伝わる寺院で、古い石仏と石造宝塔・層塔がある。

今回の2つ目のお目当てが、この玉泉寺の石仏だった。

玉泉寺の石仏、右から撮影(高島市安曇川町)


玉泉寺の石仏。室町時代後期の作で、鵜川四十八体仏と同時期と推定されている。

丸彫の五智如来で、向かって左から阿弥陀如来、薬師如来、大日如来、弥勒仏、釈迦如来。
中央に大日如来が配置するのは天台密教思想の反映といえると、案内板に記されていた。

中世、西方浄土に最も近いところと思われていたのが、ここ阿弥陀山の山麓周辺だったという。
そのため、玉泉寺などに今も石造の建造物や石仏群が数多く見られるということだった。

玉泉寺の石造層塔と石造宝塔(高島市安曇川町)


写真中央の「五重の石造層塔」、その左の「石造宝塔」ともに、鎌倉時代の作。

宝塔は台座の格狭間に二茎蓮の「のし結び」が陽刻され、湖西地方の特徴を表す。

町石とお地蔵さん(高島市安曇川町田中)


田中の交差点から、安曇川駅の方向に向かっていくと、「町石」とお地蔵さんに出会った。

町石は寺院等の参道に一町ごとに建てられた道標で、これは室町時代のものだとある。

田園風景(高島市安曇川町田中)


安曇川町田中から、比良山地の方向を見ている。

比良山地の西と北を流れる川が安曇川で、比良山地の南東は琵琶湖になる。
広々とした風景を目にして、ようやく安曇川の町に来た実感が湧いてきた。
次に目指すは、鴨稲荷山古墳と歴史民俗資料館がある、高島市鴨。


次回:比良の暮雪8(高島市安曇川町&鴨:神代文字の石、鴨稲荷山古墳、中江藤樹)

※安曇川町南市→北出→高島市鴨→安曇川町上小川→青柳を掲載予定です。

参考:高島歴史探訪ガイドマップ 継体天皇関連遺跡を歩く(滋賀県高島市)
高島遺跡散策マップ-安曇川地域編-(高島市教育委員会、2010年)


View Larger Map

「比良の暮雪」バックナンバー(撮影地:大津市北部、高島市)
比良の暮雪6(近江高島:白鬚神社、鵜川四十八体石仏群、大溝城跡、乙女が池)
比良の暮雪5(小野から近江高島へ。JR湖西線の車窓の風景と、近江の厳島「白鬚神社」)
比良の暮雪4(小野後編:曼陀羅山古墳群・和邇大塚山古墳)
比良の暮雪3(小野中編:小野妹子神社(唐臼山古墳)からゼニワラ古墳、曼陀羅山古墳群)
比良の暮雪2(小野前編:小野神社、小野篁神社、石神古墳群、小野道風神社)
比良の暮雪1(比良八講(2013年3月26日撮影))


 

 

続きを読む "比良の暮雪7(滋賀県高島市安曇川町:彦主人王御陵・田中神社・玉泉寺の石仏)~近江山河抄の舞台を歩く(42)" »

« 2013年10月 | トップページ | 2013年12月 »

2020年8月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
サイト内検索
ココログ最強検索 by 暴想

東日本大震災の記事を御覧の皆さまへ

このブログのご案内

  • ご訪問ありがとうございます♪

  • 風景写真家、アマナイメージズ契約作家。故郷滋賀の里山や寺社、各地の知られざる風景を撮影して歩いています。2007年12月から琵琶湖畔の町・堅田の写真を更新してきた写真ブログです。

  • ▼公式ホームページ(堅田を初めとする風景写真・自然写真を掲載しています) junphotoworks.com

    フェイスブックへのリンクは下記をご利用下さい。応援ありがとうございます!



  • Copyright(C)2007-2015.
    兼松 純(Jun Kanematsu)

    写真に電子透かしを使用しています。

    当ブログに掲載されている写真・画像・文章・イラストの無断複写、転載等の使用および二次使用を禁じます。
    No reproduction or republication without written permission.

    ■当ブログ掲載写真は、地域の方に楽しんでいただく作品発表の場として、2007年より掲載してきました。2014年には、祭事写真のために筆者(兼松)が書いた解説文を専門家が新聞コラムに無断使用する事態があり、弁護士相談の上で関係者各位に申し入れを行いました。 判断に迷うときは、事前にお問い合わせいただきますようお願いします。

    ■2014年春からアマナイメージズに作品の一部を預けています。 WEBに掲載していない作品もございますので、詳細はお問い合わせ下さい。

連絡先/Contact

ホームページへのリンク

堅田の町のご紹介

お気に入りサイト・ブログ

無料ブログはココログ