伊吹の荒ぶる神3(水のまち・醒井から、木彫りの里・上丹生へ。醒井渓谷、霊仙三蔵記念堂、醒井養鱒場、いぼとり水と西行水)~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(35)
番場宿まで一里のところで旧中山道から離れ、醒井から上丹生へ向かった。
醒井(さめがい)は、滋賀県米原市に位置する、中山道61番目の宿場町。
醒井といえば近江の人にはどこかで聞く名の「醒井養鱒場」。こちらが上丹生にある。
上丹生は、鈴鹿山脈の麓にある木彫りの里で、「三蔵法師」の故郷でもある。
白洲正子さんの著作には登場しないが、番外編としてぜひご紹介したい場所だった。
醒ヶ井駅から醒井小の脇を通り、丹生川に沿って南下し、下丹生の集落に入る。
初めて訪れたのは新緑の頃で、地元の方のご案内をいただいた。
醒井小の辺りでは、石灰工場の後に掘り続けているという砕石の採掘跡が見えていた。
下丹生に入ると、穏やかな田園風景が続く。とても美しい集落だった。
松尾寺まで「十二町」の道標。松尾寺の本尊「飛行観音」は雲に乗った珍しい観音様だ。
下丹生古墳の看板。横穴式石室の古墳で、息長丹生真人一族の墳墓と伝わっている。
息長丹生真人は、前回の「居醒の清水」で登場した「息長氏」の同族と言われている。
息長氏(おきながし)は、近江国坂田郡(現・滋賀県米原市)を根拠地とした古代豪族。
日本武尊の妃の一人は息長氏で、皇室との関わりをうかがわせる説話は多い。
古墳は時間の関係で立ち寄れなかったが、ご関心のある方はぜひ。
いぼとり地蔵。近くの「いぼとり水」を地蔵に供えた後、イボに塗ると良いという伝承がある。
おできやあせもにも効くといわれているが、飲むことはできない。
※駐車場、トイレ、休憩用ベンチ(屋根つき)あり。訪問者にはうれしい配慮。
醒井渓谷に入る。醒井養鱒場から来る醒ヶ井駅行きのバスが、時折、車道を通るくらい。
醒井渓谷の清流。伊吹山は石灰岩の山ゆえに、伏流水はミネラルを含んでいる。
地元の方の話では、他の町で喫茶店に入ると、水の違いを感じるとのこと。
醒井、下丹生、上丹生一帯は、水の町だと実感する。
霊仙山山道と醒井養鱒場の分岐点。
緑の中に突然、唐風のお堂が見えてくる。霊仙三蔵記念堂だ。
霊仙(りょうぜん)は、霊仙山の名前の由来となった人物である。
霊仙山の麓に生まれて僧になり、唐に渡って、日本で唯一、三蔵法師の称号を受けた。
霊仙三蔵記念堂内部。霊仙三蔵の像の周囲を、金色の五百羅漢像が囲む。
759年、霊仙は息長氏丹生真人一族として霊仙山麓に生まれ、6歳の頃仏門に入る。
息長氏丹生真人一族といえば、下丹生古墳の埋葬者とされる一族である。
霊仙は、6歳から15歳の頃まで、金勝寺別院霊仙寺及び醒井の松尾寺で修行。
15歳の頃、奈良の興福寺へ入山。法相宗とともに漢語を習得。
804年(45歳の頃)、遣唐使で唐へ渡る。このとき一緒に行ったのが、最澄、空海だった。
唐に渡った霊仙は長安で修行し、梵語(サンスクリット語)を習得。
時の憲宗皇帝は、宮廷の梵語の仏典の訳経に霊仙を指名する。
811年、「大乗本生心地観経」(だいじょうほんじょうじかんぎょう)の訳経が完成。
この功績により、霊仙は憲宗皇帝から「三蔵」の称号を授与された。
仏教の秘伝が失われることを恐れた憲宗皇帝は、霊仙に日本への帰国を禁じた。
820年、唐国内の政変で、憲宗皇帝が反仏教主義者に暗殺される。
弾圧を避けるため、霊仙は長安を後にし、五台山へ移る。五台山では金閣寺で修行。
しかし827年、霊境寺で不慮の死を遂げる。毒殺されたという説もある。享年68歳。
唐に渡った後、一度も日本の土を踏むことはなかった。
1989年(平成元年)頃より、松尾寺前住職の熱望で霊仙三蔵の顕彰の気運が高まる。
2000年「霊仙三蔵顕彰の会」発足、2004年「霊仙三蔵記念堂」が松尾寺内に建立された。
あれ?すねポーズでお出迎え。
記念堂の外でお弁当を食べていたら、かわいい犬がこちらを見ていた。
石段の向こうは松尾寺の駐車場。お寺の犬で、しばらく一緒に遊んだ。
松尾寺の敷地内にあるのが、料亭「醒井楼」。
松尾寺住職78世が、隣接の醒ヶ井養鱒場の虹鱒、ビワマスを世に出す事業として始めた。
現在の住職はその孫に当たる方で、醒井楼を直営し、霊仙三蔵記念堂の管理もされている。
▼飛行観音 松尾寺
http://matuoji.samegairo.com/
松尾寺(2010年5月当時/醒井楼の一部を使っていた時期に撮影)。
旧本堂は昭和56年1月の豪雪で倒壊し、2010年当時はいわゆる本堂がなかった。
醒井楼の中の大きな畳の部屋で、仏様に参拝した記憶がある。
本尊は「飛行観音」といい、十一面観世音菩薩と聖観世音菩薩が雲に乗っている。
戦時中は、戦場へ飛び立つ若者が多数祈願に訪れたという。とても印象的なお話だった。
その後2011年5月には資料館が建設され、2012年6月に新本堂の落慶法要が営まれた。
現在も、航空関係者や、海外留学など飛行を含めた旅の安全祈願の参拝が絶えない。
松尾山は680年、役の行者(役の少角)が難行苦行を求めて入山したと伝えられる霊地だ。
769年に松尾山と霊山一帯に建立された霊仙寺7ヶ寺の1つで、唯一残るのが松尾寺。
霊仙寺は金勝寺の別院だということで、ここでまた思いがけず奈良(興福寺)に出会った。
滋賀県栗東市の金勝寺は、聖武天皇の勅願により、奈良平城京の鬼門に建てられた寺だ。
金勝寺は「西の比叡山、東の金勝寺(こんしょうじ)」と言われた湖南仏教の中心地だった。
興福寺と同じ法相宗の寺だったが、平安時代後期には天台宗の寺になっている。
対岸の比叡山の勢力が入ってきて、金勝寺の勢力は失われてしまったという事らしい。
▼紫香楽の宮3(かくれ里「金勝」。大野神社から金勝寺里坊、金胎寺から金勝寺へ)~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(20)
http://katata.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-cde9.html
醒井養鱒場(滋賀県水産試験場醒井養鱒場)。
1878年(明治11年)設立。日本最古の養鱒場で、東洋一の規模を誇る。
マス類の孵化場のほか、本館(さかな学習館)やマス料理の食堂、釣り場などがある。
霊仙山麓から湧き出す清流をたたえた大小の池に、ニジマス、アマゴ、イワナなどが群泳。
▼滋賀県醒井養鱒場公式サイト
http://samegai.siga.jp/
上丹生は木彫りの里。上丹生彫刻の職人さんの仕事場を見学させていただいた。
上丹生木彫組合発行の冊子によれば、その起源は19世紀初め(江戸時代)に遡る。
その当時、長次郎という優れた堂大工がいて、上丹生彫刻の創始者と言われている。
その次男である上田勇助は、14歳の時、父・長次郎の命で京都へ彫刻修行に出た。
同伴したのは同郷の川口七右衛門で、二人で修行を終えて故郷へ技を伝えた。
修行を終えて戻った勇助は、長浜の浜仏壇の彫り物を手掛け、木彫りの里の基礎を築く。
明治になると、勇助の技術を継承した森曲水が、永平寺、本願寺などの欄間を彫刻。
大正15年には、曲水の弟・光次郎の作品が、パリの万国美術工芸博覧会で入賞。
上丹生彫刻は、技術とデザインの両方で広く知られるようになる。
戦中戦後は、物資の不足や仏壇仏具の需要減で、苦しい時代が続いた。
社寺の彫刻から仏壇の内陣まで、何でも対応できる技術を持つ数少ない里と言われる。
上丹生の特徴は、いろいろな分野の伝統工芸の職人さんがいるところだ。
二代目の勇助が仏壇を手掛けたことに始まり、上丹生は仏壇づくりの里として発展した。
木地師、錺(かざり)金具師、塗師がいて、仏壇の相談を専門にする仏壇屋も数軒ある。
この後、石久仏壇店で工場見学させていただいたのだが、仏壇の概念がひっくり返った。
仏壇というより、それはまるでひとつの小宇宙で、美しいお寺が建ったような感覚だった。
霊仙山の麓、水に恵まれた上丹生は、昔から良質の木材を産出してきた。
日本にないものは外国から輸入していて、インドから輸入したという白檀を見せて頂いた。
仏壇の漆塗りの見分け方も教えていただいた。どちらも本物の美しさがあって、圧倒された。
木地に丁寧な漆塗りを何度も施し、見事な錺金具をつけ、彫刻する。箔押しして蒔絵を施す。
仕上げまで一貫して行われていて、丁寧な手仕事で作られている。
出来かけの仏壇がいくつか置いてあったが、そちらにはすっぴんのような美しさがあった。
職人さんは本当に凄いと思った。
再び、醒井渓谷を歩いて、醒井へ向かう。
醒ヶ井駅に戻る途中、「西行水」という湧水に立ち寄った。
伝説によれば、西行法師が飲み残した茶の泡を飲んだ茶屋の娘が懐妊し、男子を出産。
帰路に話を聞いた西行が、もし自分の子なら泡に戻れと念じると子は忽ち元の泡になった。
このとき西行が詠んだ句が「水上は清き流れの醒井に 浮世の垢をすすぎてやみん」
西行は五輪塔を建てて「一煎一服一期終即今端的雲脚泡」と記したといい、泡子塚と呼ぶ。
水のまち醒井には、神話や伝説が多い。
前回と今回ご紹介したものだけでも、居醒の清水、十王水、いぼとり水、西行水。
ほかに、天神水、鍾乳水、役の行者の斧割水があり、「醒井七湧水」と呼ばれている。
水は人の心を揺らす。
水にまつわる話に喜びも悲しみも込められているのかもしれない。
次回:日枝の山道4(聖衆来迎寺と十界図の虫干し)の予定です。
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(追記)
滋賀県教育委員会の埋蔵文化財活用ブックレットに、この地域のことが詳しく出ています。
後から気がついたので、リンクを追記しておきます。ご参考になさってください。(2013年9月10日)
埋蔵文化財活用ブックレット2(近江の山寺2)
霊仙山と松尾寺の文化財(PDF:1,976KB)
埋蔵文化財活用ブックレット9(近江の城郭7)
京極氏遺跡群 -京極氏館跡・上平寺城址・弥高寺跡-(PDF:2,704KB)
埋蔵文化財活用ブックレット17
東海道をめぐる攻防-米原・醒井・柏原をめぐる-(PDF:2,422KB)
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