« 2013年7月 | トップページ | 2013年9月 »

2013年8月

2013年8月28日 (水)

びわ湖タワー跡観覧車(イーゴス108)、2013年9月より解体開始。元世界一の高さの観覧車、ベトナムで復活へ。(イーゴス108と堅田の四季の写真を掲載しています)

 


びわ湖タワー跡観覧車イーゴス108

話を堅田に戻そうと思っていたら、イーゴス108解体のニュースが飛び込んできました。

琵琶湖大橋のたもと、びわ湖タワー跡(今堅田)にそびえたつ観覧車といえば・・・
堅田のシンボル的存在になっている「イーゴス108」です。

この度ベトナムで観覧車として再出発することになり、9月からの解体が決定しました。

そこで今回は、堅田の四季の写真を、イーゴス108を主人公にして掲載しています。

イーゴス108。1992年のびわ湖タワー開業時は当時世界一の高さ(108m)でした。
「すごーい」を逆から呼んで「イーゴス」と名づけたそうです。

2001年にびわ湖タワーが閉園された後も、点検のため、月1、2回は動いていました。
それもすべて、運営会社の元社長さんが、イーゴス108の再開を願ってのことでした。

最盛期には一日1万3500人が乗ったといい、点検では今も問題なく動くそうです。
京都新聞8月24日朝刊によれば、解体には3ヶ月程度かかる見通しとのことです。

写真を改めて見返すと、風景の中に溶け込んでいた観覧車だったな、と実感します。
いつかベトナムへ行って、イーゴス108に乗って撮影してみたいとも思っています。
堅田からツアーを組むのも面白いかもしれませんね。
一抹の淋しさもありますが、イーゴス108の今後の活躍を祈って。

冬の夕暮れ時、観覧車(イーゴス108)
冬の夕暮れ時、琵琶湖大橋にある道の駅「米プラザ」へ向かう途中で撮影。
(2012年2月5日、17:00、滋賀県大津市今堅田3丁目)

雪の比良山系と畑と観覧車(イーゴス108)

堅田内湖に近い田んぼで、雪の比良山系(近江八景「比良の暮雪」)とともに撮影。
(2010年1月9日、15:13、今堅田1丁目)

雪の比良山系と愛らしい家々と観覧車(イーゴス108)

今堅田出島灯台バス停前にて、雪の比良山系と愛らしい家々とともに。
(2010年1月9日、14:14、今堅田1丁目)

琵琶湖の畔で、雪の比良山系と新緑と観覧車(イーゴス108)

琵琶湖の畔で、柳の新緑とカラスの巣、雪の比良山系とともに撮影。
(2008年3月18日、11:50、今堅田1丁目)

琵琶湖の畔で、桜と新緑と観覧車(イーゴス108)

琵琶湖の畔の同じ場所で、桜の咲く頃に撮影。
(2012年4月16日、16:17、今堅田1丁目)

春の堅田内湖の向こうに、観覧車(イーゴス108)

春の堅田内湖の向こうに、イーゴス108が見えています。
(2012年5月27日、14:03、本堅田2丁目)

真野の田んぼの向こうに、観覧車(イーゴス108)

堅田のお隣、真野の田んぼにて。右の林は、真野の神田神社の社寺林です。
(2011年5月25日、10:27、大津市真野4丁目)

真野川の新宿橋の向こうに、観覧車(イーゴス108)

真野川にかかる新宿橋にて。この先直進すると琵琶湖大橋です。
(2011年5月25日、10:47、真野4丁目)

琵琶湖大橋の向こうに、観覧車(イーゴス108)

対岸の守山市から見た堅田の町。琵琶湖大橋のたもとにイーゴス108。
堅田のあたりで比叡山が終り、その裾に重なるようにして、比良山が姿を現わすと、
『近江山河抄』の中で白洲正子さんが書いているとおりの風景です。
(2011年9月27日、14:21、滋賀県守山市)

琵琶湖大橋にて、守山から堅田に向かう右手に観覧車(イーゴス108)

琵琶湖大橋の上から。守山から堅田に向かうと右手にイーゴス108が見えてきます。
(2010年9月25日、11:01、琵琶湖大橋)

琵琶湖大橋にて、堅田の町と観覧車(イーゴス108)

琵琶湖大橋の上から。もうすぐ堅田に入ります。
(2010年9月25日、11:02、琵琶湖大橋)

夏の日、近くで見る観覧車(イーゴス108)

夏の日、近くで見るイーゴス108。かなり大きいです。
(2010年8月26日、15:28、今堅田2丁目)

秋の空と田んぼと観覧車(イーゴス108)

今堅田出島灯台バス停前にて、秋の空と田んぼとイーゴス108。
(2009年9月10日、13:49、今堅田1丁目)

秋の夕暮れ、堅田内湖大橋の上から眺める風景と観覧車(イーゴス108)

秋の夕暮れ、堅田内湖大橋の上から眺める風景とイーゴス108。
(2011年9月13日、18:11、本堅田4丁目)

晩秋の花畑にて、比良山系と観覧車(イーゴス108)

堅田内湖の畔の、晩秋の花畑にて、比良山系とともに。
(2012年11月25日、15:33、今堅田1丁目)

堅田内湖公園の向こうに、観覧車(イーゴス108)

堅田内湖公園の向こうに、イーゴス108。
(2009年11月26日、13:59、今堅田1丁目)

冬の夕暮れ、琵琶湖大橋に合流する道の向こうに、観覧車(イーゴス108)

冬の夕暮れ、琵琶湖大橋に合流する道の途中で。
(2012年2月5日、16:56、今堅田2丁目)

冬の夕暮れ、道路の向こうに観覧車(イーゴス108)がちらりと見えて

冬の夕暮れ、道路の向こうにイーゴス108がちらりと見えて。また会う日まで。
(2012年2月5日、16:58、今堅田2丁目)

Copyright©2007-2015 Jun Kanematsu/兼松純写真事務所. All rights reserved.


 


(2013年9月8日追記)

今回の記事について、お問い合わせや御感想をお寄せいただいた皆さま、ありがとうございます。
※写真に関するお問い合わせは、事務所のメールフォームからお願いします。

イーゴスの最終点検(ラストラン)は9月4日に無事終了したとのことです。
http://biwako-otsu.keizai.biz/headline/908/


 

 

2013年8月16日 (金)

日枝の山道4(聖衆来迎寺と十界図の虫干し)~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(36)

 


聖衆来迎寺


比叡山の門前町・坂本に程近い琵琶湖のそばに、聖衆来迎寺という天台宗の寺がある。

毎年8月16日に「十界図」という地獄絵図が一般公開されるので、撮影に行ってきた。
普段は拝観に予約が必要な寺なので、ぜひ伺いたいと思っていた。とはいえ、気温35度。
数年前の猛暑の日に、浅草寺でふらふらになって撮影したときの感覚が蘇ってくる。

アクセスを調べたら、大津駅から堅田駅行きの江若バスに乗れば、30分程で寺の前に着く。
ちょうどお盆ダイヤだったが、大津駅9時12分発のバスがあったので、乗っていくことにした。
撮影に集中できるのはありがたい。地域の足、江若バスにはいつも感謝です。

聖衆来迎寺の表門


聖衆来迎寺の表門。明智光秀の坂本城の城門を移築したものと伝えられる。

想像していたよりも、歩くことは殆どなかった。境内に入るとすぐに本堂があった。

ちなみに、聖衆来迎(しょうじゅらいごう)とは、
臨終の際に極楽浄土から阿弥陀如来と諸々の菩薩(聖衆)が現れて死者を迎えに来ること。

 



聖衆来迎寺は、そこ[飯室谷]からさらに下った下阪本の田圃の中にある。
・・・緑の稲田をへだてて、白壁の築地が、横に長くのびている景色は美しい。
ことに横川から飯室谷を経て辿りつくと、ほっとした気分になる。
-白洲正子『近江山河抄』「日枝の山道」

 


聖衆来迎寺本堂


聖衆来迎寺は由緒ある寺で、790年、天台宗の宗祖・最澄が地蔵教院として建立した。

1001年、比叡山横川恵心院の源信(恵心僧都)が弥陀来迎を感得し、聖衆来迎寺と改める。
国宝と重要文化財が多い寺だが、国宝の十界図は国立博物館等に預けられている。
十界図の実物は鎌倉時代のもので、毎年3枚ずつこの日のために里帰りする。

十界図のうちの一枚


十界図のうちの一枚。全部で15枚(15幅)あり、正式名は「絹本著色六道絵」。

15幅一同に公開されるのは模写で、撮影も許される。
模写といっても彩色が素晴らしく、遜色ない。近くで見ることができる。

十界図の一幅から四幅


十界図の一幅から四幅。閻魔王庁図から始まり(一番右)、地獄絵図が続く。

この寺の開祖・源信が『往生要集』の中で説いた「六道」を主に絵画化したのが十界図だ。

十界図の正式名にある「六道」とは、仏教の世界観から出た六つの迷いの世界だという。
地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天上界である。
これに声聞、縁覚、菩薩、仏界の四つの悟りの世界を合わせて「十界」と呼ぶ。

十界図の四幅から十三幅


十界図の四幅から十三幅。比叡山の僧侶の方が見学しておられた。

 



真夏の近江平野は、焦熱地獄さながらの暑さだが、本堂の中は涼しく、時折比叡山から吹いてくる風が、なんともいえず快い。これを「極楽のあまり風」というと、村の人達が教えてくれたが、昔の人はほんとうにぴったりした名前をつける。
-白洲正子『近江山河抄』「日枝の山道」

 

 


十界図の十四幅から十五幅


十界図の十四幅から十五幅。

聖衆来迎寺の開祖・源信は、「往生要集」の中で極楽浄土への往生を説いている。
十界図の最後で、念仏による六道輪廻からの解脱を表しているらしい。

聖衆来迎寺境内


聖衆来迎寺境内。右から本堂、客殿、開山堂。

客殿内部の襖絵は、江戸幕府の御用絵師だった狩野探幽や狩野派の手によるもの。
建物も庭園も見事な客殿だった。




境内の奥には、織田信長の小姓・森蘭丸の父、森可成(もりよしなり)の墓がある。

可成もまた信長に仕えた武将で、美濃金山城主だったという。
のちに宇佐山城(大津市錦織町)の城主となるが、坂本の合戦で討死する。
その亡骸は当時の聖衆来迎寺の住職によって寺に葬られた。

信長の比叡山焼き討ちの際、可成の墓があったおかげで、寺は焼き討ちを免れた。
当時の住職は、仏像・仏具などを船に乗せ、対岸の兵主大社へ避難させたという。
この寺には国宝や重要文化財が残った。比叡山の正倉院とも呼ばれている。

聖衆来迎寺境内の鳥居


境内の鳥居。


聖衆来迎寺境内の石仏


境内の石仏。歴史を感じさせる風合いで、本堂に向き合うように数体が立つ。


十界図を見学する人達でにぎわう聖衆来迎寺本堂


十界図を見学する人達でにぎわう本堂。


聖衆来迎寺参道


聖衆来迎寺参道。松並木と白壁が美しい。奥に表門が見える。

そういえば、堅田の浮御堂も、源信(恵心僧都)が開いた寺だったと思い出す。

 



恵心僧都が感得したのは、横川であるとも、飯室(いむろ)谷の安楽律院とも、坂本の聖衆来迎寺だったとも伝えている。が、ひとたび感得すれば、二度と消え失せる映像ではないから、どこと定めるにも及ぶまい。それより彼が横川から飯室谷、さらに平地の来迎寺へと、だんだんに下って来たことの方に私は興味を持つ。それは日枝の神霊が、奥宮、里宮、田宮と順々に降りて来るのに似なくもない。浄土の思想を広めるために、必要上そうなったともいえるが、最澄が日枝の山霊に救いを求めたように、源信の中にも、古代の神が巡った道が根強く生きていたに違いない。
-白洲正子『近江山河抄』「日枝の山道」

 



次回:比良の暮雪2(比良山と堅田)の予定です。



View Larger Map


 

続きを読む "日枝の山道4(聖衆来迎寺と十界図の虫干し)~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(36)" »

2013年8月11日 (日)

伊吹の荒ぶる神3(水のまち・醒井から、木彫りの里・上丹生へ。醒井渓谷、霊仙三蔵記念堂、醒井養鱒場、いぼとり水と西行水)~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(35)

 


番場宿まで一里の道標(醒井)


番場宿まで一里のところで旧中山道から離れ、醒井から上丹生へ向かった。

醒井(さめがい)は、滋賀県米原市に位置する、中山道61番目の宿場町。
醒井といえば近江の人にはどこかで聞く名の「醒井養鱒場」。こちらが上丹生にある。
上丹生は、鈴鹿山脈の麓にある木彫りの里で、「三蔵法師」の故郷でもある。
白洲正子さんの著作には登場しないが、番外編としてぜひご紹介したい場所だった。

下丹生の田園風景


醒ヶ井駅から醒井小の脇を通り、丹生川に沿って南下し、下丹生の集落に入る。

初めて訪れたのは新緑の頃で、地元の方のご案内をいただいた。
醒井小の辺りでは、石灰工場の後に掘り続けているという砕石の採掘跡が見えていた。
下丹生に入ると、穏やかな田園風景が続く。とても美しい集落だった。

松尾寺まで「十二町」の道標(下丹生)


松尾寺まで「十二町」の道標。松尾寺の本尊「飛行観音」は雲に乗った珍しい観音様だ。


下丹生古墳の看板


下丹生古墳の看板。横穴式石室の古墳で、息長丹生真人一族の墳墓と伝わっている。

息長丹生真人は、前回の「居醒の清水」で登場した「息長氏」の同族と言われている。
息長氏(おきながし)は、近江国坂田郡(現・滋賀県米原市)を根拠地とした古代豪族。
日本武尊の妃の一人は息長氏で、皇室との関わりをうかがわせる説話は多い。
古墳は時間の関係で立ち寄れなかったが、ご関心のある方はぜひ。

いぼとり地蔵

いぼとり地蔵案内板


いぼとり地蔵。近くの「いぼとり水」を地蔵に供えた後、イボに塗ると良いという伝承がある。

おできやあせもにも効くといわれているが、飲むことはできない。
※駐車場、トイレ、休憩用ベンチ(屋根つき)あり。訪問者にはうれしい配慮。

醒井渓谷の道


醒井渓谷に入る。醒井養鱒場から来る醒ヶ井駅行きのバスが、時折、車道を通るくらい。


醒井渓谷の清流


醒井渓谷の清流。伊吹山は石灰岩の山ゆえに、伏流水はミネラルを含んでいる。

地元の方の話では、他の町で喫茶店に入ると、水の違いを感じるとのこと。
醒井、下丹生、上丹生一帯は、水の町だと実感する。

霊仙山山道と醒井養鱒場の分岐点(上丹生)


霊仙山山道と醒井養鱒場の分岐点。


霊仙三蔵記念堂


緑の中に突然、唐風のお堂が見えてくる。霊仙三蔵記念堂だ。

霊仙(りょうぜん)は、霊仙山の名前の由来となった人物である。
霊仙山の麓に生まれて僧になり、唐に渡って、日本で唯一、三蔵法師の称号を受けた。

霊仙三蔵記念堂内部


霊仙三蔵記念堂内部。霊仙三蔵の像の周囲を、金色の五百羅漢像が囲む。


759年、霊仙は息長氏丹生真人一族として霊仙山麓に生まれ、6歳の頃仏門に入る。
息長氏丹生真人一族といえば、下丹生古墳の埋葬者とされる一族である。
霊仙は、6歳から15歳の頃まで、金勝寺別院霊仙寺及び醒井の松尾寺で修行。
15歳の頃、奈良の興福寺へ入山。法相宗とともに漢語を習得。
804年(45歳の頃)、遣唐使で唐へ渡る。このとき一緒に行ったのが、最澄、空海だった。

唐に渡った霊仙は長安で修行し、梵語(サンスクリット語)を習得。
時の憲宗皇帝は、宮廷の梵語の仏典の訳経に霊仙を指名する。
811年、「大乗本生心地観経」(だいじょうほんじょうじかんぎょう)の訳経が完成。
この功績により、霊仙は憲宗皇帝から「三蔵」の称号を授与された。

仏教の秘伝が失われることを恐れた憲宗皇帝は、霊仙に日本への帰国を禁じた。
820年、唐国内の政変で、憲宗皇帝が反仏教主義者に暗殺される。
弾圧を避けるため、霊仙は長安を後にし、五台山へ移る。五台山では金閣寺で修行。
しかし827年、霊境寺で不慮の死を遂げる。毒殺されたという説もある。享年68歳。
唐に渡った後、一度も日本の土を踏むことはなかった。

霊仙三蔵の足跡(案内板)


1989年(平成元年)頃より、松尾寺前住職の熱望で霊仙三蔵の顕彰の気運が高まる。

2000年「霊仙三蔵顕彰の会」発足、2004年「霊仙三蔵記念堂」が松尾寺内に建立された。

松尾寺の犬


あれ?すねポーズでお出迎え。

記念堂の外でお弁当を食べていたら、かわいい犬がこちらを見ていた。
石段の向こうは松尾寺の駐車場。お寺の犬で、しばらく一緒に遊んだ。

醒井楼


松尾寺の敷地内にあるのが、料亭「醒井楼」。

松尾寺住職78世が、隣接の醒ヶ井養鱒場の虹鱒、ビワマスを世に出す事業として始めた。
現在の住職はその孫に当たる方で、醒井楼を直営し、霊仙三蔵記念堂の管理もされている。

▼飛行観音 松尾寺
http://matuoji.samegairo.com/

醒井楼(松尾寺)


松尾寺(2010年5月当時/醒井楼の一部を使っていた時期に撮影)。

旧本堂は昭和56年1月の豪雪で倒壊し、2010年当時はいわゆる本堂がなかった。
醒井楼の中の大きな畳の部屋で、仏様に参拝した記憶がある。

本尊は「飛行観音」といい、十一面観世音菩薩と聖観世音菩薩が雲に乗っている。
戦時中は、戦場へ飛び立つ若者が多数祈願に訪れたという。とても印象的なお話だった。
その後2011年5月には資料館が建設され、2012年6月に新本堂の落慶法要が営まれた。
現在も、航空関係者や、海外留学など飛行を含めた旅の安全祈願の参拝が絶えない。

松尾山は680年、役の行者(役の少角)が難行苦行を求めて入山したと伝えられる霊地だ。
769年に松尾山と霊山一帯に建立された霊仙寺7ヶ寺の1つで、唯一残るのが松尾寺。
霊仙寺は金勝寺の別院だということで、ここでまた思いがけず奈良(興福寺)に出会った。

滋賀県栗東市の金勝寺は、聖武天皇の勅願により、奈良平城京の鬼門に建てられた寺だ。
金勝寺は「西の比叡山、東の金勝寺(こんしょうじ)」と言われた湖南仏教の中心地だった。
興福寺と同じ法相宗の寺だったが、平安時代後期には天台宗の寺になっている。
対岸の比叡山の勢力が入ってきて、金勝寺の勢力は失われてしまったという事らしい。

▼紫香楽の宮3(かくれ里「金勝」。大野神社から金勝寺里坊、金胎寺から金勝寺へ)~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(20)
http://katata.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-cde9.html

醒井養鱒場


醒井養鱒場(滋賀県水産試験場醒井養鱒場)。

1878年(明治11年)設立。日本最古の養鱒場で、東洋一の規模を誇る。
マス類の孵化場のほか、本館(さかな学習館)やマス料理の食堂、釣り場などがある。
霊仙山麓から湧き出す清流をたたえた大小の池に、ニジマス、アマゴ、イワナなどが群泳。

▼滋賀県醒井養鱒場公式サイト
http://samegai.siga.jp/

木彫りの里、上丹生-1(上丹生彫刻の職人さん)


上丹生は木彫りの里。上丹生彫刻の職人さんの仕事場を見学させていただいた。


上丹生木彫組合発行の冊子によれば、その起源は19世紀初め(江戸時代)に遡る。
その当時、長次郎という優れた堂大工がいて、上丹生彫刻の創始者と言われている。
その次男である上田勇助は、14歳の時、父・長次郎の命で京都へ彫刻修行に出た。
同伴したのは同郷の川口七右衛門で、二人で修行を終えて故郷へ技を伝えた。
修行を終えて戻った勇助は、長浜の浜仏壇の彫り物を手掛け、木彫りの里の基礎を築く。

明治になると、勇助の技術を継承した森曲水が、永平寺、本願寺などの欄間を彫刻。
大正15年には、曲水の弟・光次郎の作品が、パリの万国美術工芸博覧会で入賞。
上丹生彫刻は、技術とデザインの両方で広く知られるようになる。
戦中戦後は、物資の不足や仏壇仏具の需要減で、苦しい時代が続いた。
社寺の彫刻から仏壇の内陣まで、何でも対応できる技術を持つ数少ない里と言われる。

木彫りの里、上丹生-2(木彫りの像と彫刻刀)


上丹生の特徴は、いろいろな分野の伝統工芸の職人さんがいるところだ。

二代目の勇助が仏壇を手掛けたことに始まり、上丹生は仏壇づくりの里として発展した。
木地師、錺(かざり)金具師、塗師がいて、仏壇の相談を専門にする仏壇屋も数軒ある。

この後、石久仏壇店で工場見学させていただいたのだが、仏壇の概念がひっくり返った。
仏壇というより、それはまるでひとつの小宇宙で、美しいお寺が建ったような感覚だった。

霊仙山の麓、水に恵まれた上丹生は、昔から良質の木材を産出してきた。
日本にないものは外国から輸入していて、インドから輸入したという白檀を見せて頂いた。
仏壇の漆塗りの見分け方も教えていただいた。どちらも本物の美しさがあって、圧倒された。

木地に丁寧な漆塗りを何度も施し、見事な錺金具をつけ、彫刻する。箔押しして蒔絵を施す。
仕上げまで一貫して行われていて、丁寧な手仕事で作られている。
出来かけの仏壇がいくつか置いてあったが、そちらにはすっぴんのような美しさがあった。
職人さんは本当に凄いと思った。

醒井渓谷


再び、醒井渓谷を歩いて、醒井へ向かう。


西行水


醒ヶ井駅に戻る途中、「西行水」という湧水に立ち寄った。

伝説によれば、西行法師が飲み残した茶の泡を飲んだ茶屋の娘が懐妊し、男子を出産。
帰路に話を聞いた西行が、もし自分の子なら泡に戻れと念じると子は忽ち元の泡になった。
このとき西行が詠んだ句が「水上は清き流れの醒井に 浮世の垢をすすぎてやみん」
西行は五輪塔を建てて「一煎一服一期終即今端的雲脚泡」と記したといい、泡子塚と呼ぶ。

水のまち醒井には、神話や伝説が多い。
前回と今回ご紹介したものだけでも、居醒の清水、十王水、いぼとり水、西行水。
ほかに、天神水、鍾乳水、役の行者の斧割水があり、「醒井七湧水」と呼ばれている。

水は人の心を揺らす。
水にまつわる話に喜びも悲しみも込められているのかもしれない。


次回:日枝の山道4(聖衆来迎寺と十界図の虫干し)の予定です。



View Larger Map

(追記)

滋賀県教育委員会の埋蔵文化財活用ブックレットに、この地域のことが詳しく出ています。
後から気がついたので、リンクを追記しておきます。ご参考になさってください。(2013年9月10日)

埋蔵文化財活用ブックレット2(近江の山寺2)
霊仙山と松尾寺の文化財(PDF:1,976KB)


埋蔵文化財活用ブックレット9(近江の城郭7)
京極氏遺跡群 -京極氏館跡・上平寺城址・弥高寺跡-(PDF:2,704KB)


埋蔵文化財活用ブックレット17
東海道をめぐる攻防-米原・醒井・柏原をめぐる-(PDF:2,422KB)


 

 

続きを読む "伊吹の荒ぶる神3(水のまち・醒井から、木彫りの里・上丹生へ。醒井渓谷、霊仙三蔵記念堂、醒井養鱒場、いぼとり水と西行水)~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(35)" »

2013年8月 6日 (火)

伊吹の荒ぶる神2(中山道・柏原宿から醒井宿を歩く~後編:柏原一里塚から醒井「居醒の清水」とバイカモの花)~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(34)

 


柏原一里塚(復元)


中山道・柏原宿から醒井宿を歩く~後編は柏原一里塚(滋賀県米原市柏原)から掲載。

写真は柏原一里塚(復元)。江戸日本橋から数えて115番目の一里塚だという。
街道を挟んで北塚と南塚があったというが、両者とも現存しない。

一里塚とは、大きな道路の側に1里(約3.927km)毎に旅行者の目印として設置した塚をいう。
榎などの木が植えられ、木陰で旅人が休息を取れるように配慮されていた。

一里塚が全国的に整備されるようになったのは、江戸時代だったという。
1604年、家康の命を受けた受けた秀忠が、東海道・中山道・北陸道から設置に着手した。
工事現場の総監督はすべて大久保長安が行ない、10年ほどで完了した。
(参考:wikipedia(一里塚)

柏原宿の松並木

中山道柏原宿の道標


柏原宿の松並木。松並木の下には、石の道標。仲井町集会所を過ぎたあたりで撮影。


夏の田んぼと山に挟まれた一本道(滋賀県米原市柏原)


柏原の集落を抜け、夏の田んぼと山に挟まれた一本道を行く。どこか懐かしい風景。

平行して走っている内側の農道は出口が封鎖されていたので、歩く方はこちらの道をどうぞ。

白山神社(滋賀県米原市)


しばらく行くと、道の右側に白山神社がある。気になるが、先が長いので前を通過する。


柏原宿・長沢(旧中山道分岐点)


柏原宿・長沢(ながそ)。旧中山道は右側の山の中。中山道に合流する左の車道を進む。

この先すぐのところで、右側の山の木の枝が変な動きをするので、警戒したら、猿が一匹いた。
猿も驚いて逃げていった。

林の中を抜ける(滋賀県米原市)<br>

地蔵堂-1(滋賀県米原市)


林の中を抜けると立派な地蔵堂があった。この後、たびたびお地蔵さんに出合う。


中山道柏原宿の松並木より1.3kmの道標


石の道標。梓の街道並び松(古木)は12本で、ここより0.9kmと、左側の石に書いてあった。

柏原宿の街道並び松は6本で、ここより1.3kmとある。冒頭の松並木から1.3km進んだらしい。

地蔵堂-2(滋賀県米原市)


マンションと治療院のある一角に地蔵堂があった。

この辺りで道は中山道(名神高速の側道になっている)と合流する。

河内」の道標(滋賀県米原市)


マンションの前の横断歩道を渡ると、「河内」の道標。醒井宿へは右へ進む。

ちなみに京極氏の猪鼻城(河内城)へは、名神の高架をくぐって(直進)1.7km。
八講師城跡へは、左へ4.2km。ちょうど左へ歩いていく若い男性2人とすれ違った。
最近は同世代の人も、登山や町歩き、城歩きを楽しんでいるようで、うれしくなる。

この後、中山道は名神高速の側道区間が続き、一色の集落に入るまでひたすら歩いた。
後で地図を見ると、一色交差点手前の喫茶店周辺まで、集落内に道が平行して走っている。
側道に沿って梓河内の集落があるので、中の道を歩いたほうがいいかもしれない。

八幡神社のお地蔵さん(滋賀県米原市一色)


一色の交差点で中山道は名神と離れ、静かな集落に入る。喉がからからに渇いていた。

すぐに八幡神社があり、お地蔵さんが迎えてくれた。神社の入口で、しばし休憩。

佛心水(滋賀県米原市一色)


一色集落の「佛心水」。かつて中山道を通る人々の喉を潤したという。

後ろは東海道本線で、この辺りから醒ヶ井駅まで、中山道とほぼ平行して走っている。
醒井は近いと思ったが、ここからまだ少し距離があった。




ついに中山道醒井宿。醒井東の交差点の手前で中山道と分かれ、宿場の中へ入る。

写真の道標はその分岐点にある。商店街の続く一本道(旧中山道)を進む。
醒井は中山道の61番目の宿場として栄え、町中を清らかな水が流れる「水の町」だ。

居醒の清水(滋賀県米原市醒井)


滋賀県米原市醒井の「居醒の清水」。平成の名水百選にも選ばれている。

古事記や日本書紀にも登場し、ヤマトタケルノミコトが傷を癒すために用いたとされる湧水だ。
隣の白い石は「蟹石」と呼ばれている。看板のあたりから清冽な水がこんこんと沸いていた。

居醒の清水周辺-1(滋賀県米原市醒井)


醒井以外にも「居醒の清水」と言われている場所はいくつかある。

伊吹の神と対決し意識朦朧となったヤマトタケルノミコトは、居醒の清水で正気を取り戻す。
しかし病の身となり、弱った体で大和を目指して、能煩野(三重県亀山市〉で亡くなった。
ヤマトタケルノミコトの行程からすると、醒井は若干遠回りになるということになるらしい。

加茂神社(滋賀県米原市醒井)


居醒の清水の前に、加茂神社がある。


居醒の清水周辺-2(滋賀県米原市醒井)<br>

 


イブキ、イブクという言葉は、息を吹くことを意味するから、霧の多い伊吹山に、古代の人々は、神のいぶきを想ったに違いない。そのいぶきに当って、日本武尊は命を落した。
・・・
『古事記』では、「居寝(ゐさめ)の清水」と呼び、大蛇も白猪になっているが、ともに伊吹山に住む原住民族を象徴したものに違いない。山頂からは、石器が多く出土しており、毒草をぬった石矢が、氷雨となって降りかかったのであろう。現在、その清水は、醒ヶ井の町中の、神社の前を流れているが、ここも名神高速道路に分断され・・・だが、清冽な泉は滾々と湧き出ており、・・・神社の後ろには、道路をへだてて神体山らしいものも望める。
・・・
このあたりを領した息長(おきなが)氏の祖先には、水依媛という人物がおり、水が豊富な伊吹山の周辺に、多くの水神が祀られたのも不思議ではない。・・・もしかすると、息長氏に助けられたのが、そのような伝説となって残ったのではあるまいか。尊の妃の一人は息長氏で、その一族が祀った水神と結びついたとも考えられる。
-白洲正子『近江山河抄』「伊吹の荒ぶる神」

 


地蔵川(滋賀県米原市醒井)


居醒の清水を源流とする地蔵川。絶滅危惧種の魚・ハリヨと、バイカモの花で知られる。

ハリヨとバイカモは、どちらも清流でしか見られない。地元の方が保全活動をされている。

バイカモの花(滋賀県米原市醒井)


バイカモ(梅花藻)はキンポウゲ科の水生多年草で、初夏から秋にかけて白い花が咲く。

醒井は町中をきれいな水が流れているので、いろんな場所でバイカモを見ることが出来る。
観光協会の方によれば、バイカモの見ごろは6月から8月末とのこと。
行けばほぼ花が見られる場所が、醒井宿資料館(問屋場)前の地蔵川。ご参考に。

地蔵川沿いの家々と観光客(滋賀県米原市醒井)


バイカモの花と清流に涼を求めて、地蔵川沿いには多くの観光客が集まる。


十王水(滋賀県米原市醒井)


十王水(地蔵川)。

平安中期の天台宗の高僧・浄蔵法師が諸国遍歴の途中、水源を開いたと伝えられる。
近くに十王堂があったことから、十王水と呼ばれるようになったという。

町を流れる地蔵川の清流(滋賀県米原市醒井)


醒井の町を流れる地蔵川の清流。手前の黄緑がバイカモ。


旧醒井郵便局局舎(滋賀県米原市醒井)

旧醒井郵便局局舎。
堅田教会を手掛けたウィリアム・メレル・ヴォーリズ(William Merrell Vories)が設計。

1915年に建設され、1973年まで郵便局として使用されていた。
1階は展示室になっていて、休憩所として無料開放されている。(2階展示室は有料。)
場所は醒ヶ井駅から徒歩3分のところにある。この日もたくさんの人が利用していた。
(撮影日:2013年7月28日)

ところで醒井といえば、醒井養鱒場(さめがいようそんじょう)で知られる。
2010年5月、地元の方のご案内で、醒ヶ井駅から丹生川に沿って養鱒場まで歩いた。
実はこの辺りは、「三蔵法師」の故郷と言われている。

養鱒場の先に、鈴鹿山脈の「霊仙山」(りょうぜんざん)という標高1,094mの山がある。
この山麓に生まれて僧になり、日本で唯一、三蔵法師の称号を受けた人物がいる。
霊仙といい、最澄や空海とともに唐に渡り、才能を高く評価されて唐に留まって亡くなった。
先ほどヤマトタケルノミコト(居醒の清水)の箇所で出てきた、息長氏の出身と伝わっている。

霊仙を称えた「霊仙三蔵記念堂」が、2004年3月に醒井養鱒場の近くに建てられている。
2010年に記念堂の中を撮影させていただいたので、次回、番外編としてご紹介します。


次回:伊吹の荒ぶる神3(水のまち醒井から木彫りの里・上丹生へ。醒井渓谷、霊仙三蔵記念堂、西行水といぼとり水)の予定です。



View Larger Map

(追記)

滋賀県教育委員会の埋蔵文化財活用ブックレットに、この地域のことが詳しく出ています。
後から気がついたので、リンクを追記しておきます。ご参考になさってください。(2013年9月10日)

埋蔵文化財活用ブックレット2(近江の山寺2)
霊仙山と松尾寺の文化財(PDF:1,976KB)


埋蔵文化財活用ブックレット9(近江の城郭7)
京極氏遺跡群 -京極氏館跡・上平寺城址・弥高寺跡-(PDF:2,704KB)


埋蔵文化財活用ブックレット17
東海道をめぐる攻防-米原・醒井・柏原をめぐる-(PDF:2,422KB)


 

続きを読む "伊吹の荒ぶる神2(中山道・柏原宿から醒井宿を歩く~後編:柏原一里塚から醒井「居醒の清水」とバイカモの花)~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(34)" »

2013年8月 2日 (金)

伊吹の荒ぶる神1(中山道・柏原宿から醒井宿を歩く~前編:やいと祭と柏原宿歴史資料館、寄り道して清滝寺徳源院へ)~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(33)

 


やいと祭ポスター


柏原を訪ねた日、駅を降りたらちょうど「やいと祭」が始まるところだった。

「やいと」とはお灸のことで、やいと祭は伊吹もぐさをテーマに行われる宿場祭りだ。

柏原(かしわばら)は中山道六十九次の60番目の宿場町で、滋賀県米原市に位置する。
JR米原駅から名古屋方面行きの電車に乗ると、醒ヶ井、近江長岡、柏原、関ヶ原と続く。
関ヶ原といえば、県境を越えてもう岐阜県になる。

薬草の宝庫・伊吹山麓に位置する柏原は、よもぎを使った伊吹もぐさの産地として栄えた。
昔は街道沿いにもぐさの店が沢山あったというが、今は亀屋佐京商店一軒が残るのみ。

柏原宿(やいと祭の日)


やいと祭一色の柏原宿で、ブラスバンド会場に向かう学生さんとすれ違った。

楽器を手に、色とりどりのシャツを着て、気持ちのいい挨拶をしてくれた。
どこの町でも女子は元気がいいと実感する。
柏原は駅を中心に旧道が一本走っていて分かりやすい。初めてでも迷うことはなかった。

高札場(札の辻)跡と常夜灯(柏原宿)


かつての宿場町をしのばせる「高札場(札の辻)跡」の案内板の隣に、常夜灯。

柏原宿は中山道でも大きな宿場町で、東西13町(約1.5km)に344軒の家があったと伝わる。

アサガオの咲く家(柏原宿)


夏らしくて涼しげな風景。

アサガオの素敵な家があったので、撮影させていただいた。

柏原宿歴史資料館


柏原駅から0.5kmほどの街道沿いに柏原宿歴史資料館がある。

これから訪ねる徳源院(京極氏の菩提寺)のことなど、色々勉強になった。

受付や館内の女性スタッフが皆さん感じのいい方で、なんだか憧れてしまった。
突然こんなことを書くと、笑われるかもしれないけれど、まじめな話。
ある日突然、同世代や少し年上の同性(女性)に、こういう場所で会わなくなる。
朝の電車の中、受付、知人の職場、撮影先、などなど。
もちろん女性の多い職場や場所はあるだろうし、地域差もあるのかもしれない。

身近でお手本になる人は少ないし、時に、諸々をかわしつつ、
時に、私ひとりで歩いているような気分になって、もう10年近く経つ。
だから、自然体で働いている方に会うと、とてもうれしくなるのかもしれない。

京極氏の資料をいただいた後、渡り廊下で思いがけず出合ったのが寝物語の里道標だった。

寝物語の里道標(柏原宿歴史資料館)

 



番場の宿から、醒ヶ井、柏原を経て、中山道の旧道を行くと、「寝物語の里」に来る。
近江と美濃の境の宿で、両国の人々が壁ひと重をへだてて、寝物語をしたというので
知られている。不破の関はここから近い。
-白洲正子『近江山河抄』

 


実際の「寝物語の里」は、柏原駅の反対方向(関ヶ原の方向)にある。
駅から歩いて15分程度だというので、いつか機会を改めてご紹介したい。
http://www.biwako-visitors.jp/search/spot.php?id=4272

「やくし道」道標


柏原宿歴史資料館を出て少し行くと、薬師道の道標があった。

柏原宿で感心したのは、道標や案内板がそこかしこにあって人を飽きさせないこと。

柏原宿の町並み


柏原宿の町並み。

手前で右折して寄り道する予定だったので、気がついて引き返している。
※写真のすぐ先に柏原一里塚があり、次回はそこから醒井宿までを掲載予定。

醒井へ向かいつつ、徳源院へも行きたかったので、以下は寄り道の記録。

柏原御茶屋御殿跡


柏原御茶屋御殿跡。江戸時代に将軍上洛下向の際の宿泊・休憩として使われたという。

徳源院へ行くには、この御茶屋御殿跡の角で右折する。

柏原御茶屋御殿跡の公園


柏原御茶屋御殿跡は、現在小さな公園になっている。

ちなみに、徳源院の帰りにここでちょうどお昼になったので、ベンチでお弁当を食べた。
江戸時代だったら、ここでこんなことはできなかっただろう、と思いつつ。

清滝の集落(柏原中学校前にて)


分かれ道に案内がなく困ったが、持参した地図を頼りに左折し、清滝寺徳源院へ向かう。

柏原中学校の前を通ると、清滝の集落が見えてくる。
徳源院へは、この道を右折せずにまっすぐ行けばいい。

ちなみに、左手の山の中へ入っていくと、後醍醐天皇の側近だった北畠具行の墓がある。
1331年、後醍醐天皇とともに鎌倉幕府討伐を図った具行は、失敗して捕えられる(元弘の変)。
翌年、京極高氏(佐々木道誉)によって鎌倉に護送される途中、幕府の命で柏原で斬られた。

 



「ばさら」と呼ばれた高氏は、公家である具行のことも忌み嫌っていたが、死に臨んでの具行の態度には高氏も感服し、柏原宿(清滝寺)に一ヶ月ほど留め、幕府に対して助命を嘆願したが叶わず、その別れを惜しんだと伝わる。前の晩に二人はしばし談笑し、翌日具行は剃髪(出家)後に処刑されたが、処刑前に高氏に対し、丁重な扱いに感謝の意を述べたと伝わる。

「増鏡」によれば、辞世の歌は「消えかかる露の命の果ては見つさてもあづまの末ぞゆかしき」

墓所として、米原市柏原に貞和三年(1347年)建立の宝篋印塔が残り、「北畠具行墓」の名称で国の史跡に指定されている。
-北畠具行-Wikipedia

 


芭蕉の句碑「折々に伊吹を見ては冬籠り」(滋賀県米原市清滝)<br>

芭蕉の句碑「折々に伊吹を見ては冬籠り」の解説(滋賀県米原市清滝)


清滝の集落の入口に、松尾芭蕉の句碑がある。「折々に伊吹を見ては冬籠り」

同じ句碑が、他に滋賀県内に2ヶ所、岐阜県内に5ヶ所、愛知県内に1ヶ所あるという。

清滝史跡散策マップ

徳源院の前にある「清滝史跡散策マップ」。ご参考に掲載しておきます。

※散策マップ写真をクリックすると拡大します。

常夜灯の隣に「ここは清滝です」


清滝の集落に入ると、常夜灯の隣に「ここは清滝です」と案内がある。

しかし、ここから徳源院の角までの間は案内板がなく、歩いていて不安になった。
すれ違った御夫婦が声をかけてくれて、まっすぐ行けば徳源院の看板があると教えて頂く。
暑い中で、仏さまにあったような心持になる。

徳源院への道


清滝代官屋敷跡の角に、徳源院の矢印案内。桜並木の参道が小さく見えている。

駐車場は参道の途中にあって、ずっとゆるやかな坂道が続く。

徳源院の塀


徳源院に到着。山門はこの左にある。右は清滝神社で、登山道の入口にもなっている。


清滝神社


清滝神社。清滝は地名のとおり、水が清らかなところだった。

その印象は、醒井(さめがい)に着くまで、道中ずっと変わらなかった。
醒井は清らかな水の町として知られ、居醒の清水やバイカモの花が美しい。次回掲載予定。
(撮影日:2013年7月28日)

▼徳源院については、構成の関係で前回ご紹介しています。こちらをどうぞ。

近江源氏・佐々木氏ゆかりの地を巡る。氏神「沙沙貴神社」と京極家の菩提寺「徳源院」



次回:伊吹の荒ぶる神2(中山道・柏原宿から醒井宿を歩く~後編:柏原一里塚から醒井宿)の予定です。



View Larger Map

(追記)

滋賀県教育委員会の埋蔵文化財活用ブックレットに、この地域のことが詳しく出ています。
後から気がついたので、リンクを追記しておきます。ご参考になさってください。(2013年9月10日)

埋蔵文化財活用ブックレット2(近江の山寺2)
霊仙山と松尾寺の文化財(PDF:1,976KB)


埋蔵文化財活用ブックレット9(近江の城郭7)
京極氏遺跡群 -京極氏館跡・上平寺城址・弥高寺跡-(PDF:2,704KB)


埋蔵文化財活用ブックレット17
東海道をめぐる攻防-米原・醒井・柏原をめぐる-(PDF:2,422KB)


続きを読む "伊吹の荒ぶる神1(中山道・柏原宿から醒井宿を歩く~前編:やいと祭と柏原宿歴史資料館、寄り道して清滝寺徳源院へ)~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(33)" »

« 2013年7月 | トップページ | 2013年9月 »

2020年8月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
サイト内検索
ココログ最強検索 by 暴想

東日本大震災の記事を御覧の皆さまへ

このブログのご案内

  • ご訪問ありがとうございます♪

  • 風景写真家、アマナイメージズ契約作家。故郷滋賀の里山や寺社、各地の知られざる風景を撮影して歩いています。2007年12月から琵琶湖畔の町・堅田の写真を更新してきた写真ブログです。

  • ▼公式ホームページ(堅田を初めとする風景写真・自然写真を掲載しています) junphotoworks.com

    フェイスブックへのリンクは下記をご利用下さい。応援ありがとうございます!



  • Copyright(C)2007-2015.
    兼松 純(Jun Kanematsu)

    写真に電子透かしを使用しています。

    当ブログに掲載されている写真・画像・文章・イラストの無断複写、転載等の使用および二次使用を禁じます。
    No reproduction or republication without written permission.

    ■当ブログ掲載写真は、地域の方に楽しんでいただく作品発表の場として、2007年より掲載してきました。2014年には、祭事写真のために筆者(兼松)が書いた解説文を専門家が新聞コラムに無断使用する事態があり、弁護士相談の上で関係者各位に申し入れを行いました。 判断に迷うときは、事前にお問い合わせいただきますようお願いします。

    ■2014年春からアマナイメージズに作品の一部を預けています。 WEBに掲載していない作品もございますので、詳細はお問い合わせ下さい。

連絡先/Contact

ホームページへのリンク

堅田の町のご紹介

お気に入りサイト・ブログ

無料ブログはココログ