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2013年7月 1日 (月)

沖つ島山4(安土の繖山:桑実寺、観音寺城跡と観音正寺/付記:観音寺城関連リンク集)~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(29)

信楽焼の開運たぬき(桑実寺本堂の前にて)
500段とも600段とも言われる桑実寺の石段を上ったら、本堂の前で迎えてくれたのは、
信楽焼のかわいらしい開運たぬきだった。


桑実寺(くわのみでら)は、滋賀県近江八幡市安土町桑実寺にある天台宗の寺院。
琵琶湖の東、湖東平野の奥に位置する「繖山」(きぬがさやま)の北西山腹にある。
「繖山」の名前の由来については、地元の方から興味深い話を聞いた。
一つは、山の形が、貴人にさしかざす衣蓋(きぬがさ)に似ているから「繖山」。

もう一つは、桑実寺の開祖が唐から桑の実を持ち帰り、この地の農家で桑を栽培したことに
因むもので、蚕が糸を散らすさまから「繖山」と名づけたと伝わっている。

「繖」は、糸へんに散ると書く。この地は日本で最初に養蚕を始めたと言われる地なのだ。

桑実寺の開祖である定恵(じょうえ)という人物についても、興味深い話がある。
定恵は天智天皇の護持僧を務めた僧侶で、中臣鎌足(藤原鎌足)の長男。
弟は藤原不比等である。(不比等は鎌足の次男。)

中臣鎌足といえば、中大兄皇子(後の天智天皇)とともに大化の改新を行なった重臣だ。
その長男である人物が出家するというのは、当時でも前代未聞の事態だったらしい。
遣唐使から帰った後23歳で亡くなっていることも相まって、謎が多い人物と言われている。

桑実寺山門
桑実寺は、天智天皇の勅願によって677年に定恵が創建したと伝えられる。
寺名は、先述したように、日本で最初に養蚕を始めた地であることに由来している。

寺の由緒は、桑実寺縁起絵巻に詳しく描かれている。
大津の宮で疫病が蔓延し、天智天皇の第四皇女(阿閉皇女・あべのひめみこ)も病に倒れた。
皇女は病床で、琵琶湖に瑠璃の光が輝く夢をみる。
その話を聞いた天皇が定恵に法要を営ませると、湖から薬師如来が現われ四方に光を発した。
この光によって、皇女をはじめとする人々の病は治った。
そこでこの薬師如来を本尊として開山したのが、桑実寺だという。

この阿閉皇女が、後の元明天皇(文武天皇の母で、聖武天皇の祖母)である。
桑実寺縁起絵巻には、元明天皇が桑実寺に参詣したときの様子も描かれている。
近くに残る「豊浦」という地名は、元明天皇の諱である豊国成姫からつけられた。

繖山は観音寺城と観音正寺があることから、地元では「観音寺山」とも呼ばれている。
桑実寺の右奥には、表参道と別の石段があり、観音寺城の溺手口(裏門)になっている。

桑実寺本堂
桑実寺が再び歴史の表舞台に現われるのは、縁起絵巻が描かれた室町時代である。

当時、室町幕府13代将軍足利義晴が、細川氏の乱を避けて桑実寺に避難 していた。
義晴は絵巻をつくることを発願し、1532年、宮廷絵師の土佐光茂らによって絵巻を制作。
以来3年間義晴は桑実寺を仮幕府とし、1534年には自身の婚儀も桑実寺で行なっている。
義晴の後ろ盾となったのが六角定頼で、六角氏の最盛期だったといわれている。

1568年、美濃にいた15代将軍足利義昭が、織田信長により桑実寺に迎えられている。
この年信長は近江侵攻を開始し、9月に六角氏の観音寺城を落城させた直後のことだった。
その後、信長は桑実寺に寄進を行い、荒廃していた寺の再建も行なっている。
幸いなことに、桑実寺はこの地域に多い戦国時代の兵火に巻き込まれることも無かった。
本堂(重要文化財)は1986年に解体修理されたが、南北朝時代そのままの姿である。

観音寺城の石垣
繖山は標高432.9mの山だが、城の防衛上の理由からか、石段はふぞろいで急坂が続く。
桑実寺から観音寺城跡へときつい山道を登っていくと、35分ほどで城の石垣が見えてきた。


観音寺城本丸跡
さらに5分歩くと、観音寺城本丸跡に着いた。
観音寺城は近江源氏である佐々木氏の居城で、後に六角氏の居城となる。
六角氏は佐々木氏が四家に分かれた家のうちの1つで、近江守護として南近江を支配した。

観音寺城は繖山の山頂近くにある山城で、山の南半分を中心に築かれていた。
地元の方の話では、1942年に干拓されるまで、繖山西麓は琵琶湖につながっていた。
長命寺(西国三十三所第31番札所)から、繖山の桑実寺まで、舟で参拝していたという。
繖山南麓には中山道があり、西麓は琵琶湖に面しているのだから、交通の要衝地である。

築城年代は定かではないが、佐々木氏は早くから観音正寺を砦として利用していたらしい。
『太平記』には、南北朝時代の建武2年(1335年)に六角氏頼が篭もったという記述がある。
居城として築かれたのは、応仁の乱で京極氏に攻められた1469年以降と考えられている。

同族の京極氏とは異なり、六角氏は最後まで強力な戦国大名となることができなかった。
湖東地域は肥沃な地域で国人は自立しており、彼らと連合政権をとらざるを得なかった。
それを反映して観音寺城は、家臣ごとに広い屋敷をもつ城郭が多数存在する構造を持つ。
本丸跡の正面にある大手口石段を下りていくと、代表的な城郭を見ることができる。

平井丸石垣(観音寺城)
平井丸虎口跡(観音寺城)
平井丸。平井氏の居館があったと言われ、石垣・石塁の規模は最大級。

池田丸(観音寺城)
池田丸。池田氏の居館があったと言われ、城の最南端に位置する。

池田丸溜枡跡(観音寺城)
池田丸溜枡跡。

池田丸虎口跡(観音寺城)
池田丸虎口跡。現在は崖になっているが、かつては下に続く道があったようだ。
この観音寺城の落城は、日本史のひとつの転換点となった。

1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛した際、観音寺城の支城を落とした。
六角氏は観音寺城から逃げて無血開城し、その後観音寺城は廃城となった。
京都を支配していた三人衆らは六角氏の敗北を聞いて総崩れとなり、都を追われた。
同年、信長は上洛を果たし、義昭は征夷大将軍の座に着いた。
繖山と目と鼻の先にある安土山に城が築かれるのは、その8年後(1576年)である。

「三分の二ほど登った所に、四百年にわたって近江に君臨した、佐々木一族の城跡があった。
この城は、永禄十一年(一五六八)織田信長に滅ぼされたが、高い所にあるためか、石垣も、
砦の跡も、昨日崩されたように残っているのが哀れである。山道がけわしいのも、わざと登り
にくくしてあったのかも知れない。」(白洲正子『かくれ里』より )

観音正寺境内から見た蒲生野
観音正寺境内から見た蒲生野の風景。観音正寺は、観音寺城の中にあった。

観音正寺本堂""
観音正寺(西国三十三所第32番札所)。写真の本堂は2004年再建。
近江八幡市安土町石寺にある天台宗の寺院で、繖山南側の山頂近くにある。
伝承によれば、605年にこの地を訪れた聖徳太子が"人魚"の願いにより寺を建立した。
聖徳太子が出会った人魚は、前世が漁師で人魚に生まれ変わり苦しんでいたという。
太子が自ら千手観音を刻んで祀ったのが、観音正寺の始まりだと言われている。

石寺で聖徳太子といえば、一回目でご紹介した教林坊も、石寺で聖徳太子建立と伝わる。
繖山の麓には教林坊があり、少し離れたところに奥石神社(老蘇の森)がある。
奥石神社は繖山をご神体にして位置していると、一回目でご紹介した。

縁結地蔵尊(観音正寺)
縁結地蔵尊。観音正寺本堂の左脇にある。

宝篋印塔(観音正寺)
観音正寺の境内で見かけた宝篋印塔(ほういんきょうとう)。

お地蔵さんと紫陽花(観音正寺)
観音正寺の境内は、お地蔵さんがいっぱい。その一部を撮影。

権現見付(観音正寺・観音寺城)
権現見付。観音寺城の城門であり、現在の観音正寺の山門でもある。
権現見付の例もそうだが、観音正寺と観音寺城は境目がはっきりしていない。

観音正寺は、地理的・歴史的に観音寺城と深いかかわりを持ってきた。
六角氏の庇護を得ていた観音正寺は、観音寺城が落城した数年後に焼き討ちに遭い全焼。
慶長年間(1596年~1615年)に再興するも、1993年には本堂が失火で焼失している。
本堂は2004年に再建され、焼失した本尊(千手観音)も新たに作られた。

繖山(観音寺山)の上から撮影した安土
繖山(観音寺山)の上から撮影した安土の町と伊庭内湖
繖山(観音寺山)の上から撮影した、水郷のまちの風景。伊庭内湖が見えている。
向こうは琵琶湖、そして比良山系が広がる。

西国三十三所石仏の道より「第一番 那智山 青渡岸寺」(安土・繖山)
繖山の三角点から下りてきたら、西国三十三所石仏の道(巡礼の道)に出た。
写真は「第一番 那智山 青渡岸寺」のもの。

実際に三十三所を巡るのは大変なため、昔の人が石仏を建立して参拝した道だという。
登山口は文芸の郷(県立安土城考古博物館)にあり、桑実寺にも通じている。
隣の安土山には「四国八十八所」の石仏があると、ガイドさんに教えていただいた。

次回:お知らせを挟んで、沖つ島山5(近江八幡:大嶋・奥津嶋神社)の予定です。

▼沖つ島山バックナンバー
1(安土のかくれ里、教林坊と老蘇の森)
2(近江八幡:ちょっと番外編:八幡堀と、ネコと、菖蒲と紫陽花)
3(近江八幡:水郷の風景、安土の山から見た西の湖、アジサイの咲く頃・長命寺)


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観音寺城 関連リンク集
観音寺城は本丸に簡単な案内があるだけで、本丸以外の道案内や説明が出ていません。
今回ご案内いただいた安土町観光ボランティアガイドの方も残念がっておられました。
資料も殆ど出ていないようなので、参考になりそうなものを集めてみました。
登山にもご活用下さい。(更新日:2013年7月1日)

▼観音寺城跡の平面図や解説が載っています(登山ルートの参考にも)
[PDF]観音寺城跡 -江南の雄 六角氏- 滋賀県教育委員会

▼ウィキペディア(登山ルートの参考にも)
観音寺城

▼観音寺城跡の詳しいレポート(写真満載です)
JAPAN-GEOGRAPHIC.TV  滋賀県近江八幡市 観音寺城

▼地元の方による観音寺城跡案内
観音寺城|散策の備忘録

▼観音寺城に行った人の体験談
名城詳細データ | 観音寺城 - 日本百名城塗りつぶし同好会

▼ガイドを頼みたい方向け情報
安土町観光ボランティアガイド協会
安土観光ボランティアガイド申込書

桑実寺 関連リンク集

▼桑実寺縁起絵巻の写真と解説
[PDF]桑実寺縁起絵巻 - 公益財団法人滋賀県文化財保護協会

▼桑実寺の詳しいレポート(登山ルートの参考にも/写真満載です)
JAPAN-GEOGRAPHIC.TV  滋賀県近江八幡市 安土 桑実寺


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