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2013年7月

2013年7月30日 (火)

沖つ島山7(近江源氏・佐々木氏ゆかりの地を巡る。氏神「沙沙貴神社」と京極家の菩提寺「徳源院」)~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(32)

 


沙沙貴神社楼門

白洲正子さんの紀行文『近江山河抄』「沖つ島山」は、近江源氏・佐々木氏の話で終わる。

そこで今回は、「沖つ島山」の連載の締めくくりに、佐々木氏ゆかりの場所をご紹介したい。

佐々木氏は、近江国蒲生郡(現・滋賀県近江八幡市安土町)佐々木荘を発祥とする。
宇多天皇を祖とする宇多源氏の一流とされ、安土の沙沙貴神社(写真)を氏神としている。
近江源氏とも呼ばれ、後に六角氏(本家)、京極氏、大原氏、高島氏の四家に分かれた。

沙沙貴神社のなんじゃもんじゃ

現在の沙沙貴神社は、花の神社(近江百華苑)として、なんじゃもんじゃの木で有名。

なんじゃもんじゃは、ヒトツバタゴというモクセイ科の落葉高木で、5月に白い花を咲かせる。
(なんじゃもんじゃとは名前がわからないものの総称で、代表格がヒトツバタゴだとか。)
沙沙貴神社では例年5月中旬に開花、5月末まで楽しめる(撮影日:2013年5月26日)。

沙沙貴神社鳥居

沙沙貴神社の歴史は古く、佐々木氏以前に沙沙貴山君という豪族により祀られている。

佐々木氏と沙沙貴山君との関係は、今もはっきりしていない。

瓢箪山古墳(安土)

沙沙貴山君の墓、関連人物の墓とも言われているのが、繖山の麓にある瓢箪山古墳。

古墳時代前期(4世紀)の前方後円墳で、1958年に国の史跡に指定されている。

白洲正子さんが『かくれ里』 「石の寺」の中で、付近には佐々貴神社もあり、狭々城山君の墓と伝えられる
前方後円墳もある。
と書いているのが、瓢箪山古墳である。

場所は安土町桑実寺で、竹林に囲まれた道を抜けると、桑実寺の石段の前に出る。
桑実寺から山道を登れば、佐々木氏の嫡流・六角氏の居城だった観音寺城に出る。
白洲正子さんは、佐々木氏について次のような興味深い推察をされている。

 


ササキはミササギから出たともいい、御陵を守るだけでなく、古墳造りの集団も統率していたに違いない。観音寺山は一名繖(きぬがさ)山とも呼ばれ、天蓋のような形から名づけられたらしいが、周囲には古墳が密集しており、祖先の墳墓をきぬがさでおおう意味もあったと思われる。古墳に石はつきもので、麓には奥石、石寺、石馬寺などの名称が見られ、観音寺城や安土城の石垣も見事なものである。古墳文化が衰微した後も、近江に優秀な石工の技術が残ったのは、沙沙貴山君の伝統による。観音寺山に城を構え、沙々貴神社を祀って、近江に君臨した佐々木の一族が、彼らと無縁であったとは考えられない。
-白洲正子『近江山河抄』

 


米原市清滝で咲いていた夏の花(ムクゲ)

六角氏の始祖は佐々木泰綱で、鎌倉幕府から愛知川以南の南近江を与えられた。
泰綱が京都の六角に屋敷を構えたのが、六角氏のはじまりとされている。


同族の京極氏は、愛知川以北と柏原(米原市)の北近江を与えられた氏信に始まる。
氏信は京都の京極高辻に屋敷を構えて「京極」を名乗った。

室町時代以降、近江の覇権をめぐって両家は敵対する。

戦国大名として台頭した六角氏は、戦国時代には観音寺城を居城に南近江一帯を支配した。
しかし永禄11年(1568年)、上洛する織田信長によって観音寺城は落城する。
以降、六角氏は歴史の表舞台から遠ざかることとなった。

京極氏は、足利尊氏に仕えた高氏(道誉)の活躍により、室町幕府の四職家として繁栄。
だが、浅井氏の台頭や家督争いにより衰退し、北近江を追われることとなる。
その後、高次が兄弟で信長・秀吉・家康に仕え、関ヶ原の合戦で手柄をたてて家を再興。
京極氏は外様大名として繁栄し、明治維新を迎えている。


京極氏の菩提寺が、関ヶ原に近い清滝という集落にある(滋賀県米原市清滝)。

京極氏の所領だった柏原(米原市)の奥にあって、寺の名を徳源院という。
白洲正子さんが「沖つ島山」の最後に紹介していたので、ぜひ訪ねてみたかった。

清瀧寺徳源院山門

 


ひなびた集落をはずれると、桜と紅葉の並木がつづく参道に入り、石垣積みの土塀が見えて来る。山門を入ったところには、大きなしだれ桜があり、閑散とした境内には人影もない。そのつき当りの石段を上った土壇の上に、佐々木一族の墓がずらりと並んでいる。
-白洲正子『近江山河抄』

 


京極家墓所上段(左側)

京極家墓所上段(右側)

京極家墓所上段。始祖から18代まで、歴代当主の墓が18基並ぶ。

立ち並ぶ宝篋印塔が圧巻。墓所全域が国指定史跡となっている。

京極高次の石廟

19代当主、京極高次の墓所。石廟になっている。

幼少期は信長の人質になり、成人して秀吉に仕え、関ヶ原の合戦では徳川方についた。
浅井三姉妹の次女・お初と結婚。京極家中興の祖とされる人物。

京極家墓所下段(高政、19代高次、24代高矩、25代高中、22代高豊の墓所)

左から、高政、19代高次、24代高矩、25代高中、22代高豊の墓所。

中興の祖である高次を中心に祀られている。

徳源院は弘安6年(1283年)、京極氏の初代・氏信が、清滝寺として創建している。
寛文12年(1672年)、22代高豊が播磨の所領2村とこの地を交換して、清滝寺を復興。
高豊は、近隣に散在していた歴代当主の墓碑を一箇所に集めるとともに、三重塔を寄進。
父である21代高和(丸亀藩初代)の院号に基づいて、徳源院と改称した。

現在は天台宗の寺になっている。檀家を持っていない寺だと伺った。
鐘楼の復活と三重塔・土塀修復に伴う浄財を、現在広く募集しておられます。

京極家墓所下段(多度津藩当主の墓所)

徳源院には、分家の多度津藩(香川県)当主の墓もある。

多度津藩のほか、四国丸亀藩、宮津藩、峰山藩(京都)、豊岡藩(兵庫)の5つの大名家として、京極氏は繁栄した。

▼京極家墓所の詳しい配置図は、徳源院HPを御覧下さい。
http://tokugenin.maibara.jp/?page_id=53

徳源院の庭園(池泉回遊式庭園)

徳源院の庭園(池泉回遊式庭園)。

江戸時代初期の典型的な作風で、小堀遠州の作とも言われる。
清滝山を借景とする見事な庭園で、秋の紅葉の頃はさぞや美しいだろうと思う。

今回、ご住職の山口さんにお願いして、お寺を開けて拝観させていただいた。
最初に見せていただいたのが青もみじの庭園で、一枚の涼しげな絵を見ているようだった。
柏原の駅から歩いてきた私に冷たいお茶を出してくださり、本当にありがとうございました。
(撮影日:2013年7月28日)

今回、徳源院に立ち寄りつつ、柏原から醒井まで中山道を歩いたので、次回ご紹介します。


次回:伊吹の荒ぶる神1(中山道・柏原宿から醒井宿を歩く~前編)の予定です。




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(追記)

滋賀県教育委員会の埋蔵文化財活用ブックレットに、京極氏のことが詳しく出ています。
後から気がついたので、リンクを追記しておきます。ご参考になさってください。(2013年9月10日)

埋蔵文化財活用ブックレット9(近江の城郭7)
京極氏遺跡群 -京極氏館跡・上平寺城址・弥高寺跡-(PDF:2,704KB)


埋蔵文化財活用ブックレット17
東海道をめぐる攻防-米原・醒井・柏原をめぐる-(PDF:2,422KB)


2013年7月27日 (土)

沖つ島山6(琵琶湖最大の島・沖島。沖島と奥島山(大嶋・奥津嶋神社)と八幡山(日牟礼八幡宮)を結ぶ線)~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(31)

 


堀切新港から沖島を望む

沖島(おきしま)は、滋賀県近江八幡市の沖合約1.5㎞に浮かぶ、琵琶湖最大の島。

湖上の島に人が暮らすのは、日本では沖島だけだという。

一枚目の写真は、対岸の堀切新港(滋賀県近江八幡市)から撮影。
中央から右にかけて、小島と半島のように見えるのが、すべて沖島。
手前右が伊崎山(210.4m)で、一番奥に横たわるのが比良山系。
伊崎山の伊崎寺では毎年8月、行者が湖に飛び込む「伊崎の棹飛び」が行なわれている。

堀切新港の左は奥島山で、この数キロ先に近江八幡の国民休暇村がある。
沖島へは堀切新港から一日11往復(日曜は9往復)船が出ていて、10分程で到着する。
船に乗れば、伊崎山と奥島山が視界から消える前に、もう沖島が近づいてくる。

琵琶湖の畔で咲いていたムクゲの花

ムクゲの花。島のあちこちで季節の花が咲いていた。


沖島は周囲約6.8㎞、面積約1.5平方㎞の島で、約150戸ある民家の大半は漁師さんだ。
伝承によれば、平治の乱で敗れた源氏の落武者7人が住みついたが島の起こりだという。
室町時代には、北陸へ向かう途中の蓮如が嵐で沖島に流れ着いたという話も残っている。

当ブログのタイトルである堅田(滋賀県大津市)もまた、沖島とゆかりが深い。
堅田は蓮如を匿ったことで比叡山延暦寺によって焼き討ちにあっている(堅田大責)。
大責の後、堅田衆は約2年間沖島に避難したという記録が、堅田の本福寺に残っている。

沖島小学校の校庭と琵琶湖と青空

沖島小学校の前から漁港周辺まで道が一本走っていて、後は路地と民家が続いている。


沖島の一本道と琵琶湖と奥島山

沖島の一本道と琵琶湖と三輪自転車

この島に自動車は一台もない。ここでは船と三輪自転車と手押し車が大活躍している。

沖島のひまわりと案山子

沖島の民家と紫の花

沖島の一本道と民家と琵琶湖と船

沖島のお地蔵さん

沖島の船と対岸の奥島山

沖島で見かけた網と三輪自転車

沖島から見た琵琶湖

沖島漁港

頭山と沖島の民家

奥津嶋神社境内から見た琵琶湖と奥島山

沖島漁業会館の裏にある頭山の麓に、奥津嶋神社(おきつしまじんじゃ)がある。

対岸に島のように見えているのが、奥島山。

奥津嶋神社の石灯籠

石灯籠には、馬らしい動物の絵が彫られてあった。

奥津嶋神社

奥津嶋神社は和銅5年(712年)、近江の国守だった藤原不比等が勅命を奉じて建立した。
建立当時の島は無人島で、琵琶湖の航行安全を守る神の島として崇められていたという。
拝殿にも馬の絵がかけてあったが、詳しい話は分からなかった。

オニユリの花と沖島の路地


奥津嶋神社に面した路地。民家の前でオニユリの花が咲いていた。


沖島小学校とケンケン山のぼり口


沖島小学校の裏から山に登れるというので、船でご一緒した人と4人で登ってみた。

校舎の脇の階段を上ると、「ケンケン山のぼり口」という看板がある。
しばらく誰も登っていないのか、クモの巣を払って進む道中になった。

沖島の山中

山中にて撮影。だらだらした上りが30分は続いたような気がする。
ようやく一つの広場に出たが、その先があるというので、さらに行ってみる。
ケンケン山は、蓬莱山という名の、沖島で一番標高の高い山(225m)に続いていた。

※登山ルートは沖島公民館の裏からのぼるルートが一般的のようです。
http://www.biwako-okishima.com/meisyo-2.html

沖島最高峰・蓬莱山から見た琵琶湖と湖東の風景


「蓬莱山見はらし広場」(蓬莱山の頂上)から見た、湖東の風景。山の形が神々しい。

伊崎山と奥島山に抱かれた湾の向こうから、沖島航路の船に乗ってきたことになる。
前回ご紹介した「大嶋・奥津嶋神社」(近江八幡市北津田町)は、あの奥島山の麓にある。

大嶋・奥津嶋神社

 


読者は既に気がつかれたと思うが、沖の島とか奥津島というのは、九州の宗像神社の別名である。正確には、玄界灘にある「沖の島」と、大島の「中津宮」と、内陸の田島に建っている「辺津宮」で、陸地でいえば、奥宮、里宮、田宮に相当する。
(中略)
長命寺の近く、奥島山の麓には、延喜式内社があって、「大島 奥津島神社」というが、宗像神社でいえば、大島の中津宮に相当する。沖の島と、奥津島神社と、それに竹生島を入れると、三つ揃って申し分ないが、それなら一番遠くにある竹生島を、「沖の島」に見立てなかった筈はない。どう考えても、これはおかしい。私が思うに、竹生島は別の文化圏に属し、ここには辺津宮に当る所が、別に存在したのではないか。
-白洲正子『近江山河抄』

 

 

大きな地図で見る

 


日牟礼八幡宮(日牟礼神社)



 この[大島 奥津島神社の]宮司さんなら、私の疑問をといて下さるに違いない。そう思って、尋ねてみると、案の定、的確な返事が返って来た。ただし、これは自分の私見です、と断って、南に見える近江八幡の日牟礼神社が、その辺津宮に当るという。私は今まで気がつかなかったが、そういわれてみると、思い当る節がないでもない。
 八幡山は俗に「宮山」と呼ばれ、沖の島と、奥島山の直線上にある。度々いうように、古代人のそういう設定は、極めて正確なのである。そのうち二つは「島」であるが、宮山だけは陸地にあり、完全に田宮の性格を備えている。
(中略)
ふつう姫神は仲姫命(なかつひめのみこと)であるのに、ここでは天照大神の御子と、社伝にはっきり断ってある。(中略)

 日牟礼の語源はわからないが、記紀には、応神天皇が淡海の国に幸したとき、和邇(わに)の比布礼使王(ひふれのおみ)の女、宮主の矢河枝比売(やかわえひめ)を召して、菟道稚郎子(うじのわけいらつこ)を生んだとある。そのヒフレから出たともいわれ、現に日牟礼神社には、矢河枝比売も合祀されている。(中略)また、琵琶湖の北方には、「八合(やごう)神社」があり、湖南には「矢河(やごう)神社」があって、ともに矢河枝比売を祀っているといわれたが、奥島山の周辺に、矢河枝比売の伝承がたくさん残っているのは興味深い。
-白洲正子『近江山河抄』

 



この章を「沖つ島山」と名づけたのは、湖水の周辺の景色にふさわしいと思ったからで、ある特定の、たとえば奥島山についてだけ語りたいわけではない。(中略)琵琶湖の歴史は古いだけでなく、その自然と密接に結び合っている。そういう意味では、津田の細江から遠望される観音寺山も、広い範囲の「沖つ島山」の中に入る。(中略)奥石の森(老蘇とも書く)、石寺、石馬寺、桑実寺、沙々貴神社など、奥島山と相対して、広大な文化圏を形づくっている。
-白洲正子『近江山河抄』

 


このシリーズの撮影は、白洲正子さんに倣って構成しています。
沖島の撮影日:2013年7月19日(金)

▼沖つ島山バックナンバー
(1)安土のかくれ里、教林坊と老蘇の森
(2)近江八幡:ちょっと番外編:八幡堀と、ネコと、菖蒲と紫陽花
(3)安土の繖山:桑実寺、観音寺城跡と観音正寺/付記:観音寺城関連リンク集
(4)近江八幡:水郷の風景、安土の山から見た西の湖、アジサイの咲く頃・長命寺
(5)近江八幡:大嶋・奥津嶋神社<北津田>~渡合橋~水郷の風景<円山>/圓山神社と寶珠寺


次回:沖つ島山7(佐々木源氏ゆかりの地:沙々貴神社と徳源院)の予定です。


▼沖島メモ
沖島漁協HP http://www.biwako-okishima.com/
沖島航路時刻表 http://www.bbc-tv.co.jp/biwakuru/kojyou/okisima.html

※近江八幡駅から掘切まで、あかこんバス(近江八幡市民バス)「1.島・沖島町コース」利用。
駅から片道200円です。(ただし一日6往復・平日のみ)
あかこんバス時刻表


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2013年7月22日 (月)

大津市衣川/鞍掛神社 2013年例祭の写真(後編)~大友皇子最期の地の伝説が残る神社、7/23の皇子の命日にちなんで

 


鞍掛神社拝殿で舞う巫女さん-1

陽成天皇の勅命によって882年に創建された鞍掛神社(滋賀県大津市衣川2丁目)。
天智天皇の子、大友皇子(弘文天皇)が最期を迎えた場所という伝説が残る場所です。
衣川(きぬがわ)は、大津市北部の交通の要所で、堅田の隣に位置する町です。

鞍掛神社の伝承は、日本書紀と異なります。
壬申の乱で敗れた大友皇子は、従者と共に衣川の地に落ち延びました。
皇子は乗ってきた馬の「鞍」を柳の木に「掛」けると、自ら命を絶ったと伝わっています。
伝承では、大友皇子の最期をみとった二人の侍臣がいて農民となって衣川に定住しました。
その子孫は同じ名字を名乗るようになり、鞍掛神社の氏子がその末裔だと言われています。

堅田でお会いした中に、鞍掛神社の氏子の方がおられて、今回撮影をお願いしました。
私はお寺や神社が好きというよりも、寺社を守っている方に会うのが好きです。
掃き清められた境内や古い建築、大きな木や緑、神職の方の羽織袴姿やぴんと伸びた背中。
そういうものを撮ると、こちらにも清らかなものが流れ込んでくるようで、無心になれます。
だから私は、伝統を裏方で支える人に敬意を感じるし、心惹かれるのかもしれません。

大友皇子の命日は7月23日とされるため、鞍掛神社では毎年7月に例祭を行なっています。
天智天皇を祀っている近江神宮から、宮司さんがお見えになっての例祭です。
今回掲載しているのは、2013年7月14日(日)に行なわれた例祭の後半部分になります。

神事に使われる釜(鞍掛神社境内)
例祭の始まる前から、拝殿の隣の竈に火が入っていて、お湯が沸いていました。
巫女さんが拝殿から竈の前に移動します。

巫女さんによる神事-1(鞍掛神社例祭)
竈の前で、巫女さんによる神事が始まりました。

巫女さんによる神事-2(鞍掛神社例祭)
竈のお湯の中に、お神酒を注ぎます。この後、清めの塩らしき粉末を入れていました。

巫女さんによる神事-3(鞍掛神社例祭)
ご神木らしい木の枝で、竈の中をかきまぜるような動きを繰り返します。
この後、お湯を金属製の大きなひしゃくですくって、地面に数回撒いておられました。

鞍掛神社鳥居

鞍掛神社本殿から献撰の供物を下げる様子(鞍掛神社例祭)
鞍掛神社本殿から、献撰の供物を下げる様子です。

鞍掛神社本殿の扉を閉める(鞍掛神社例祭)
近江神宮の宮司さまによって、鞍掛神社本殿の扉が閉められます。

鞍掛神社本殿
扉が閉められた状態の、いつもの鞍掛神社本殿です。

鞍掛神社例祭
最後に、鞍掛神社本殿の脇で、神事が始まりました。

突然の雨に濡れる境内(鞍掛神社例祭にて)
ところが一転、激しい雨が降り出します。

変更を指示する近江神宮の宮司さま(鞍掛神社例祭にて)
雨のため、近江神宮の宮司さま(一番左)の指示で、例祭は拝殿で行なうことに。
ちなみに撮影者(兼松)は、木の下でなんとか写真を撮っていました。

拝殿の屋根の下で例祭を行う近江神宮の宮司さま-1(鞍掛神社例祭にて)
鞍掛神社拝殿の屋根の下で例祭を行う、近江神宮の宮司さま。
本殿の朱塗りの屋根と、背後の竹林の緑が、雨の中とても美しかったのを覚えています。

拝殿の屋根の下で例祭を行う近江神宮の宮司さま-2(鞍掛神社例祭にて)
鞍掛神社拝殿の屋根の下で例祭を行う、近江神宮の宮司さま。
そして神職の方がお二人、巫女さんがお一人。
写真には写っていませんが、その後ろで氏子の皆さんが頭を下げて立っておられます。

拝殿の屋根の下で例祭を行う近江神宮の宮司さま-3(鞍掛神社例祭にて)

拝殿の屋根の下で例祭を行う近江神宮の宮司さま-4(鞍掛神社例祭にて)
雨はどしゃぶりとなり、撮影者も拝殿の下へ移動。辺りも暗くなっていました。
拝殿の屋根の下で引き続き例祭を行う、近江神宮の宮司さま達。

拝殿の屋根の下で例祭を行う近江神宮の宮司さま-5(鞍掛神社例祭にて)
神事が終わり、外を見やる近江神宮の宮司さま。
この後、氏子の皆さんに向けてお話をされて、鞍掛神社例祭は終わりました。

豪雨に濡れる鳥居(鞍掛神社例祭にて)
拝殿の背後を見やれば、豪雨に濡れる鳥居。この雨はしばらく降り続きました。

 



『懐風藻』の巻頭には、大友皇子の詩がのっている。その前に簡単な伝記が記してあるが、それによると、皇太子は淡海の帝(天智天皇)の長子で、風貌人にすぐれてたくましく、眼光が鋭く輝いていたという。唐使の劉徳高が、この御子はふつうの人間ではない、日本には過ぎたるものだ、と評したとも書いており、多少の誇張はあるにしても、柔弱な貴公子でなかったことは確かである。
(中略)

二十歳になった時、皇子は太政大臣に任ぜられたが、博学多才で、文武に長じ、威服しないものとてなかった。二十三歳で皇太子に立った後は、広く帰化人の学者たちを用いた。太子は天性利発な上、故事を好み、筆を下ろせば美事な文章となり、言葉に出す時は立派な論を為した。彼と議論する人々は、その博識に驚嘆し、短時日の中に、文藻が磨かれて行くのに目を見はった。が、不幸にして壬申の乱に会い、天命を全うせずに亡くなった。時に二十五歳。

-白洲正子『近江山河抄』「大津の京」

 


大友皇子は日本で始めて「五言の詩」を作ったことから、学問の神として信仰されてきました。
1870年(明治3)になって弘文天皇と追号され、天皇として認められています。
ただし即位したかどうかはっきりしておらず、大友皇子と表記されることも多いようです。
そのため、当ブログでも併記する形でご紹介しています。

その墓所(弘文天皇陵)は、大津市中部の三井寺の北、大津市御陵町にあります。
御陵町の「御陵」は、弘文天皇陵に由来します。その隣の皇子山という地名もそうです。
そして三井寺は、大友皇子の息子が、父の菩提を弔うために建立した寺でもありました。
皇子山の北、錦織町には大津宮の遺跡があり、近江神宮はそのそばにあります。

▼歴史の宝庫、弘文天皇陵周辺については、こちらを御覧下さい。
大津の京5(壬申の乱と瀬田の唐橋、弘文天皇陵、そして三井寺の桜)~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(11)

▼鞍掛神社(大津市衣川2丁目)

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▼弘文天皇陵(大津市御陵町3)。地図の一番北に堅田、西は京都です。

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2013年7月17日 (水)

大津市衣川/鞍掛神社 2013年例祭の写真(前編)~大友皇子最期の地の伝説が残る神社、7/23の皇子の命日にちなんで

 


鞍掛神社境内

陽成天皇の勅命によって882年に創建された鞍掛神社(滋賀県大津市衣川)。
天智天皇の子、大友皇子(弘文天皇)が最期を迎えた場所という伝説が残る場所です。
場所は堅田のお隣、衣川(きぬがわ)の高台にあります。

皇子の命日は7月23日とされるため、鞍掛神社では毎年7月に例祭を行なっています。
天智天皇を祀った近江神宮から、宮司さんがお見えになっての例祭です。
2013年7月14日(日)に行なわれた例祭を、当ブログがご縁で撮影させていただきました。

鞍掛神社例祭へ向かう皆さん

鞍掛神社の伝承は、日本書紀と異なります。
壬申の乱で敗れた大友皇子は、従者と共に衣川の地に落ち延びました。
皇子は乗ってきた馬の「鞍」を柳の木に「掛」けると、自ら命を絶ったと伝わっています。

伝承では、大友皇子の最期をみとった二人の侍臣がいて、農民となって衣川に定住しました。
その子孫は同じ名字を名乗るようになり、鞍掛神社の氏子がその子孫だと言われています。

鞍掛神社例祭の始まる前-1(境内)
それでは、例祭の始まる前の境内の様子です。

鞍掛神社例祭の始まる前-2(手水舎で手を洗う近江神宮の宮司さま)
手水舎で手を洗っているのは、近江神宮の宮司さま。

鞍掛神社例祭の始まる前-3(手水舎で手を洗う皆さん)
次に、地元の自治会の方と、氏子の皆さんが手を洗います。

鞍掛神社例祭の始まる前-4(近江神宮の神職さんが打ち合わせ中)
近江神宮の神職さんが打ち合わせ中。それでは、例祭の模様をお伝えします。

鞍掛神社鳥居

鞍掛神社例祭、始まる
鞍掛神社の例祭が、始まりました。

鞍掛神社本殿へ上がる近江神宮の宮司さま
鞍掛神社本殿へ上がるのは、近江神宮の宮司さま。

鞍掛神社本殿、ご開帳-1

鞍掛神社本殿、ご開帳-2
近江神宮の宮司さまによって、鞍掛神社本殿の扉が開かれました(ご開帳)。

鞍掛神社本殿、献撰の様子-1

鞍掛神社本殿、献撰の様子-2
献撰の様子です。氏子の皆さんによって、本殿にお供え物が運ばれます。
お供え物は、鯛やスイカ、お菓子など様々でした。

鞍掛神社本殿、献撰の様子-3
近江神宮の宮司さまと神職の皆さんが、本殿に一礼します。
この一枚には献撰のお供え物が全部写っています。

鞍掛神社本殿、献撰の様子-4
次に、地元(衣川)の自治会の方が、次々と本殿に一礼します。
この後、氏子の皆さんが一礼しました。

鞍掛神社拝殿で舞う巫女さん-1

鞍掛神社拝殿で舞う巫女さん-2

鞍掛神社拝殿で舞う巫女さん-3
鞍掛神社拝殿で舞う巫女さん。氏子の皆さんが合わせて演奏します。
最後に巫女さんから関係者がお払いを受けます。
※例祭はまだまだ続くのですが、写真の枚数の関係で、続きは次回に掲載します。

▼鞍掛神社の歴史については、こちらを御覧下さい。
大津の京1(大友皇子最期の地と、鞍掛神社の伝説)~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(7)

▼鞍掛神社の場所(地図)

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▼アクセス
◇JR湖西線「堅田駅」より江若バス堅田町内循環線(乗車7分)、「仰木道」下車。
◇仰木口(国道161号線)から県道313号線へ入り、徒歩約10分で明神橋がある。
◇天神川を渡り、高台に続く道を直進。アオタニサッシさんのすぐ先で右折。
◇住宅街の坂道を登っていくと、児童公園がある(衣川城跡の石碑がある公園)。
◇公園の上の道を右折。駐車場があって、その奥に鞍掛神社がある。


 

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第30回堅田湖族まつりのお知らせ(2013年8月3日・4日) #shiga #otsu

 


毎年8月第一土曜日~日曜日に行われている「堅田湖族まつり」のご案内です。

 

2013年8月3日(土) 午後3時~ 堅田湖族祭り
模擬店:内湖大橋付近 午後3時30分~(歩行者天国になります)
盆踊り :漁協会館広場 午後7時半~
花火大会 :堅田漁港沖湖上 午後8時30分~ 
※JR堅田駅ロータリーより湖岸方向に直進、徒歩10分

2012年8月4日(日) 湖族船競争
午前9時 浮御堂北湖上

※昨年の様子や会場地図はこちらに詳しく載っています(地元の方のブログ)
http://www.geocities.jp/poppotamai/katatafff/kozoku.htm

※チラシはこちらで御覧ください(びわ湖大津観光協会HP)
http://www.otsu.or.jp/topics/kozokumatsuri.pdf


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2013年7月14日 (日)

沖つ島山5(近江八幡:大嶋・奥津嶋神社<北津田>~渡合橋~水郷の風景<円山>/圓山神社と寶珠寺)~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(30)

 


Omiji089


琵琶湖の浜辺、雄松崎にて。琵琶湖の西側から、沖島と近江八幡を見ている。

写真中央が対岸の奥島山(長命寺周辺)、その左手前に少し濃く写っているのが沖島。
今回の舞台は、奥島山の麓にある水郷の町。長命寺の近くにある隠れた名所をたどった。

大嶋・奥津嶋神社道標


長命寺(第31番札所)へ行くときに通る渡合橋のそばに、書体が印象的な道標がある。


黄色い花と田んぼと緑(北津田の風景)


道標の先は、北津田の大嶋・奥津嶋神社へと続く一本道。


大嶋・奥津嶋神社鳥居(表参道)


大嶋・奥津嶋神社(近江八幡市北津田町)。

大嶋神社と奥津嶋神社の両社から成るが、元は別の場所に鎮座していた。
延文6年(1361年)以前に同地に鎮座されたという。

社伝には成務天皇高穴穂遷都のときに、大臣武内宿禰、勅を奉じて勧請するとある。
武内宿禰といえば『古事記』『日本書紀』に出てくる人物で、長命寺の由来にも登場する。
長命寺は、聖徳太子が宿禰の長寿にあやかって名づけたと言われている。

 

大嶋・奥津嶋神社


読者は既に気がつかれたと思うが、沖の島とか奥津島というのは、九州の宗像神社の別名である。正確には、玄界灘にある「沖の島」と、大島の「中津宮」と、内陸の田島に建っている「辺津宮」で、陸地でいえば、奥宮、里宮、田宮に相当する。
(中略)
長命寺の近く、奥島山の麓には、延喜式内社があって、「大島 奥津島神社」というが、宗像神社でいえば、大島の中津宮に相当する。
-白洲正子『近江山河抄』

 


ムベの葉(大嶋・奥津嶋神社)

北津田・島町「むべ」の言い伝え(大嶋・奥津嶋神社にて)


ムベの葉。大嶋・奥津嶋神社の境内の奥で、地元の方が棚を作って育てている。
北津田一帯には、天智天皇ゆかりの「むべ」の言い伝えが残っている。


その昔、天智天皇が蒲生野に遊猟した時にこの地に立ち寄り、長寿の夫婦に出会った。
長寿の秘訣を尋ねると、この地で珍しい果物を産しますと、老夫婦は霊果を差し出した。
天皇は「宜(むべ)なるかな」と得心して、毎年献上するよう命じたという。
以来、この果実は「むべ」と呼ばれるようになり、毎年11月に献上されることとなった。
天智天皇を祀った近江神宮(滋賀県大津市)に、今でも献上されているという。

大嶋神社奥津嶋神社石碑の側面

大嶋・奥津嶋神社鳥居


大嶋神社奥津嶋神社と刻まれた石碑の側面に、近江神宮の宮司の方の名前がある。

こんなところにも、近江神宮とのつながりの深さが伺える。

この鳥居のそぐそばに、近江八幡市市民バスの「奥島山神社」バス停がある。
アクセス:JR近江八幡駅から「島・岡山・玉ノ浜コース」に乗車、約28分。

近江八幡市民バス(通称あかこんバス)は、一律200円で乗車できるコミュニティバス。
近江鉄道バスが県道を運行するのに対して、県道から離れた場所にも入ってくれる。
ただし平日のみ運行で一日6往復。近江鉄道バス(長命寺線)と併用するのがお勧め。

スイレンの花(大嶋・奥津嶋神社)


境内にある池で、スイレンの花が咲いていた。
この地の景観はかなり様変わりしているようで、ため池もビオトープ事業の一環だという。
かつてこの地は歌枕として歌われ、織田信長の祖先・津田氏が住んでいた。
信長が築いた安土城は北津田を望む地にあり、水路でつながっていたと言われている。

 



 五月雨は津田の入江のみをつくし見えぬも深きしるしなりけり (続後撰集)
と謳った覚盛法師は、平重盛の孫で、織田氏の祖先であったという。平家が滅びた時、母親にともなわれてここに逃れ、津田氏を名のって北津田に住んでいたが、信長は祖先と縁故のある地を選んで、築城したのではあるまいか。正確にいえば、覚盛法師の邸が遠望される所に善美をつくした城を築いたので、いかにも彼がやりそうなことである。その城もわずか三年足らずで滅び、跡かたもない。「国破れて山河あり」。だが、その山河もいまや累卵の危きにある。
-白洲正子『近江山河抄』

 





長命寺川に架かる渡合橋。干拓事業によって水門とコンクリートの護岸に変わった。

白洲正子さんが絶賛した渡合橋の風景を求めて、以前、北之庄の水郷をご紹介した。
沖つ島山3(近江八幡:水郷の風景、安土の山から見た西の湖、アジサイの咲く頃・長命寺)
今回は、北之庄よりも渡合橋に近い円山(まるやま)を訪ねてみた。




この渋い木造建築は「近江八幡ユースホステル」。渡合橋と円山の間にある人気の宿。


水郷の風景(近江八幡市円山町)-1


ヨシの向こうに、白鷺が飛ぶ。近江八幡市円山町にて撮影した水郷の風景。

「近江八幡の水郷」は、2006年に国の重要文化的景観第一号として選定されている。

 



近江八幡のはずれに日牟礼八幡宮が建っている。その山の麓を東へ廻って行くと、やがて葦が一面に生えた入り江が現われる。(中略)その向うに長命寺につらなる山並みが見渡され、葦の間に白鷺が群れている景色は、桃山時代の障壁画を見るように美しい。最近は干拓がすすんで、当時の趣はいく分失われたが、それでも水郷の気分は残っており、近江だけでなく、日本の中でもこんなにきめの細かい風景は珍しいと思う。
-白洲正子『近江山河抄』

 


水郷めぐりの船(近江八幡市円山町)


水郷めぐりの船。円山町では2業者が和船での水郷めぐりを行なっている。


水郷の風景(近江八幡市円山町)-2

水郷の風景(近江八幡市円山町)-3


円山の集落と水郷。5月以降ヨシは背丈を増す。どこか懐かしい風景が広がる。


水郷の風景(近江八幡市円山町)-3


青い船と水郷。第3回でご紹介した北之庄(こちらも水郷の町)に向かって水路が続く。


あじさい(近江八幡市円山町)


円山の集落では、印象的な色合いの紫陽花を見掛けることが多かった。


圓山神社(近江八幡市円山町)


水郷に抱かれた円山集落の入口に、圓山神社(まるやまじんじゃ)がある。

『近江山河抄』には登場しない場所だが、雰囲気に惹かれて立ち寄ってみた。

途中でお会いした地元の方によれば、圓山神社の石段は250段余だと言う。
長命寺(808段)や桑実寺(500~600段)と比べても、勾配も段差も殆どない。
とはいえ、気温が高いので汗が噴き出し、若干息が上がった。

寶珠寺(近江八幡市円山町)


石段をちょうど半分ほど来たところに、「寶珠寺」という天台宗の寺(無住)がある。

次の日ここで法事があるとのことで、地元の方が掃除に来ておられた。

寶珠寺(ほうじゅじ)は、宝暦4年(1754)に澄尭大和尚によって中興された寺だという。
2006年に「近江八幡の水郷」の重要景観構成要素として同時選定された。
そこで2007年、老朽化が著しかった本堂の修理が行われ、往時の姿を取り戻した。
修理に伴い発見された棟札には、弘化4年(1847)現在の本堂が造立されたと記されている。
由緒ははっきりしないということだった。

圓山神社の石段の途中にて(近江八幡市円山町)


さらに続く石段を、寶珠寺の前から撮影。独特の雰囲気がある。

今回の撮影でどの寺の石段も登ったが、下界と寺をつなぐ異空間であることを感じる。
石段を上り下りすることで体を動かし、心を動かし、気持ちを切り替えているのだろう。
昔の人の知恵だと感じる。

圓山神社の手水舎と神庫(近江八幡市円山町)


圓山神社の手水舎と神庫。

梅雨の晴れ間に、光が差した瞬間の一枚。

圓山神社拝殿(近江八幡市円山町)


石垣が印象的な、圓山神社拝殿。

戦国時代、佐々木氏の支流に当たる西條氏が、この地に城砦を築いたと伝わっている。

圓山神社本殿と境内社、御影大岩(近江八幡市円山町)


圓山神社本殿と境内社。本殿の上にある巨岩がご神体(神体岩)である。

この近くにある長命寺も、境内各所に巨岩が見られ、神体岩となっている。
この地域に広く巨石信仰があったことをうかがわせる。
(撮影日:2013年7月2日、琵琶湖雄松崎は2013年3月)


次回:鞍掛神社例祭(全2回)を挟んで、沖つ島山6(沖島)の予定です。


▼沖つ島山バックナンバー
近江八幡:水郷の風景、安土の山から見た西の湖、アジサイの咲く頃・長命寺
近江八幡:ちょっと番外編:八幡堀と、ネコと、菖蒲と紫陽花

安土のかくれ里、教林坊と老蘇の森
安土の繖山:桑実寺、観音寺城跡と観音正寺/付記:観音寺城関連リンク集


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▼大嶋・奥津嶋神社(地図中央)~圓山神社

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2013年7月 6日 (土)

大津市衣川/鞍掛神社例祭の日時について、お知らせ(大友皇子最期の地の伝説が残る神社、皇子の命日にちなんで)

 


鞍掛神社参拝道の道標


陽成天皇の勅命によって882年に創建された鞍掛神社。
天智天皇の子、大友皇子(弘文天皇)が最期を迎えた場所という伝説が残る場所です。

鞍掛神社の伝承は、日本書紀と異なります。
壬申の乱で敗れた大友皇子は、従者と共に衣川の地に落ち延びました。
皇子は乗ってきた馬の「鞍」を柳の木に「掛」けると、自ら命を絶ったと伝わっています。

伝承では、大友皇子の最期をみとった二人の侍臣がいて、農民となって衣川に定住しました。
その子孫は同じ名字を名乗るようになったと言われ、氏子となって神社を守っておられます。

皇子の命日は7月23日とされるため、鞍掛神社では毎年7月に例祭を行なっています。
天智天皇を祀った近江神宮から、宮司さんがお見えになっての例祭です。

日時 2013年7月14日(日)11時~
場所 鞍掛神社(滋賀県大津市衣川2丁目28−1)

 

▼大津の京1(大友皇子最期の地と、鞍掛神社の伝説)~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(7)
http://katata.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-eaff.html


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▼アクセス
◇JR湖西線「堅田駅」より江若バス堅田町内循環線(乗車7分)、「仰木道」下車。
◇仰木口(国道161号線)から県道313号線へ入り、徒歩約10分で明神橋がある。
◇天神川を渡り、高台に続く道を直進。アオタニサッシさんのすぐ先で右折。
◇住宅街の坂道を登っていくと、児童公園がある(衣川城跡の石碑がある公園)。
◇公園の上の道を右折。駐車場があって、その奥に鞍掛神社がある。


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2013年7月 1日 (月)

沖つ島山4(安土の繖山:桑実寺、観音寺城跡と観音正寺/付記:観音寺城関連リンク集)~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(29)

 


信楽焼の開運たぬき(桑実寺本堂の前にて)


500段とも600段とも言われる桑実寺の石段を上ったら、本堂の前で迎えてくれたのは、
信楽焼のかわいらしい開運たぬきだった。


桑実寺(くわのみでら)は、滋賀県近江八幡市安土町桑実寺にある天台宗の寺院。
琵琶湖の東、湖東平野の奥に位置する「繖山」(きぬがさやま)の北西山腹にある。
「繖山」の名前の由来については、地元の方から興味深い話を聞いた。
一つは、山の形が、貴人にさしかざす衣蓋(きぬがさ)に似ているから「繖山」。

もう一つは、桑実寺の開祖が唐から桑の実を持ち帰り、この地の農家で桑を栽培したことに
因むもので、蚕が糸を散らすさまから「繖山」と名づけたと伝わっている。

「繖」は、糸へんに散ると書く。この地は日本で最初に養蚕を始めたと言われる地なのだ。

桑実寺の開祖である定恵(じょうえ)という人物についても、興味深い話がある。
定恵は天智天皇の護持僧を務めた僧侶で、中臣鎌足(藤原鎌足)の長男。
弟は藤原不比等である。(不比等は鎌足の次男。)

中臣鎌足といえば、中大兄皇子(後の天智天皇)とともに大化の改新を行なった重臣だ。
その長男である人物が出家するというのは、当時でも前代未聞の事態だったらしい。
遣唐使から帰った後23歳で亡くなっていることも相まって、謎が多い人物と言われている。

桑実寺山門


桑実寺は、天智天皇の勅願によって677年に定恵が創建したと伝えられる。

寺名は、先述したように、日本で最初に養蚕を始めた地であることに由来している。

寺の由緒は、桑実寺縁起絵巻に詳しく描かれている。
大津の宮で疫病が蔓延し、天智天皇の第四皇女(阿閉皇女・あべのひめみこ)も病に倒れた。
皇女は病床で、琵琶湖に瑠璃の光が輝く夢をみる。
その話を聞いた天皇が定恵に法要を営ませると、湖から薬師如来が現われ四方に光を発した。
この光によって、皇女をはじめとする人々の病は治った。
そこでこの薬師如来を本尊として開山したのが、桑実寺だという。

この阿閉皇女が、後の元明天皇(文武天皇の母で、聖武天皇の祖母)である。
桑実寺縁起絵巻には、元明天皇が桑実寺に参詣したときの様子も描かれている。
近くに残る「豊浦」という地名は、元明天皇の諱である豊国成姫からつけられた。

繖山は観音寺城と観音正寺があることから、地元では「観音寺山」とも呼ばれている。
桑実寺の右奥には、表参道と別の石段があり、観音寺城の溺手口(裏門)になっている。

桑実寺本堂


桑実寺が再び歴史の表舞台に現われるのは、縁起絵巻が描かれた室町時代である。


当時、室町幕府13代将軍足利義晴が、細川氏の乱を避けて桑実寺に避難 していた。
義晴は絵巻をつくることを発願し、1532年、宮廷絵師の土佐光茂らによって絵巻を制作。
以来3年間義晴は桑実寺を仮幕府とし、1534年には自身の婚儀も桑実寺で行なっている。
義晴の後ろ盾となったのが六角定頼で、六角氏の最盛期だったといわれている。

1568年、美濃にいた15代将軍足利義昭が、織田信長により桑実寺に迎えられている。
この年信長は近江侵攻を開始し、9月に六角氏の観音寺城を落城させた直後のことだった。
その後、信長は桑実寺に寄進を行い、荒廃していた寺の再建も行なっている。
幸いなことに、桑実寺はこの地域に多い戦国時代の兵火に巻き込まれることも無かった。
本堂(重要文化財)は1986年に解体修理されたが、南北朝時代そのままの姿である。

観音寺城の石垣


繖山は標高432.9mの山だが、城の防衛上の理由からか、石段はふぞろいで急坂が続く。
桑実寺から観音寺城跡へときつい山道を登っていくと、35分ほどで城の石垣が見えてきた。


観音寺城本丸跡


さらに5分歩くと、観音寺城本丸跡に着いた。

観音寺城は近江源氏である佐々木氏の居城で、後に六角氏の居城となる。
六角氏は佐々木氏が四家に分かれた家のうちの1つで、近江守護として南近江を支配した。

観音寺城は繖山の山頂近くにある山城で、山の南半分を中心に築かれていた。
地元の方の話では、1942年に干拓されるまで、繖山西麓は琵琶湖につながっていた。

長命寺(西国三十三所第31番札所)から、繖山の桑実寺まで、舟で参拝していたという。
繖山南麓には中山道があり、西麓は琵琶湖に面しているのだから、交通の要衝地である。

築城年代は定かではないが、佐々木氏は早くから観音正寺を砦として利用していたらしい。
『太平記』には、南北朝時代の建武2年(1335年)に六角氏頼が篭もったという記述がある。
居城として築かれたのは、応仁の乱で京極氏に攻められた1469年以降と考えられている。

同族の京極氏とは異なり、六角氏は最後まで強力な戦国大名となることができなかった。
湖東地域は肥沃な地域で国人は自立しており、彼らと連合政権をとらざるを得なかった。
それを反映して観音寺城は、家臣ごとに広い屋敷をもつ城郭が多数存在する構造を持つ。
本丸跡の正面にある大手口石段を下りていくと、代表的な城郭を見ることができる。

平井丸石垣(観音寺城)

平井丸虎口跡(観音寺城)


平井丸。平井氏の居館があったと言われ、石垣・石塁の規模は最大級。


池田丸(観音寺城)


池田丸。池田氏の居館があったと言われ、城の最南端に位置する。


池田丸溜枡跡(観音寺城)


池田丸溜枡跡。


池田丸虎口跡(観音寺城)


池田丸虎口跡。現在は崖になっているが、かつては下に続く道があったようだ。

この観音寺城の落城は、日本史のひとつの転換点となった。

1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛した際、観音寺城の支城を落とした。
六角氏は観音寺城から逃げて無血開城し、その後観音寺城は廃城となった。
京都を支配していた三人衆らは六角氏の敗北を聞いて総崩れとなり、都を追われた。
同年、信長は上洛を果たし、義昭は征夷大将軍の座に着いた。
繖山と目と鼻の先にある安土山に城が築かれるのは、その8年後(1576年)である。

「三分の二ほど登った所に、四百年にわたって近江に君臨した、佐々木一族の城跡があった。
この城は、永禄十一年(一五六八)織田信長に滅ぼされたが、高い所にあるためか、石垣も、
砦の跡も、昨日崩されたように残っているのが哀れである。山道がけわしいのも、わざと登り
にくくしてあったのかも知れない。」(白洲正子『かくれ里』より )

観音正寺境内から見た蒲生野


観音正寺境内から見た蒲生野の風景。観音正寺は、観音寺城の中にあった。


観音正寺本堂""


観音正寺(西国三十三所第32番札所)。写真の本堂は2004年再建。

近江八幡市安土町石寺にある天台宗の寺院で、繖山南側の山頂近くにある。
伝承によれば、605年にこの地を訪れた聖徳太子が"人魚"の願いにより寺を建立した。
聖徳太子が出会った人魚は、前世が漁師で人魚に生まれ変わり苦しんでいたという。
太子が自ら千手観音を刻んで祀ったのが、観音正寺の始まりだと言われている。

石寺で聖徳太子といえば、一回目でご紹介した教林坊も、石寺で聖徳太子建立と伝わる。
繖山の麓には教林坊があり、少し離れたところに奥石神社(老蘇の森)がある。
奥石神社は繖山をご神体にして位置していると、一回目でご紹介した。

縁結地蔵尊(観音正寺)


縁結地蔵尊。観音正寺本堂の左脇にある。


宝篋印塔(観音正寺)


観音正寺の境内で見かけた宝篋印塔(ほういんきょうとう)。


お地蔵さんと紫陽花(観音正寺)


観音正寺の境内は、お地蔵さんがいっぱい。その一部を撮影。


権現見付(観音正寺・観音寺城)


権現見付。観音寺城の城門であり、現在の観音正寺の山門でもある。

権現見付の例もそうだが、観音正寺と観音寺城は境目がはっきりしていない。

観音正寺は、地理的・歴史的に観音寺城と深いかかわりを持ってきた。
六角氏の庇護を得ていた観音正寺は、観音寺城が落城した数年後に焼き討ちに遭い全焼。
慶長年間(1596年~1615年)に再興するも、1993年には本堂が失火で焼失している。
本堂は2004年に再建され、焼失した本尊(千手観音)も新たに作られた。

繖山(観音寺山)の上から撮影した安土

繖山(観音寺山)の上から撮影した安土の町と伊庭内湖


繖山(観音寺山)の上から撮影した、水郷のまちの風景。伊庭内湖が見えている。

向こうは琵琶湖、そして比良山系が広がる。

西国三十三所石仏の道より「第一番 那智山 青渡岸寺」(安土・繖山)


繖山の三角点から下りてきたら、西国三十三所石仏の道(巡礼の道)に出た。

写真は「第一番 那智山 青渡岸寺」のもの。

実際に三十三所を巡るのは大変なため、昔の人が石仏を建立して参拝した道だという。
登山口は文芸の郷(県立安土城考古博物館)にあり、桑実寺にも通じている。
隣の安土山には「四国八十八所」の石仏があると、ガイドさんに教えていただいた。


次回:お知らせを挟んで、沖つ島山5(近江八幡:大嶋・奥津嶋神社)の予定です。


▼沖つ島山バックナンバー
1(安土のかくれ里、教林坊と老蘇の森)
2(近江八幡:ちょっと番外編:八幡堀と、ネコと、菖蒲と紫陽花)
3(近江八幡:水郷の風景、安土の山から見た西の湖、アジサイの咲く頃・長命寺)


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観音寺城 関連リンク集
観音寺城は本丸に簡単な案内があるだけで、本丸以外の道案内や説明が出ていません。
今回ご案内いただいた安土町観光ボランティアガイドの方も残念がっておられました。
資料も殆ど出ていないようなので、参考になりそうなものを集めてみました。
登山にもご活用下さい。(更新日:2013年7月1日)

▼観音寺城跡の平面図や解説が載っています(登山ルートの参考にも)
[PDF]観音寺城跡 -江南の雄 六角氏- 滋賀県教育委員会

▼ウィキペディア(登山ルートの参考にも)
観音寺城

▼観音寺城跡の詳しいレポート(写真満載です)
JAPAN-GEOGRAPHIC.TV  滋賀県近江八幡市 観音寺城

▼地元の方による観音寺城跡案内
観音寺城|散策の備忘録

▼観音寺城に行った人の体験談
名城詳細データ | 観音寺城 - 日本百名城塗りつぶし同好会

▼ガイドを頼みたい方向け情報
安土町観光ボランティアガイド協会
安土観光ボランティアガイド申込書

桑実寺 関連リンク集

▼桑実寺縁起絵巻の写真と解説
[PDF]桑実寺縁起絵巻 - 公益財団法人滋賀県文化財保護協会

▼桑実寺の詳しいレポート(登山ルートの参考にも/写真満載です)
JAPAN-GEOGRAPHIC.TV  滋賀県近江八幡市 安土 桑実寺


 

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