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2013年6月

2013年6月28日 (金)

沖つ島山3(近江八幡:水郷の風景、安土の山から見た西の湖、アジサイの咲く頃・長命寺)~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(28)

 

 


繖山(観音寺山)の上から撮影した安土山、西の湖、長命寺山


安土の繖山(観音寺山)の上から撮影した、水郷のまちの風景。

織田信長がかつて、安土城(安土山)から眺めた山並みもこんな感じだったのだろう。
手前より安土山、西の湖、奥島山(右奥)~長命寺山(中央奥)~八幡山(左奥)。
一番奥にぼんやり見えるのが、琵琶湖の向こうの比良山系。

田んぼの緑の中に、麦秋の茶色がパッチワークのように美しいこの一帯。
地元の方の話では、1942年に干拓されるまで、この一帯は琵琶湖につながっていた。

長命寺(西国三十三所第31番札所)から、繖山の桑実寺まで、舟で参拝していたという。
桑実寺と同じ山中には、観音正寺(第32番札所)がある。

「昔の巡礼たちは、若狭から今津へ出、そこから船で竹生島(三十番)を経て、長命寺
(三十一番)へ渡り、更に観音正寺(三十二番)へと水路を利用したのであろう。」
(白洲正子『近江山河抄』より)

水郷めぐりの和船(西の湖)-1


水郷めぐりの和船が数隻、葦原を目指す。琵琶湖最大の内湖である「西の湖」にて撮影。

内湖とは琵琶湖の内陸にある独立した湖沼で、水路等で琵琶湖に繋がっている水域をいう。
内湖といい、葦原といい、琵琶湖独特の風景といえるだろう。

白洲正子さんの随筆『近江山河抄』より、「沖つ島山」の章はこの一文で始まる。
「近江の中でどこが一番美しいかと聞かれたら、私は長命寺のあたりと答えるであろう。」

水郷の向こうに繖山(撮影地:近江八幡市北之庄町)

「東は安土の近くまで入江がのび、葦の葉かげに、田舟が浮んで、昔ながらの水郷風景が
味わえる。正面には、観音寺山がゆったりした姿を横たえ、南はさえぎるものもない内湖の
風景で、その先に蒲生野が開けている。」(白洲正子『近江山河抄』より)

水郷めぐりの和船(近江八幡市北之庄町)


水郷めぐりの和船が、西の湖周辺の水郷と呼ばれる葦原を行く。一番奥が長命寺山。

葦の茂みの中から、ギョギョシーギョギョシーという声が聞こえてくる。
姿は見えないが、オオヨシキリ(野鳥)だとわかる。

西の湖は、長命寺川とともに、ラムサール条約登録湿地になっている。
(1993年6月10日に登録された琵琶湖の一部として、2008年10月30日追加登録。)
ラムサール条約は正式名「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」
(Convention on Wetlands of International Importance Especially as Waterfowl Habitat)。
湿地を保護することで、鳥類や絶滅のおそれのある動植物をも保護しようという条約である。

実を言うと、白洲さんが絶賛した渡合橋は、水門とコンクリートの護岸に姿を変えていた。
長命寺川は川幅が倍になり、両岸の葦(ヨシ)は既に無く、以前の姿を見るのは難しい。
そこで今回は、渡合橋の少し南のエリア(近江八幡市北之庄町)を歩いて撮影している。
地元の方が「北之庄沢を守る会」を結成し、清掃・保全活動をされている地域である。

水郷めぐりの和船(西の湖)-2


水郷めぐりの和船が西の湖に姿を現す。一休みする船頭さん、話に耳を傾ける乗船客。


西の湖(にしのこ)は、滋賀県近江八幡市と安土町に広がる琵琶湖最大の内湖である。
安土山の西にあることから、この名がついた。面積は約2.85k㎡、平均水深は約1.5m。
北之庄など周辺の集落とともに水郷として「重要文化的景観」に指定されている。
長命寺川を通じて琵琶湖とつながり、葦原がとても美しい。
いつまでも残っていてほしい風景だ。

黄色い物置小屋と赤紫色のアジサイ


西の湖に近い畑では、黄色い物置小屋のそばで、赤紫色のアジサイが咲いていた。


長命寺港(琵琶湖)


渡合橋の先にある長命寺バス停を降りると、目の前は、長命寺港(琵琶湖)だった。

長命寺山の麓の港は、長命寺川(安土への水路)の入口にもあたる場所である。
聞けば、琵琶湖の沖島へ行く船が、長命寺港からも一日一往復出ているという。
残念ながらダイヤの関係で、長命寺港からは日帰りはできないとのことだった。

この長命寺港の前に日吉神社と穀屋寺があり、その敷地の奥に長命寺の石段がある。
穀屋寺は、長命寺同様、聖徳太子の創建によるとされている寺である。

長命寺の六丁石


日吉神社の脇にあった丁石。「しようくわんおん 六丁」と刻む。奥には長命寺の石段。

「しようくわんおん(聖観音)」は長命寺の木造聖観音立像のことだと思われる。

長命寺の麓にある日吉神社は、長命寺を守護する位置づけの神社らしい。
「延暦寺と坂本の日吉大社の如く長命寺と当神社とは古くより密接なるものがあったものと
推察される」と由緒が掲示してあった。

長命寺の石段上り口


長命寺の石段。808段あることで有名。本堂までの所要時間は上り25分前後だった。

日吉神社の左にある自動車用の参道(約1.5km)を使えば、駐車場の脇で石段と合流する。

長命寺の石段(妙覚院付近)


長命寺の石段。妙覚院という宿院の塀が美しい。


長命寺の石段(鳥居付近)


しばらく急な上りが続いたが、こんな風に踊り場のような場所があるのが絶妙だった。

石の鳥居の一部が、木で補修されている(来た道を振り返って撮影)。

実はこの10日ほど前に、500段ほどあるといわれる桑実寺の石段を、気温30度で上った。
どこまでも急な石段だった桑実寺と比べると、段数を感じさせなかったのが長命寺だった。
桑実寺のときより低い気温だったからか、桑実寺の石段で慣れたのかは、よくわからない。
大変といえば大変だったが、歩いていて単調にならず、石段を作った人の配慮を感じた。

長命寺の石仏(石段の途中にて)-1


長命寺の石段の途中では、石仏をよくみかけた。

石段はよく整備されており、熊野古道のような雰囲気のある場所が続く。

長命寺の五丁石


「五丁」と刻まれた丁石。

上り口の丁石は「しようくわんおん 六丁」だったから、一丁(約109m)進んだことになる。

長命寺の石段(合流地点付近)


619年聖徳太子開基と伝わる長命寺。長命寺山(333m)の標高約250mの山腹にある。

駐車場の脇で参道が合流すると、石段の上に本堂が見えてくる。

長命寺の石段と紫陽花

ピンクの紫陽花


紫陽花寺としても知られる長命寺。境内の石段の脇で、紫陽花が迎えてくれた。

毎年6月下旬の土曜日には、紫陽花コンサートが開催されている。
※2013年度のコンサートは終了しています。

紫陽花と長命寺


境内の奥にたくさんの紫陽花。長命寺本堂と三重塔が向こうに見えている。

約500株あるという紫陽花の見ごろは7月上旬まで。

長命寺三仏堂と青もみじ


長命寺本堂と三仏堂をつなぐ渡り廊下にて。青もみじが涼しげなので一枚。


長命寺本堂と三重塔


長命寺本堂と三重塔(ともに重要文化財)。本堂は1524年再建、三重塔は1597年再建。


寺伝によれば、第12代景行天皇の時代、武内宿禰という人物が柳の木に長寿を祈願した。
その後、聖徳太子がこの地に赴いた際、宿禰が祈願した際に彫った文字を発見したという。
そのとき白髪の老人が現れて、その霊木で観音像を彫ってこの地に安置するよう勧めた。
そこで太子は十一面観音を彫り、宿禰の長寿にあやかって「長命寺」と名づけたという。

長命寺の巨石、修多羅岩


長命寺は境内各所に巨岩が見られ、かつての巨石信仰をうかがわせる。

白洲正子さんの『近江山河抄』にも、次の記述がある。
「山内には大きな磐坐がいくつもあり、(中略)仏教以前からの霊地であったことを語っている。」

写真の岩は「修多羅岩」(すたらいわ)といい、長命寺の神体岩である。
案内板には、「修多羅とは仏教用語で天地開間 天地太平 子孫繁栄を言う。
封じて当山開間長寿大臣 武内宿禰大将軍の御神体とする。」とあった。

長命寺の石段の途中で見た石垣


そういえば、長命寺の石段の途中でも、美しい石垣が見られる場所があった。

この寺のもうひとつの見所は、近江の他の場所同様、「石」なのかもしれない。

長命寺の石仏(石段の途中にて)-2


帰り道の石段で、初めて気がついた石仏。

奥の深さを感じた長命寺だった。北津田町の大嶋・奥津嶋神社は後日訪ねる予定。
(撮影日:2013年6月25日)


次回:沖つ島山4(桑実寺、観音寺城跡と観音正寺)の予定です。



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※沖島へは長命寺の先にある堀切新港から一日11往復(日曜は9往復)船が出ています。
※沖島航路時刻表(ご参考に)⇒http://www.bbc-tv.co.jp/biwakuru/kojyou/okisima.html


 

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2013年6月21日 (金)

沖つ島山2(近江八幡:ちょっと番外編:八幡堀と、ネコと、菖蒲と紫陽花)~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(27)

 


八幡堀のそばの町屋で出会ったネコ


八幡堀(はちまんぼり)のそばの町屋で、美しいネコに出会った。

赤い首輪がよく似合っている。得意げにしっぽをたててのご挨拶。
体つきから見て、授乳中のお母さんネコらしい。

菖蒲の咲く八幡堀-1


菖蒲の咲く八幡堀。黄色い花の前に、さきほどのネコ(後姿)。奥に舟が見える。

(撮影日:2013年6月11日)

菖蒲の咲く八幡堀-2(八幡堀めぐりの乗り場と舟とかわらミュージアム)


奥にあったのは、八幡堀めぐりの乗り場。後ろは「かわらミュージアム」の建物。

八幡堀は幅員約15m・全長6kmに及ぶ運河で、琵琶湖につながっている。

菖蒲の咲く八幡堀-3(明治橋)


趣きのある八幡堀は、時代劇のロケ地によく使われている。

「鬼平犯科帳」のエンディング(ギターが印象的だった)の一部も、八幡堀で撮影されている。
(中村吉右衛門さん主演、フジテレビ系列で1989年7月より放映)

八幡堀めぐりの舟-1


八幡堀めぐりの舟がそばを通り過ぎていく。


八幡堀めぐりの舟-2

八幡堀とアジサイ


雨の中で咲くアジサイの花。奥に見えているのは八幡山。


八幡堀について(案内板)


八幡堀について



天正13年(1585)豊臣秀次[※秀吉の甥]が八幡城を築城、それと同時に構築されたもの。
東は北之庄の沢より西は南津田長命寺湖岸近く外湖を結ぶ約5km全体を「八幡浦」と称した。

八幡の城下町と琵琶湖を結ぶ一大運河であり、大津・堅田とならんで琵琶湖の三大港の一つに
数えられていた。

湖上を往来する北陸と関西の物資を満載したすべての船は八幡浦に寄航し大いに賑わった。
この堀割こそが、近江商人の代表八幡商人を生み出した源流である。(案内板より抜粋)


白州正子さんが、近江の中で一番美しいと評したのが、琵琶湖に近い長命寺周辺。
有名な近江八幡の水郷めぐりは、内湖である「西の湖」周辺をめぐる。
八幡堀は琵琶湖と西の湖をU字形につないでいて、近江八幡の旧市街(観光地)にある。
日牟礼八幡宮や、バームクーヘンで人気のクラブハリエは、八幡堀の側に位置する。
旧市街、水郷めぐり乗り場、長命寺へは、近江八幡駅から長命寺行きのバスで行ける。
だいたいそんな風に把握しておけば大丈夫だと思います。
季節柄、水郷めぐりについて調べておられる方が多かったので、ご参考になれば幸いです。

▼水郷めぐりと八幡堀めぐりのご案内(近江八幡観光物産協会ホームページ)
http://www.omi8.com/annai/suigoumeguri.htm

▼近江鉄道バス時刻表・路線図(15番の長命寺線を御覧下さい)
http://time.khobho.co.jp/ohmi_bus/ros_lst.asp?eigCd=5

▼近江八幡旧市街の写真&町歩き(バックナンバーより)
琵琶湖に繋がる運河、八幡堀。時代劇にも使われる、涼しげな風景をどうぞ。
近江八幡-2- 涼しげな町屋と、教会と、飛行機雲
近江八幡-3- 近代洋風建築の町、ぐるっと町めぐり
近江八幡-4- 願成就寺(がんじょうじゅじ)にて


次回:沖つ島山3(近江八幡:水郷の風景、西の湖、長命寺)の予定です。


▼地図中央が西の湖。近時掲載予定の観音正寺(安土エリア)は東(地図右側)です。

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2013年6月18日 (火)

日枝の山道3(延暦寺の門前町、坂本。旧竹林院~山の辺の道~西教寺)~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(26)

 


旧竹林院庭園-1


旧竹林院の庭園。2013年7月よりしばらく公開中止との事で、先日撮影させて頂いた。

(撮影日:2013年6月5日)

旧竹林院庭園-2


旧竹林院は、比叡山延暦寺の僧侶の隠居所(里坊)だった場所である。

京阪電車の坂本駅や日吉大社にも近い場所にあり、一般公開されている。

坂本の里坊には、美しい庭園がみられるところが多い。
『滋賀県の歴史散歩』(山川出版社)によれば、坂本には借景の自然、山から流れる渓流、
豊富な石材、苔に適した土質と気候という条件がすべて揃っている。
青年僧の修行道場ではなく、延暦寺の僧侶の隠居所だったということも大きい。

中世の坂本は琵琶湖に面した水運の町で、北国から京都への交通の要所だった。
もっとも栄えたのは室町時代で、人口は一万数千人あったという。

織田信長の比叡山焼き討ちのとき、門前町の坂本も焼け、衰退していった。
それでも坂本には、延暦寺の里坊が50ほど残っており、美しい町並みがある。
滋賀県大津市坂本は、国の重要伝統的建造物群保存地区になっている。

旧竹林院庭園-3


大宮川の清流がめぐり、苔と木々が美しい旧竹林院。国指定名勝庭園になっている。

水辺に映る赤い和傘と、静寂な空間。時間を忘れるひとときだった。

今回お会いしたスタッフの方は、全員女性で、おもてなしの心のあふれた方ばかりだった。
人の動きをよく見ておられて、その人にあった言葉をさりげなくかけて、そっと退出する。
飛び込みの撮影だったが、「ガラス戸を自由に動かしてくださいね」とスタッフの方。
帰り際もすっと出てこられて、「おくつろぎいただけましたか?お気をつけて」とひとこと。
こういう心配りのできる方は、本当にプロだと思う。同性としてお会いできて嬉しかった。

日吉大社の参道は、一面の青もみじ


比叡山延暦寺の門前町、坂本。日吉大社の参道は、一面の青もみじ。

日枝の山道第3回(今回)は、初夏の坂本を、旧竹林院~山の辺の道~西教寺まで歩いた。

実を言うと、白州さんの『近江山河抄』で登場する坂本は、主に日吉大社と西教寺である。
坂本は8年ほど前によく歩いた場所で、竹林や渓流沿いに趣のある散策路が多い。
西教寺をご紹介するなら、あまり知られていない「山の辺の道」と一緒にご紹介したかった。

6月に入るとほぼ気温30度での撮影になる。歩いている人には殆ど会わなくなる。
このシリーズの撮影も、秋までしばらくお休みにしないといけないかなと思いつつ、歩く。

穴太積の石垣に咲いていたムラサキカタバミ/Oxalis corymbosa DC./Violet wood-sorrel


穴太積の石垣に咲いていた、可憐なピンクの花(ムラサキカタバミ)。


日吉大社東本宮と、山の辺の道


旧竹林院から西教寺に向かって車道を数分歩くと、日吉大社への近道の表示がある。

場所は慈光院のすぐ先で、途中に観光客用の無料駐車場がある。
近道の表示に従い竹林と民家の間の小道を行くと、日吉大社東本宮が見えてくる(写真)。

山の辺の道(案内板)


日吉大社境内(※有料)には入らずに、「山の辺の道」の案内どおりに右折する。


山の辺の道""/


日吉大社境内脇に続く「山の辺の道」。左側が日吉大社境内、右側が穴太積の石垣。


日吉古墳群-1

日吉古墳群-2


山の辺の道では、日吉古墳群を見ることができる。


琵琶湖の見える高台(山の辺の道)


琵琶湖の見える高台に出る。山の辺の道の最後で出会うのが・・・


八講堂千体地蔵-1


八講堂千体地蔵。

比叡山の麓にある八講堂跡周辺で出土した地蔵を、ここに集めて置いたのが始まりという。

八講堂千体地蔵-2(地蔵の背中と琵琶湖)


八講堂千体地蔵の背中と、琵琶湖。

色のあせた案内板には、「八講堂千体地蔵縁起」という表題で次のように書かれてあった。

 
山門堂舎記によると「八講堂は叡麓日吉社の北に建立された」とあり比叡山の山字名に「八講堂」という谷があり寺屋敷が残っている。 山下における論議法要の中心的で重要なお堂であったのであろう。
 八講堂跡から紅染寺跡にかけての広範囲にわたり無数の地蔵尊が散在している。 比叡山が修行の山で、一般の人の参詣に制限があったので、せめて山麓で日夜論議法要の梵音のきこえる処に小さな石造をまつって成仏を祈ったのであろう。 近世田畑を耕作するのに際し入鍬ごとに地蔵尊が出てきたので、誰言うことはなしに、ここに集められたのがこの千体地蔵尊である。


八講堂千体地蔵-3(大日地蔵菩薩)


大日地蔵菩薩を中心に、琵琶湖を眺めるように並ぶ無数の地蔵たち。

八講堂千体地蔵の先で山の辺の道は終わり、車道に出る。安楽律院まで2kmとある。
ここから坂道を数分歩くと、西教寺の山門が左手に見えてくる。旧竹林院を出て30分。

青もみじが美しい西教寺の参道


青もみじが美しい西教寺の参道。傍らに宿坊がいくつか並ぶ。

緩やかな参道を歩き、もみじの木陰の下の石段を登ると、西教寺の本堂がある。

西教寺の本堂


「来迎寺から坂本にかけては、浄土信仰がくまなく行渡っており、西教寺もその一つである。
密教寺院のおごそかなのに比べて、心休まるものがあり、この寺にも明るい空気が流れている。」
(白洲正子『近江山河抄』より。以下、同じ)


「西教寺は一時荒廃していたのを、室町時代の真盛上人が再興し、現在は「天台真盛宗」と呼ばれている。いつ行ってみても、本堂の中から、鉦の音とともに念仏の声が聞えてくるが、これを「不断念仏」と称し、近所の信者たちによってつづけられているという。(中略)実際には平安時代からつづいていたのであろう。驚くべき信仰の強さで、比叡山の奥の深さを物語っている。」

西教寺境内


西教寺境内。石垣の前と上には、一面の石仏、お墓、そして比叡山。


「ここで人の心をひくのは、石垣の上に並ぶ石仏群である。(中略)仏たちの上にもあどけない表情があらわれ、見る人々の涙を誘う。「鎮護国家」といういかめしい指名をおびた叡山も、ついにここまで降りて来て、庶民のために手をさしのべた感じがする」

明智光秀とその一族の墓(西教寺境内)

明智光秀とその一族の墓(西教寺境内にある案内板)


西教寺の石垣の前には、坂本城主だった明智光秀とその一族の墓がある。


織田信長が比叡山を焼き討ちした後、坂本の町を復興させたのは明智光秀だった。
地元では名君として慕う人が絶えない。
西教寺では毎年6月14日に明智光秀公御祥当法要(一族・諸将含む)が行なわれている。

西教寺客殿と泉と青もみじ


西教寺客殿(重要文化財)と涼しげな青もみじ。清らかな水が湧いていた。

池の脇には石段があって、真盛上人の御廟に続いている。せっかくなので行ってみる。

西教寺の染殿(五輪塔)

西教寺の染殿(五輪塔)案内板


真盛上人の御廟に続く石段の途中、看板があって見ると鎌倉時代の五輪塔だった。

無銘であるが、西教寺境内でもっとも古い年代の石造品だという。
白洲さんは御覧になったのかどうか分からないが、とても品のある石塔だった。

西教寺は独特の雰囲気があり、もちろん拝観もできるのだけれど、信仰の場という感が強い。
どこか簡単に近づけないところがあって、信仰心のない私はいつ行っても気後れしてしまう。
いつかもっとこの空気となじんで、踏み込んで撮れたら、と思っている場所です。


次回:沖つ島山2(近江八幡:ちょっと番外編:八幡堀と、ネコと、菖蒲と紫陽花)です。


▼「山の辺の道」の入口(慈光院前)と、旧竹林院~山の辺の道~西教寺

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▼旧竹林院:滋賀県観光情報
http://www.biwako-visitors.jp/search/spot.php?id=1284

▼西教寺について(ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/西教寺

▼西教寺ホームページ
http://www.saikyoji.org/

▼坂本の写真(バックナンバーより)
日枝の山道1(日吉大社と山王祭)
日枝の山道2(穴太積の石垣、坂本の里坊、慈眼堂の石仏、日吉東照宮)


 

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2013年6月13日 (木)

近江路1(東海道水口と大池寺)~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(25)

 


水口神社参道の松並木


「東海道は、草津で中山道とわかれて南下するが、一番はじめにくる主要な町が水口
(みなくち)である。」(白洲正子『近江山河抄』より)


白洲さんはこの後、水口での松尾芭蕉のエピソードを紹介している。
芭蕉の代表作『野ざらし紀行』の道中の出来事である。最初にご紹介したい。

水口にて二十年を経て故人に逢ふ
命二つの中に生きたる桜かな (野ざらし紀行)


「貞観二年、芭蕉は伊賀の故里に帰っていたが、京へ上る途中、ここで二十年ぶりに旧友と出会った。故人というのは、服部土芳のことである。彼は所用で播磨におもむいていたが、伊賀へ帰国した時、芭蕉はすでに立った後で、急ぎ後を追い、水口の宿で追いついた。」

「友達といっても、彼は芭蕉よりずっと年下で、師匠と思って尊敬していたのであろう。
心をわけ合った二人の間に、ぱっと咲いた花が目に見えるようだ。
その時、土芳は、同じ句をもって返したと聞くが、何もいえなかった、気持がよくわかる。」

「十七字の中に、これほど多くの感情を盛り込んだ句を私は知らないが、
旅の途中でなかったら、ここまで切迫したものにならなかったかもしれない。
それが近江でよまれたことも、偶然ではなかったような気がする。」

5月の弁天池(滋賀県甲賀市水口町名坂)


「水口の北には、聖徳太子の建立による大池寺という寺があり、緑したたる丘陵の間に、
建つ姿は、旅人の姿をひく。」(白洲正子『近江山河抄』より)


貴生川駅より甲賀市コミュニティバス(広野台ルート)に乗車約30分。大池寺バス停で下車。
バス停の傍の土手を登ると、弁天池という名の大きな池があった。

池は一面に水をたたえ、奥には古い鳥居が沈んでいるのが小さく見える。
神域の森が深々と広がり、池の水面には森が濃い影を落としていた。
土手にはやわらかな草地が続き、まるで宮崎駿さんのアニメの世界のようだ。

八幡神社へ続く橋と弁天池(滋賀県甲賀市水口町名坂)


橋の向こうにあるのは八幡神社で、八幡神社の境内の脇に大池寺の駐車場がある。

その先は導かれるように山中へ道が続き、視界がぱっと開けたところに大池寺がある。

大池寺は、天平年間(729~784)に行基が開いた寺と言われている。
行基といえば、奈良の大仏・東大寺建立に尽力した奈良時代の高僧だ。

伝承によれば、行基は諸国行脚でこの地(現在の滋賀県甲賀市水口町名坂)を訪れた。
その際、日照りに悩む農民のため、灌漑用水として「心」という字の形に4つの池を掘った。
中央に寺を建立し、一彫りごとに三拝したという「一刀三礼の釈迦丈六坐像」を安置した。

大池寺庭園-1(5月の頃)


「現在は禅宗の寺になっているが、書院の奥には目ざめるような枯山水の庭があり、
小堀遠州の作と伝える。」


大池寺庭園-2(6月、サツキの咲く頃)


「白砂をしきつめた中に、つつじの刈込みが変化のある起伏をみせており、
見ようによっては近江の遠山とも、湖水に横たわる竜神のうねりのようにも映る。」
(白洲正子『近江山河抄』より)


蓬莱庭園と呼ばれる大池寺庭園は、5月下旬から6月にかけて咲くサツキで知られる。
とてもシンプルな庭園で、白砂は海を、つつじ(サツキ)の刈込みは波と宝船を表している。
中に七つの石と小さな刈込があって、七宝と七福神を象徴しているという。

大池寺庭園-3(亀島)


その名も「亀島」。頭の部分は石で、甲羅は刈込みで表す亀。庭園の縁先右側にある。


今回は、5月22日と6月11日の2回に分けて撮影させていただいている。
かくれ里のようなロケーション、禅宗のお寺ということもあって、とても落ち着く空間だった。
ご住職の話では、今年(2013年)のサツキの開花は例年より1週間ほど早いとのこと。
2013年のサツキの刈込みは6月20日とも伺った。花を御覧になりたい方はお早めに。

水口城-1


水口城。徳川家光が上洛する際の宿舎として築城された。別名・碧水城(へきすいじょう)。

水口は東海道五十三次の50番目の宿場町だが、宿場町の面影はほとんど残っていない。
冒頭でご紹介した水口神社参道とともに、江戸時代の雰囲気を残す貴重な場所といえる。

水口城-2


水口城跡は、現在、水口城資料館になっている。


水口城跡案内板


水口城の工事を行なったのが、作事奉行の小堀遠州だった。

大池寺の庭園も、前回ご紹介した教林坊の庭園も、小堀遠州の作と伝わっている。

小堀遠州。湖北の小堀村(現・滋賀県長浜市)の出身で、本名は小堀 政一(まさかず)。
安土桃山時代~江戸時代前期の人で、豊臣秀長(秀吉の弟)、秀吉、徳川家康に仕えた。
茶人、建築家、作庭家。備中松山藩2代藩主、のち近江小室藩初代藩主にもなっている。
この時代の人らしい、ダイナミックで、多才で、エピソードの多い人物である。
※詳しくはこちらをどうぞ⇒小堀政一(ウィキペディア)


6月の弁天池(滋賀県甲賀市水口町名坂)

弁天池のスイレンの花(滋賀県甲賀市水口町名坂)



再び、大池寺の弁天池にて。スイレンの花が咲いていた。

5月に来たときは、池の一部でスイレンが咲き始めたばかりだった。
同じ場所に通って、移りゆく季節を知るのは、撮影していて一番幸せな事かもしれない。


次回:日枝の山道3(旧竹林院~山の辺の道~西教寺)の予定です。



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大池寺ホームページ
http://www.sunalix.co.jp/daichiji/


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2013年6月 8日 (土)

沖つ島山1(安土のかくれ里、教林坊と老蘇の森)~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(24)

 


教林坊庭園-1


安土の繖山(きぬがさやま)の麓に、聖徳太子によって605年に創建された寺がある。

教林坊という天台宗の寺で、白洲正子さんの著作には「石の寺」「石寺」として登場する。

付書院からの眺めは「掛軸庭園」と呼ばれ、一番美しい眺めとされる(写真一枚目)。
自然を切り取って四季折々の山水掛け軸に見立てる。日本独自の感性と言えよう。

「麓の石寺という部落は、世捨人のような風情のある村で、かつては観音正寺の末寺が三十以上も
あり、繁栄を極めたというが、現在は教林坊というささやかな寺が一つ残っているだけである。」
(白洲正子『かくれ里』より)

教林坊庭園-2

その庭園は、慶長年間(1596-1614年)に古墳の石を利用して造られた。
桃山時代の池泉庭園で、地元では小堀遠州作とも伝えられている名勝である。

教林坊庭園と本堂

「ここで私の興味をひいたのは、慶長時代の石庭で、いきなり山へつづく急勾配に作ってあり、
よく見ると、それは古墳を利用してあるのだった」
「石室の巨大な蓋石を、そのまま庭石に使ってあるのだが、不自然でなく、日本の造園の
生い立ちといったようなものを見せられたような感じがする」(『かくれ里』より)

太子の説法岩


「太子の説法岩」。寺名の「教林」は、太子が林の中で教えを説いたことに由来する。


本尊の赤川観音は、この説法岩の下の大きな岩穴の中にある。
穴の中は暗くてよく見えなかったが、それがいいのかもしれないとも思った。
村娘の難産を助けたという言い伝えがあり、安産、子授け、良縁成就の観音さまである。

太子の説法岩の裏側に、小さな石仏


「太子の説法岩」の裏側に、小さな石仏があった。青もみじと苔が目に涼やか。


別名の「石の寺」は、太子の歌に由来するという。
「九十九折れ たずねいるらん 石の寺 ふたたび詣らな 法の仏に」
ここから、二度参りによる心願成就の寺として信仰を集めてきた。
ちなみに集落の名も「石寺」(近江八幡市安土町石寺)となっている。

教林蔵

教林蔵と青もみじ


土壁に青もみじが映える教林蔵。かつて数千冊の経典・学問書を所蔵していたという。


一面のもみじと竹林が印象的で、秋は紅葉とライトアップでにぎわう教林坊。
今の姿からは想像がつかないが、昭和50年(1975)頃から無人となり荒れ寺になった。
白州さんが来坊されたのは、その前の昭和44年(1969)1月だったという。

平成7年(1995)に現在のご住職が20代で赴任し、地元の方と一緒にここまで復興された。
来坊の折に「荒れ寺復興録」という連載のコピーを頂いたのだが、とても興味深かった。
本堂の改修は、ご住職がほとんどお1人でされたという。
その姿を見た地元の方が、屋根を葺き、竹林を開墾して園路を作り、駐車場を整備した。

1人の青年が決意して、ひとりで始めたことが、一つのお寺を蘇らせた。
人の気持ちのもつ力は、かけがえのない尊いものだと改めて思う。

本堂を壊しているように見えたというから、修復していると分からなかったかもしれない。
だけど、屋根に上がって毎日ひとりで奮闘している姿を見ていてくれた人がいた。
それもまた、かけがえのない尊いことだと思う。

人のしようとしていること、していることを、外からとやかく言うのは簡単だ。
青年が荒れ寺の中にまばゆい緑の空間を見たとき、皆で笑ったら、復興は遠ざかっただろう。
だからこそ、若い人や気持ちのある人を潰さないでほしい。そういう世の中であってほしい。
人は、これだけのことができるのだから。そんなことを思った。

繖山と灯篭


繖山(きぬがさやま)。教林坊はこの山の麓にある。

この繖山をご神体にしているのが、奥石神社(おいそじんじゃ)である。
繖山の山頂近くの磐座には「観音正寺」の奥の院がある。こちらは後日ご紹介する予定。

繖山に向かって並ぶ灯篭と老蘇の森


繖山に向かって並ぶ灯篭。奥に見えるのが「老蘇の森」(おいそのもり)である。

この森の中に、もうひとつのかくれ里、奥石神社がある。

「今は新道(八号線)に分断されてしまったが、中へ入ると別世界の静けさで、黒々とした森を背景に、端正なお社が建っている。」(白洲正子『かくれ里』より)

吉住大明神(老蘇の森)


老蘇(おいそ)の森。国史跡になっていて、境内には吉住大明神や奥石神社がある。


奥石神社社伝によれば、由緒は孝謙天皇5年(前286)、約2250年前の神話の時代に遡る。
昔この一帯は、地裂け水沸いて、とても人の住む処ではなかった。
石部大連が神の助けを借りて松・杉・檜を植えたところ、たちまち大森林となったという。
大連は100歳を越えても壮健だったことから、この地を老蘇と呼ぶようになったと伝わる。

万葉の時代から数々の歌に詠まれている名高い森でもある。

東路の思い出にせん時鳥(ほととぎす) 老蘇の森の夜半(よは)のひと声 (大江公資)
夜半ならば老蘇の森の郭公 今もなかまし忍び音のころ (本居宣長)
身のよそにいつまでか見ん東路の 老蘇の森に降れる白雪 (賀茂真淵)

鎌の形の拝殿幕(奥石神社)


奥石神社は別名・鎌宮神社と呼ばれ、名の由来となった鎌の形が拝殿幕に見られる。

本殿は竈の神(釜大明神)を祀っており、釜が鎌に転じ、鎌宮となったという。

地元の方の話では、「蒲生野宮」がなまって名づけられたものとも考えられるという。
蒲生野といえば、琵琶湖の東岸、近江国蒲生郡に広がっていた野をさす。
話の端々に、この一帯はとても歴史のある場所なのだと実感する。

奥石神社拝殿


奥石神社拝殿。古来より、奥石神社は安産守護の神社として祈願されてきた。

撮影した日も、腹帯を受け取りにきた参拝者(ご家族)を見かけた。

安産守護の由来は、景行天皇の時代、大和武尊の神話にさかのぼる。
大和武尊の蝦夷征伐の折、弟橘姫命が海神を鎮めるため、上総の海に身を投じた。
そのとき「霊魂は飛び去り老蘇の森に留まり永く女人平産を守るべし」と誓ったという。

老蘇の森は、古来から生命の象徴なのかもしれない。

奥石神社鳥居と参道


奥石神社の鳥居。参道の両脇は老蘇の森。面しているのは中山道になる。


老蘇中山道


老蘇中山道。織田信長の安土城で知られる安土は、中山道の町でもある。

安土には武佐宿があり、また根来陣屋の書院が福生寺の本堂として残っている。
「この10年で中山道を歩く人が増え、老蘇を知って頂けるのは嬉しい」と福生寺のご住職。

轟地蔵(福生寺)

轟地蔵のアップ


東老蘇にある福生寺(ふくしょうじ)の千体地蔵。「轟地蔵」(とどろき地蔵)と呼ばれる。

小幡人形のかわいらしい千体仏で、安産祈願のお地蔵さんである。

平安時代の『梁塵秘抄』に「近江におかしき歌枕 老蘇轟 蒲生野布施の池」と歌われた。
その轟にあやかって名づけられたという。

もとは福生寺の近くの轟橋にあり、明治時代に橋の改修を行った際に移したらしい。
1806年の中山道分間延絵図(重文、東京博物館蔵)には、轟橋に轟地蔵の記載がある。
他方で、慶応元年(1865)の福生寺の絵図には、轟地蔵の記載がないという。
明治天皇の行幸の際、轟川の幅を広げ轟橋を改修したからだろうというお話だった。

轟橋に架かっていた橋石


改修前の轟橋に架かっていた橋石。三枚のうちの一枚が奥石神社の公園にある。

これは地元のボランティアガイドの方に教えていただいた。

安土は近江八幡市になったが、水田と緑、落ち着いた町並みの広がる風景は変わらず美しい。
ハイキングコース、レンタサイクルが整備されており、京阪神から訪ねる人も多い。
安心して歩けて、自然いっぱいの歴史ある町として、お勧めします。
沖つ島山シリーズでは、安土の繖山から近江八幡の琵琶湖畔までを巡る予定です。


次回:近江路1(東海道水口と大池寺)の予定です。



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※教林坊の拝観は土日祝のみ(紅葉シーズンは別)。ご確認のうえお出かけ下さい。

教林坊ホームページ(本尊 赤川観音 石の寺 教林坊)
http://www.d1.dion.ne.jp/~marche/kyourinbou/index.html


 

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2013年6月 4日 (火)

紫香楽の宮6(失われた奈良の文化圏を追って、正福寺と廃少菩提寺)~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(23)

 

 


初夏の空と緑(野洲川の中郡橋から、滋賀県湖南市)

初夏の野洲川(中郡橋から、滋賀県湖南市)


空も緑も水も、すっかり初夏の色になっていた。再び、野洲川の中郡橋を渡る。


麦秋(菩提寺南の交差点手前にて、滋賀県湖南市)


菩提寺南の交差点の手前は、一面の麦秋。歩いている人は、誰もいない。


田んぼに小さな稲の風景(菩提寺~菩提寺西、滋賀県湖南市)


菩提寺~菩提寺西でみかけた田園風景。田んぼでは小さな稲が育っている。


前回まで、東海道五十三次の51番目の宿場町・石部を、2回に分けてご紹介してきた。
石部町は甲西町と合併して(平成16年10月)、現在は滋賀県湖南市になっている。
今回は旧甲西町エリアから、知られざる奈良ゆかりの風景をご紹介したい。

正福寺の石仏とツツジー1(滋賀県湖南市)

正福寺の石仏とツツジー2(滋賀県湖南市)


正福寺(しょうふくじ)は、1250年前、聖武天皇の勅願で良弁によって開かれた寺である。

5月下旬から6月上旬には、境内奥の石仏を取り囲むようにサツキの花が咲く。

開基当時は七堂伽藍を完備し、僧坊18、公衆12人を属していたというから大寺院だった。
本尊の胎蔵界大日如来は、金粛大菩薩(良弁)の一刀三礼の彫刻という秘仏である。

元亀年間(1570年)に織田信長と佐々木六角の兵火に遭い、一山諸堂僧坊は焼失。
本尊の大日如来や、十一面観世音菩薩など(いずれも重要文化財)は難を逃れた。
山号は大乗山で、明暦年間に浄土宗に改宗している。

菩提禅寺の前で咲いていた黄色い花


正福寺の北西(徒歩30分ほどのところ)に、菩提禅寺というお寺がある。

菩提寺山の麓の竹林に覆われた高台にあって、遠くから見ても独特の雰囲気がある。

国史跡「廃少菩提寺石多宝塔及び石仏」

国史跡「廃少菩提寺石多宝塔及び石仏」案内板


この隣の山中に、奈良興福寺の別院で「少菩提寺」と呼ばれた大寺院があった。
 大正15年に、国史跡「廃少菩提寺石多宝塔及び石仏」になっている。


菩提寺の山上から麓にかけて七堂伽藍・三十七の宿坊があったというが、面影はない。
やはり元亀年間(1570年)に織田信長と佐々木六角の兵火に遭い、灰燼に帰した。
前々回とりあげた西応寺に残る古絵図だけが当時の繁栄を伝える。

地元でもご存じない方が多いとの事で、菩提寺まちづくり協議会が周辺整備をされている。
史跡の入り口には、「歴史の小径」という名で、小さな看板が出ている。
菩提寺西から県道27号線を西へ向かうと、菩提禅寺の看板の次に廃少菩提寺がある。

少菩提寺は、正福寺と同様、良弁によって開かれた寺だった。
良弁は近江出身の僧侶で、聖武天皇の信任が厚く、後に東大寺の初代別当となった。
白州正子さんによれば、良弁は山岳信仰の修験者でもあり、土木の親方でもあった。
平城京造営のために、良弁が大津の石山に置いた建築事務所が、後の石山寺である。

近江南部(滋賀南部)は、巨岩と山地の多い地域であり、良弁開基の古刹が多く残る。
石山寺、栗東市の金勝寺(こんしょうじ)・安養寺、湖南市の西応寺・常楽寺・長寿寺。
中でも金勝寺と少菩提寺は別格で、少菩提寺に対し、金勝寺は大菩提寺と呼ばれた。

金勝寺は奈良の鬼門に位置し、常楽寺・長寿寺は紫香楽の宮の鬼門に位置する。
良弁は近江南部に南都仏教の一大文化圏を築いた。

廃少菩提寺 地蔵尊像(三体地蔵)


廃少菩提寺 地蔵尊像(三体地蔵)。史跡の入り口にある。


三体の地蔵尊像は、それぞれ一体ずつ別の石に刻まれている。
中尊は鎌倉初期の作で、像高158cm。
手には短い鍚杖を持ち、舟型光背の中に高肉彫して頭上に笠石をのせている。
両尊は南北朝の作。(案内板の解説より)

廃少菩提寺 閻魔像(閻魔地蔵)


廃少菩提寺 閻魔像(閻魔地蔵)。山中に続く道を数メートル歩くと、すぐ右にある。


閻魔王・如来形・地蔵・僧形二体の計五体が石に刻まれている。石の高さは160cm。
中央に頂上を山形にした矩形の深い掘込みを作り、中に坐高82cmの閻魔坐像を中肉彫りしている。
(案内板の解説より)

廃少菩提寺 石造多宝塔


廃少菩提寺 石造多宝塔。地蔵尊像の向かい側にある。白洲さん絶賛の多宝塔である。


日本の石造美術史上において銘文をもつ多宝塔として大変貴重なもの。
「仁治二年(1241)辛丑七日」「願主僧良全・施主日置氏女」と刻されている。
塔高は448cmで、鎌倉時代の作である。(案内板の解説より)

白洲正子さんは『近江山河抄』の「近江路」で次のように記す。

「中でも少菩提寺跡の石塔はみごとなものである。高さ四・五五メートルの大きさで、仁治二年(一二四一)の銘がある。見なれぬ形なので、寄せ集めかと思ったが、そうではなく、近江に特有の二重の多宝塔であるという。いい味に風化しており、その背後に菩提寺山が深々と鎮まっているのは、心にしみる風景である。」

「美しい石材に恵まれていたのと、帰化人の技術が手伝ったに違いない。それ以前からの自然信仰が、民衆の間に、根ぶかく生きていたことも忘れてはなるまい。文化財を残したのは、国でも皇室でもなく庶民なのだ。地方を歩いてみて、そのことを強く感じるが、とうの昔に失われたはずの原始信仰が、未だに健在なことに私は驚く。木と石と水-それは生活に必要なものを生み出す「山」のシンボルであり、日本人の内部に秘められた三位一体の思想である。」

湖南に良弁ゆかりの寺を訪ねる旅は、今回でひとまず最終回。
紫香楽宮は、白州さんが信楽を訪ねたという秋に訪ねる予定です。


次回:沖つ島山1(安土のかくれ里、教林坊と老蘇の森)の予定です。



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湖南市地図(市内観光マップ)
http://www.burari-konan.jp/pdf/map.pdf

正福寺/廃少菩提寺
http://www.burari-konan.jp/pdf/P1112.pdf

湖南市観光MAP・パンフレットダウンロード
http://www.burari-konan.jp/pamphlet_dl.html


 

 

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