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2013年5月

2013年5月25日 (土)

紫香楽の宮5(青もみじの季節に訪ねる、常楽寺と長寿寺)~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(22)

 


西寺(常楽寺)、本堂と三重塔


「彼[良弁]は近江の帰化人の子孫で、後に造東大寺司となり、石山寺も建立した。
 石山だけでなく、湖南の古い寺院は、ほとんど彼の創建による。(中略)
 が、なんといっても美しいのは、東寺(長寿寺)と西寺(常楽寺)であろう。」
 (『近江山河抄』より)


常楽寺三重塔

常楽寺本堂


常楽寺の本堂と三重塔。ともに国宝である。

阿星山(あぼしやま)の西にあって、「西寺」(にしでら)と呼ばれるのが常楽寺である。

無住職の時代が続いていたが、現在のご住職が木を切り、花を植え、遊歩道を整備された。
ご住職が赴任してきた時は、三重塔が木に隠れてどこにあるか分からない状態だったという。
※紅葉シーズン以外は、境内参拝にも予約が必要。

石部本陣跡の石碑(旧東海道)


東海道五十三次の51番目の宿場町・石部(いしべ)に、常楽寺と長寿寺はある。

石部町と甲西町の合併(平成16年10月)によって、現在は滋賀県湖南市になっている。
平成17年11月より湖南三山と称されることになったのが、常楽寺、長寿寺、善水寺である。
三山とも奈良時代に建立された天台宗寺院で、国宝を有し、紅葉の名所として知られる。

しかし、常楽寺と長寿寺は、善水寺とは歴史的・地理的に異なる顔をもつ。

長寿寺山門


常楽寺と長寿寺は、ともに紫香楽宮の鎮護寺として建てられた勅願寺である。
阿星山(あぼしやま)のふもとにあり、紫香楽宮の鬼門(北東)に位置する。

山号はともに「阿星山」(あぜいざん)で、良弁(ろうべん)によって開かれた寺である。
平安時代には「阿星山五千坊」と呼ばれるほど、栄えたという。

阿星山は金勝山を形成する山の一つで、金勝寺(滋賀県栗東市)の山続きにある。
以前ご紹介したとおり、金勝寺は、平城京の鎮護寺として奈良の鬼門に建てられた。
金勝寺は733年に良弁開基の寺で、8世紀までに興福寺(法相宗)の仏教道場となった。
しかしその後、比叡山(天台宗)の勢力が台頭し、奈良(興福寺)の影響力は消えていく。
金勝寺、常楽寺とも、平安時代後期までには天台宗に改宗している。

長寿寺本堂-1

長寿寺本堂-2


「ことに東寺のたたずまいは優雅である。楓と桜並木の参道を行くと、檜皮葺の屋根が見えて
来て、赤松林の中に鎮まる鎌倉時代の建築は、眺めているだけで心が休まる。」(『近江山河抄』より)


阿星山の東にあって「東寺」(ひがしでら)と呼ばれるのが、長寿寺である。
写真の本堂は国宝になっている。

長寿寺創建には、聖武天皇のこんなエピソードが伝わっている。
聖武天皇は、大仏造営のため紫香楽宮に遷都したが、世継ぎがなく良弁に祈請させた。
良弁は阿星山中の瀑布に籠もって祈ったところ、間もなく皇女が産まれた。
そこで天皇は東寺を建立し、皇女生誕にちなむ子安地蔵尊を行基に刻ませて本尊とした。
そして皇女の長寿を願い、長寿寺という寺号をおくったのが、寺の始まりという。

長寿寺の鐘楼


長寿寺は子宝・安産・長寿の寺であり、花の寺でもある。


ちなみにご本尊の子安地蔵尊は秘仏で、50年に一度開帳される。
その年がなんと、昨年(2012年)だったとのこと。うーん残念。長生きして伺うとするか。

長寿寺の石造多宝塔


長寿寺の石造多宝塔。聖武天皇の菩提を弔うために鎌倉時代に建立した多宝塔。

今は相輪が欠けているが、この種の石造多宝塔の遺例は極めて少ないという。

長寿寺本堂-3

青もみじの季節もまた美しいということで、二つの寺を訪ねたのが5月半ば。
車以外だと、石部駅からバス又はタクシーで参拝する人が多いらしいが、駅から歩いた。
※ハイキングコースになっており、湖南市観光協会が地図を配布されている。

あいにくの天気となってしまったが、雨の中を撮影させて頂き、お話を伺った。
長寿寺はご住職の奥様による法話が名物となっていて、心に残る話をして頂いた。
常楽寺は予約が必要で、ご住職に時間を作って頂いた。お二人に御礼申し上げます。


次回:紫香楽の宮6(正福寺と廃少菩提寺)に続きます。


↓地図:紫香楽宮との位置関係を御覧下さい。

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2013年5月20日 (月)

紫香楽の宮4(聖武天皇と良弁僧正ゆかりの寺、安養寺と西応寺)~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(21)

 


安養寺駐車場と名神高速道路の高架


近江南部は奈良ゆかりの古刹が多い。聖武天皇勅願で良弁によって開かれた寺である。
 石山寺、金勝寺に続いて、滋賀県栗東市の安養寺と、湖南市の西応寺を訪ねた。


JR草津駅から帝産バス金勝(こんぜ)線に乗り、約10分。なごやかセンター口で下車。
道を戻り、名神高速道路の高架の手前で左折。高架に沿って10分程歩くと安養寺がある。
地名も栗東市安養寺となっていて、周辺には治田東小学校や栗東自然観察の森がある。
普段参拝する人はあまりいないようで、ほとんど人に出会わなかった。

安養寺参道の新緑(モミジ)


参道のモミジの緑が目にまぶしい。傍らでフジの花がひっそりと咲いていた。


安養寺の表山門


安養寺は天平12年(740)、聖武天皇の勅願により金勝寺別院の一つとして良弁が開基。


承和元年(834)、弘法大師(空海)が中興。現在は真言宗の寺となっている。
金勝の里(金勝寺周辺)から少し離れたところにあるが、訪ねたい場所の一つだった。

安養寺・十三重の賽塔


十三重の賽塔(重要文化財)。弘長年間よりやや遅れる鎌倉時代後期の作とされる。


案内板によれば、高さは約4mで、現在は第九・十・十一層を欠く十重になっている。
塔身には四仏が刻まれ、基礎の三面に格狭間(こうざま)と呼ばれる装飾がある。
正面は二区に分けて二体の比丘形(僧侶の姿)を掘り出す、珍しい形式の層塔だという。

安養寺庭園


安養寺庭園。客殿の北庭、庫裏書院の東庭をなし、東側の山裾に展開する池庭である。


ゆるい傾斜の山裾に曲池を設け、池の東北に築山を築き、アカマツを主木としている。
池は浅く、南側の広がった水面に浮石を一つ置くだけのシンプルな作りである。
穏やかな印象を残す江戸末期の庭園で、滋賀県指定名勝となっている。

庭園奥に本堂があるが新築工事中だったため、境内の八十八箇所巡りに行ってみた。

安養寺八十八箇所巡り


安養寺の八十八箇所巡り。裏山に石仏が置かれ、気軽に散策できるようになっている。


一周20-30分で、山の中を歩くことができ、いい気分転換になった。
以前ご紹介した長安寺、石山寺にも同じ様な石仏巡りがある。ぜひお勧めしたい。

菩提寺西交差点

所変わって、西応寺最寄の交差点「菩提寺西」。歯科医院の脇に参道がある。

西応寺参道入り口

JR石部駅からタクシーで8分と聞いたが、駅前のレンタサイクルで電動自転車を借りた。
18時までに返せばいいという約束で、一日700円(普通の自転車なら500円)。
こちらでもほとんど人に出会わなかった。

西応寺山門とハギの花


西応寺は初夏のハギの花で知られる。ピンクの花があちこちで咲いていた。(5/8撮影)

雲南萩というらしい。20年ほど前に参拝者が植えたのが始まりという。
こちらのお寺も本堂が新築工事中のため、庭園を見せていただく。

西応寺庭園(主庭)


西応寺庭園。枯山水の見事な庭園である。(※特別公開期間以外は要予約。)

山と樹林と空を背景とし、建物の前面から山裾にかけて細長い枯池を巡らす。
高台には高さ33尺(約10m)の十三重石塔が建ち、ひときわ目を引く。

西応寺庭園(主庭西側)

築山の間に枯滝・枯流れを設け、大小高低様々な石灯籠や石擬宝珠柱などを置く。

西応寺庫裡と十三重石塔


庫裡の前の空間にも、山と樹林と空を背景にした小さな庭がある。十三重石塔が見事。


西応寺境内の石仏


西応寺境内の石仏。お供えの花と、前掛け、どちらも優しい色合いだった。


西応寺古絵図(廃少菩提寺古絵図)案内板と、アイリスの花


この地にはかつて、奈良興福寺の別院「少菩提寺」があった(廃少菩提寺と呼ばれる)。
 廃少菩提寺の禅祥坊が、西応寺の前身である。


少菩提寺もまた、聖武天皇の勅願により、良弁によって開かれた寺だった。
菩提寺山一帯に、大金堂、三重塔、開山堂を中心に7つの神社と36の僧坊があったという。
少菩提寺に対して金勝寺を大菩提寺と呼んだというから、立派なお寺だったのだろう。
明応元年(1492)4月25日の記録のある古絵図には、山裾に禅祥坊があったことが伺える。

元亀2年(1571)、織田信長の兵火で菩提寺全山はほぼ焼失し、廃寺となった。
白洲さんが『近江山河抄』で書いている廃少菩提寺の石塔は、西応寺の近くにある。

西応寺だが、浄土真宗の寺として永正17年(1520)に建立された。
僧義全が本願寺門首・実如に帰依して禅祥坊専源と改め、西応寺を建立したという。
明応元年(1492)4月25日の記録のある古絵図が、寺宝として伝わっている。

菩提寺の町並みと、水を張った田んぼ


菩提寺の町並みと、水を張った田んぼ。のどかな田園風景が広がる。

最後に、菩提寺にある「齋神社」(いつきじんじゃ)をご紹介したい。

齋神社由緒


齋神社も少菩提寺ゆかりの神社である。731年頃、少菩提寺の守護神として建立。


齋神社鳥居

齋神社本殿

齋神社境内と、しだれ桜(藤兵衛桜)

齋神社拝殿


齋神社境内。観光協会から頂いた資料には、しだれ桜(藤兵衛桜)が有名とあった。


齋神社前を左折すると西応寺・廃少菩提寺、右折すると正福寺がある。
正福寺もまた良弁開基の寺で、サツキの寺として知られる。6月初めに訪ねる予定。

野洲川(中郡橋で撮影)


帰り道で撮影した野洲川(中郡橋で撮影)。今後何度かこの橋を渡ることになりそうだ。



次回、湖南市の常楽寺と長寿寺を訪ねます。紫香楽の宮5(常楽寺と長寿寺)へ続きます。


西応寺・廃少菩提寺周辺の地図(滋賀県湖南市)

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安養寺HPはこちら⇒http://www.tohozan-anyouji.com/

安養寺周辺の地図(滋賀県栗東市)

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2013年5月17日 (金)

滋賀ロケーションオフィス・映画エキストラ募集のお知らせ<2013/5/31(金)滋賀県大津市内・18歳~60代男性140名・作品名「幕末高校生」(仮)>

 


撮影でお世話になっている方から伺ったので、皆さまにご紹介させていただきます。
滋賀ロケーションオフィスが、5/31撮影の映画の男性エキストラを募集されています。
今回はサポーター以外の方の募集も広く受け付けます、とのことです。
ご関心のある方は、滋賀ロケーションオフィスまでお問い合せ下さい。

***

幕末高校生(仮)の5月31日(金)男性エキストラがまだまだ足りません!!
お時間の都合がつく方はぜひご協力お願いします!

作品名:「幕末高校生」(仮)
公開日:2014年春~夏公開予定
制作:フジテレビ・東映株式会社京都撮影所

◎江戸に進軍する官軍兵士、江戸の町人 役
・日時:2013年5月31日(金)7:00~18:00(予定)
 ※集合時間相談可
 雨天時延期:2013年6月1日(土)同時間帯
・撮影・集合場所:滋賀県大津市中心部
(車OK。詳細は滋賀ロケーションオフィスへお問い合わせ下さい)
・募集条件:18~60代男性(140名)
※足腰に不安の無い方(進軍のシーンです)
※ヒゲNG
※金髪など極端に明るい髪色の方NG
※高校生は学業優先にしてください。

◎募集締切と決定について
2013年5月26日(日)締切→28日(火)中に決定者に連絡。
万一応募多数の場合は選考させていただきますのでご了承ください。

詳細・お問合せ≫滋賀ロケーションオフィス
http://www.shiga-location.jp/news/index.php?id=285
TEL:077-528-3745/FAX:077-527-7329/E-mail:info@shiga-location.jp


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【葵祭前儀「献撰供御人行列」の写真】 京都・下鴨神社巡行編(2013年5月14日撮影) #kyoto #japan #photo

 


下鴨神社巡行開始(2013年献撰供御人行列-12)


下鴨神社の巫女さんを先頭に、雅楽を演奏する3人の神主さん、堅田の皆さんが続く。

葵祭の前日に、琵琶湖畔の本堅田から鮒を献上する神事「献撰供御人行列」である。

今回は、2013年度の様子の後編(下鴨神社巡行編)をお送りします。

下鴨神社糾の森巡行(2013年献撰供御人行列-13)


下鴨神社糾の森巡行。供御人行列の旗に描かれているのは、下鴨神社の御神紋。

「カモアオイ」(双葉葵、賀茂葵)という植物である。

下鴨神社の資料によれば、「あふ」は「会う」、「ひ」は神様の力を示す言葉だという。
大きな力に巡りあうという意味を、植物の「あふひ=葵」で示している。

下鴨神社の鳥居をくぐって神職のお出迎えを受ける(2013年献撰供御人行列-14)


糾の森を抜け鳥居をくぐると、緊張感が一気に高まる。神職のお出迎えを受ける。


下鴨神社の境内を運ばれていく献上品の鮒寿司(2013年献撰供御人行列-15)


献上品の鮒寿司。堅田からは鮒と鮒寿司が献上されている。

葵祭前に奉納されるのは、亀岡の栗、近江八幡の米、長良川の鮎、堅田の鮒だという。
行列を仕立てて奉納しているのは、現在のところ堅田だけだと、以前伺った事がある。

下鴨神社の楼門前、行列は粛々と進む(2013年献撰供御人行列-16)


下鴨神社の楼門前、行列は粛々と進む。


朱塗りの美しい楼門をくぐる(2013年献撰供御人行列-17)


下鴨神社は世界遺産になっている。朱塗りの美しい楼門をくぐる。


下鴨神社本殿にて、神事の始まる前(2013年献撰供御人行列-18)


本殿にて。堅田から運んできた鮒を神前に供えてお払いする儀式がこの後20分程度続く。


下鴨神社本殿にて、堅田から運んできた鮒を神前に供える様子(2013年献撰供御人行列-19)


本殿にて。堅田から運んできた鮒を、神職の方が神前にお供えする様子がこちらの写真。


本殿内部のあちこちに供えられている緑の葉は、カツラの枝である。
下鴨神社の紋であるカモアオイは小さな植物なので、葉の形が似ているカツラを使う。
供御人行列の参加者も、烏帽子や胸元など身に着けている。
葵祭当日も、カツラの枝を参加者が身に着けたり、下鴨神社の建物に飾ったりする。

楼門に「堅田供御人行列」の看板、カモアオイの紋が入った提灯(2013年献撰供御人行列-20)


楼門に「堅田供御人行列」の看板。カモアオイの紋が入った提灯を発見。

神事の間は皆が本殿へ行ってしまうので、その間に楼門や舞殿を撮影するようにしている。

下鴨神社本殿にて(2013年献撰供御人行列-21)


2013年度参加者の皆さん。今年は昨年以上の参加者で、盛大な行列となった。

この日は気温が25度を超え、7月上旬並みの気温となったが、無事終了。
今年もお付き合い頂き、本当にありがとうございました。

<お知らせ>
当日の模様がNHK WORLDで放送されます。(下鴨神社で取材がありました。)

詳細は下記を御覧下さい。

Core Kyoto(NHK WORLD) 2013/7/4放送予定
http://www3.nhk.or.jp/nhkworld/english/tv/corekyoto/

Core_kyoto20130704


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In the second half in the 11th century (Heian era last years) ,Katata was a territory in Shimogamo
Shrine in Kyoto, and "Mikuriya" was put under Kanda Shrine, and the obligation to which an attendant
table to Kamonoyashiro and seafood for an attendant festival are presented was carried.
As the reward, Katata got every rights and interests from fishery or the service of Lake Biwa
and built the greatest town around Lake Biwa in the Middle Ages.Every year, "Kensen Kugonin Gyoretsu"
procession which leaves the Kanda Shrine and sends crucian carps to Shimogamo Shrine is performed
gracefully with the traditional ritual on May 14,the day before Aoi Festival of Kyoto.


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【葵祭前儀「献撰供御人行列」の写真】 滋賀・堅田町内巡行編(2013年5月14日撮影) #shiga #otsu #japan #photo

 


堅田なぎさ苑前の琵琶湖(2013年献撰供御人行列-1)


葵祭の前日にあたる5月14日。
琵琶湖畔の町・本堅田から、京都の下鴨神社へ鮒を献上する神事が行われている。


目の前に琵琶湖が広がるこの風景は、準備会場である「堅田なぎさ苑前」で撮影。
近江八景「堅田の落雁」として知られる浮御堂は、この対岸の緑地(公園)の奥にある。

神田神社(2013年献撰供御人行列-2)


1090年(平安時代)、本堅田の神田神社(写真)は下鴨神社の御厨(みくりや)となった。

堅田は「御膳料」としての鮮魚を進上する代わりに国司によって所役を免除される。
下鴨神社の庇護の下、中世の堅田は琵琶湖最大の自治都市を築いたと伝えられている。

この歴史を現代にも伝えようと、1990年から献饌供御人行列が行われている。
(※堅田町内だけでなく下鴨神社へも巡行する現在のスタイルは1994年以降続けられている。)

堅田から同行し撮影させていただくのは、今年で5年目になる。
今回は2013年度の様子の前編をお送りします。

神田神社で道中の無事を祈願(2013年献撰供御人行列-3)


朝8時過ぎ、神田神社(滋賀県大津市本堅田1丁目)で道中の無事を祈願する一行。

神田神社を出発し、鮒をお払いするために伊豆神社へと向かう。

伊豆神社で氏子の皆さんの出迎え(2013年献撰供御人行列-4)


伊豆神社で氏子の皆さんの出迎えを受ける。


伊豆神社でお払いを受ける(2013年献撰供御人行列-5)


伊豆神社でお払いを受ける氏子の皆さん。羽織の両胸にカモアオイの紋が刺繍されている。


鮒を入れた木箱にも、カモアオイの紋(2013年献撰供御人行列-6)


鮒を入れた木箱にも、カモアオイの紋。神田神社・伊豆神社は下鴨神社と同じ紋を使う。
中世の琵琶湖では、この紋は特別な意味を持っていた。


下鴨神社の御厨(みくりや)となった当時、琵琶湖にはあるルールがあった。
琵琶湖を出航した船は、出港したのと同じ港に帰ってこなければならなかったのである。

下鴨神社は、堅田の漁民・船主に琵琶湖の漁業権と通行権を与えた。
堅田の者が乗っていれば、その船はどこに停泊してもいいという特権だった。

その後、カモアオイの紋(下鴨神社の紋)の旗をつけた船であれば、
堅田の者が乗船しているのと同じ扱いをするようになった。

湖上関を置き、上乗り料(手数料)を徴収することで、堅田は経済的・交通的特権を確立。
中世の堅田は、大阪の堺のような自治都市を築いたと言われている。

ところでなぜ鮒(ふな)なのか、以前、琵琶湖博物館の学芸員の方から伺ったことがある。
琵琶湖といえば堅田、堅田と言えば鮒というくらい、有名なものだったそうだ。
鮒は繁栄する堅田の象徴であり、献上品としても特別な意味を持っていた。

浮御堂に続く道を行く一行(2013年献撰供御人行列-7)


浮御堂に続く道を行く一行。この後、浮御堂前を左折して、堅田町内を1時間巡行する。


伊豆神社脇、土蔵と町屋のある町並み(2013年献撰供御人行列-8)


伊豆神社脇の道と交差する地点。本堅田1丁目は土蔵と町屋のある町並みが見られる。


参加者が烏帽子につけているのは、カツラの枝である。
神社の紋であるカモアオイは小さな植物なので、葉の形が似ているカツラの枝をつける。
葵祭当日も見られる光景である。

本町商店街通りの八百熊商店前(2013年献撰供御人行列-9)


本町商店街通りの八百熊商店前。お知り合いに会って、笑みがこぼれる皆さん。


出町通り(2013年献撰供御人行列-10)


出町通り。浮御堂へのバス通りになっていて、趣のある町並みが続く。


大道町の町屋前を行く(2013年献撰供御人行列-11)


浮御堂へ続く大道町。町屋が暮らしの中に残る美しい町並みの中を行く。

この後、湖族の郷資料館の前で貸切バスに乗り、大原・八瀬を経由して下鴨神社へ。
堅田の西は京都・大原で、山を越えれば下鴨神社の近くに出る。(地図参照)

約一時間後、下鴨神社に到着し、糾の森を巡行。下鴨神社本殿での神事に臨む。(次回)


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In the second half in the 11th century (Heian era last years) ,Katata was a territory in Shimogamo
Shrine in Kyoto, and "Mikuriya" was put under Kanda Shrine, and the obligation to which an attendant
table to Kamonoyashiro and seafood for an attendant festival are presented was carried.
As the reward, Katata got every rights and interests from fishery or the service of Lake Biwa
and built the greatest town around Lake Biwa in the Middle Ages.Every year, "Kensen Kugonin Gyoretsu"
procession which leaves the Kanda Shrine and sends crucian carps to Shimogamo Shrine is performed
gracefully with the traditional ritual on May 14,the day before Aoi Festival of Kyoto.


 

(2015/1/10追記)
新聞コラムが当ブログの文章を「引用」したのでは?と指摘されている件について~新聞社に申し入れを行いました

新聞社に類似箇所の具体的な指摘を行ったため、しばらくブログの現状(表現)を変更できませんでした。
2015年を迎えたのを機に、ブログ、YouTube(文章)とも該当箇所を訂正させていただきました。


訂正箇所は献饌供御人行列の開始年度です。

× この歴史を現代にも伝えようと、1994年から献饌供御人行列が行われている。

○ この歴史を現代にも伝えようと、1990年から献饌供御人行列が行われている。
(※堅田町内だけでなく下鴨神社へも巡行する現在のスタイルは1994年以降続けられている。)

なお訂正を行った記事は以下のとおりです。
(1)2009/5/20  臨時増刊号・献饌供御人行列の動画(2009年5月14日(木)撮影)
(2)2010/4/17  献饌供御人行列(01) 神事の日の朝、神田神社 ~Honkatata/本堅田 253
(3)2010/4/30  献饌供御人行列(14) カモアオイ(双葉葵、賀茂葵)の御神紋を掲げて ~Honkatata/本堅田 282-283
(4)2013/5/17   【葵祭前儀「献撰供御人行列」の写真】 滋賀・堅田町内巡行編(2013年5月14日撮影) #shiga #otsu #japan #photo
(5)2014/5/22   【葵祭前儀「献撰供御人行列」の写真】 滋賀・堅田町内巡行編(2014/5/14) #katata #shiga #japan #festival #photo
(6)2014/5/24   【葵祭前儀「献撰供御人行列」の写真】 京都・下鴨神社巡行編(2014/5/14) #kyoto #japan #festival #photo
(7)YouTube(動画の解説文):献撰供御人行列 2009年5月14日(木)


 

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2013年5月13日 (月)

紫香楽の宮3(かくれ里「金勝」。大野神社から金勝寺里坊、金胎寺から金勝寺へ)~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(20)

 


大野神社参道入り口


「草津から南下すると金勝という村に出る。小さな集落が点在する中を縫っていくと立派な神社が次々とあらわれ、名称は忘れたが、いずれも鎌倉か室町のすぐれた建築である」
(白洲正子『かくれ里』より)


この神社が、滋賀県栗東市荒張にある大野神社と、隣の春日神社だと考えられている。
大野神社は、金勝寺(こんしょうじ)西参道の起点で、かつては起点を示す丁石があった。
その丁石(五十丁石)は盗難に遭って現存していない。

金勝(こんぜ)の里については、白洲さんの代表作『かくれ里』に詳しい記述がある。
『かくれ里』に書かれたコースをたどって、大野神社から金勝寺まで山道を登ってみた。

大野神社楼門


大野神社楼門(重要文化財)。鎌倉時代初期のもので滋賀に現存する楼門として最古。


大野神社楼門(裏側)


楼門の奥に見える白い服の背中が、大野神社の禰宜(ねぎ)・大宮さんである。


実は最近の大野神社、ジャニーズ事務所のグループ「嵐」のファンの聖地になっている。
嵐のリーダー・大野智(さとし)さんの名字が、神社と同じ、という理由だけではない。
神職の大宮さんのお名前が、聡(さとし)さんなのだ。

同じ名前の神職さんまでいるので、コンサートチケットの予約にご利益があるに違いないと、
ファンの方が日本中、海外からも訪ねてくるようになったという(大宮さん談)。
大宮さんには、取材や参拝客の対応でお忙しい中を、神社について丁寧にご説明頂いた。

大野神社


大野神社の祭神は、学問の神様として有名な菅原道真公である。

社伝によれば、寛平9年(897)菅原道真が勅使として金勝寺を訪れた。
その際、大野神社で休憩したことが、道真公が祀られる機縁になったという。

道真公を祀る以前は、国神三神(出雲大神・恵比寿大神・八幡大神)が祭神だったらしい。
これらの三神は境内の摂社に祀られている。

大野神社はもともと金勝村の総社で、水の神様である龍神様が境内末社に祀られている。
金勝山を構成する龍王山の頂に小さな社があって、大野神社の龍神様を祀っている。

大野神社本殿


大野神社本殿。こちらは天満宮としての建造物である。


春日神社表門


春日神社表門(重要文化財)。慶長18年(1612)の墨書から室町時代中期の創建とされる。


春日神社は大野神社の隣にあり、現在は大野神社の御旅所で金勝寺の護法神である。
奈良の興福寺文書に「狛坂春日社」とあることから、もとは狛坂寺の護法神だったらしい。

前回書いたように、金勝寺の結界の外に造られたのが狛坂寺(廃寺)である。
春日神社はかつて金勝山上にあり、応永年間(1394~1428)に現在地に移転されたという。

名前から推察される通り、春日神社は、奈良との縁が深かったと言われている。
春日神社の総本社は、御存知の通り、奈良の春日大社である。
春日大社は藤原氏(貴族)の氏寺で、同じく藤原氏の氏寺である興福寺と関係が深い。

そういえば、金勝寺を中興した願安も興福寺の僧である。
そもそも金勝寺は、平城京の鬼門(北東)にあって、奈良の都の守護寺として建立された。
春日神社もまた、藤原氏を初めとする貴族や奈良の庇護の下にあったと考えられている。

一丁石


金勝山上にあった一丁石。現在は金勝寺の里坊に保管されている。

一丁石は頭部が三角になっていて、サンスクリット語の「ア」と一町が刻まれている。

金胎寺


金胎寺(こんたいじ)。創建年代不祥だが、金勝寺二十五別院の一つ(鳴谷西寺)である。

現在は浄土宗の寺で、53段の石段とモミジが美しい。(内部拝観は予約が必要。)

『かくれ里』に出てくる金胎寺のご住職が、白州さんを金勝寺まで案内した方である。
今回はお会いできなかったが、今もご住職をされていてご健在だと、地元の方から伺った。
当時、白州さんがご住職と登った道が西参道だという。現在は西並木林道になっている。

石造不動明王


石造不動明王(せきぞうふどうみょうおう)。金勝寺への道標のひとつで、丁石と呼ばれる。

金勝寺の丁石は殆どが盗難に遭っており、現存するもののひとつ。

ちなみに白州さんが御覧になった「下乗石(げじょうせき)」という丁石も盗難に遭っている。
それを知って、なんともいえない残念な気持ちになった。

「山門の手前の草むらに、「下乗」と書いた美しい板碑が立ち、さすが石の近江だけあって、
こんな路傍にもみごとな石美術が残っていると思う。」(『かくれ里』より)

金勝寺へと登る林道


林道をいくつか越えて、金勝寺へと登っていく。上りがややきつい。

最後の上り(写真の坂道)を終えると、右の道が馬頭観音堂、左が金勝寺に続いていた。
馬頭観音堂からの眺めが素晴らしいというので、少し寄り道してみる。

馬頭観音堂


馬頭観音堂。普段は非公開。馬頭観音像は先代住職のときに盗難に遭ったという。

お寺を非公開にしたり、セキュリティを厳重にしてしまう気持ちもよく分かる。

馬頭観音堂の絵馬


馬頭観音堂の馬形絵馬。地元の栗東市は、JRAのトレーニングセンターがある「馬の町」。

栗東市民の6人に1人は、競馬の関係者(調教師や騎手とその家族)だと伺った。
この絵馬は金勝寺で扱っているとのこと。ご関心のある方はぜひどうぞ。

馬頭観音堂駐車場からの眺め


馬頭観音堂駐車場からの眺め。右に見えているのが三上山(標高432m)である。

いつも見上げている三上山が、眼下にある。見え方が違うので、新鮮な感覚だった。

金勝寺正面参道と仁王門


金勝山(こんぜやま)の頂上近くにある寺、金勝寺(こんしょうじ)。

平城京の鬼門(北東)に位置し、奈良の都(平城京)を守護するために建てられた寺である。
金勝寺の山続きが信楽(甲賀市信楽町)で、聖武天皇が作った紫香楽宮の跡がある。

天平5年(733)、聖武天皇の勅願により、良弁(ろうべん)によって金勝寺は開かれた。
中世に湖南仏教の中心として栄え、金胎寺・安養寺など二十五の別院があったと言われる。

金勝寺は興福寺と同じ法相宗の寺だったが、平安時代後期には天台宗の寺になっている。
対岸の比叡山の勢力が入ってきて、金勝寺の勢力は失われてしまったという事らしい。

後ろ盾の奈良は、治承4年12月28日(1181年1月15日)に平重衡の南都焼討に遭っている。
このとき、東大寺や興福寺は壊滅的な打撃を受けたと言われている。
金勝寺の勢力の衰退には、そのような歴史的な背景もあったのではないだろうか。
東大寺でさえ、講堂、食堂、東西の七重塔などは中世以降も再建されることはなかった。

金勝寺本堂(再建に至らず、約400年前の仮堂の姿)


本堂は約400年前の仮堂の姿。徳川家康に請願したが、再建までいたらなかったという。

檀家を持たない勅願寺ゆえに、歴代のご住職には数々のご苦労があったようだ。

だが、境内の凛とした佇まいは、他には真似ができない素晴らしいものがある。
本尊をはじめとする5体の仏像(すべて平安時代の作)が、重要文化財となっている。
中でも、本堂の手前「二月堂」にある、「ぐんだりさん」こと軍荼利明王立像が見事だ。

二月堂といえば奈良東大寺だが、「金勝寺」を開いた良弁は、東大寺も開いている。
東大寺の起源は天平5年(733)、若草山麓に創建された「金鐘寺」であるというから驚きだ。
聖武天皇は、信楽に造ろうとした大仏を、東大寺に造っているという経緯もある。

木造仁王立像(金勝寺仁王門)


「名前や伝承を、方々持ち歩くのは日本人の習性で、この場合も、大仏や良弁と一緒に、奈良まで運ばれて行ったのではないか。」


「(東大寺の)三月堂は、いわば金勝山の再生であり、奈良の東山を、金勝山に見立てたぐらいのことは言えると思う。」白州さんは『近江山河抄』の中で、持論をそう述べている。

私自身、金勝寺とその文化圏を歩いてみて、ここは奈良の文化圏だとつくづく感じた。
引き続き良弁の足跡を追って、栗東市の安養寺と、湖南市の西応寺へ向かった。


葵祭前儀「献撰供御人行列」(5/14近江の堅田から京都の下鴨神社へ鮒を届ける祭事)の模様を
お届けした後、紫香楽の宮4(安養寺と西応寺)へ続く予定です。


金勝山の地図[PDF]
金勝山ハイキングコース情報(栗東市観光物産協会)


続きを読む "紫香楽の宮3(かくれ里「金勝」。大野神社から金勝寺里坊、金胎寺から金勝寺へ)~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(20)" »

2013年5月11日 (土)

紫香楽の宮2(奈良平城京の鬼門・金勝寺と狛坂磨崖仏/知られざる金勝の石仏たち)~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(19)

 


金勝寺正面参道と仁王門



滋賀県栗東市の山中に、奈良の都を守護するために建てられた寺がある。

平城京の鬼門(北東)に位置しており、寺は奈良を向いて建てられている。
その事は、殆ど知られていない。

この地は「西の比叡山、東の金勝寺(こんしょうじ)」と言われた湖南仏教の中心地だった。
比叡山が京都の鬼門に当たり、京都を守護するのと対照的である。

木造仁王立像(金勝寺仁王門)



天平5年(733)、聖武天皇の勅願により、良弁(ろうべん)によって金勝寺は開かれた。

良弁は近江出身で、奈良の大仏を造営した功績で東大寺の初代別当となった僧である。

金勝寺と奈良とのつながりは深く、8世紀中頃までに法相宗興福寺の仏教道場となった。
弘仁6年(815)、嵯峨天皇の勅願により、興福寺の僧・願安(がんあん)が伽藍を整えた。
その後、比叡山の勢力が入ってきて、平安時代後期には天台宗の寺になっている。

金勝寺の文化圏は、大津市から栗東市、湖南市、甲賀市と広範囲に及ぶ。
金勝寺、石山寺、常楽寺、長寿寺など、近江南部には良弁によって開かれた寺院が多い。
金勝寺の山続きに信楽(甲賀市信楽町)があって、聖武天皇が作った紫香楽宮の跡がある。
聖武天皇は、信楽に大仏を造ろうとして断念し、奈良に大仏を造っている(東大寺大仏殿)。

金勝寺仁王門



金勝寺とその周辺には、奈良や京都のような、きらびやかなものは残っていない。

現在私たちに見えているのは、寺と石仏が点在する状態で、つながりが見えにくい。
だから、地理的・歴史的なものを理解しないと、本当の金勝寺の姿は伝わらない。

白州正子さんは、そのあたりを含めて、「近江は日本の楽屋裏」と評しているように感じる。

どうすれば伝わるのか。構成に悩んで、金勝寺には麓から徒歩で二度訪ねた。
その後、良弁ゆかりの寺を四つ訪ねてみた(西応寺、安養寺、常楽寺、長寿寺)。
構成に悩んだのは、この地が文化財の盗難に多く逢っていることも影響している。

金勝寺本堂(再建に至らず、約400年前の仮堂の姿)



紫香楽の宮1(石山寺) で書いたが、平城京造営に必要な木材は近江から運び出された。

木を切り出した田上山(たなかみやま)は禿山になって、明治以降も植林が続けられている。
その田上山の山続きにあるのが、金勝寺のある金勝山(こんぜやま)である。

金勝山は阿星山(あぼしやま)・龍王山(りゅおうざん)・鶏冠山(けいかんざん)の総称で、
今回ご紹介する磨崖仏や石仏は、龍王山周辺に点在するものを2日かけて訪ね歩いた。

ご案内いただいた栗東市の皆さまに、深く感謝申し上げます。

狛坂磨崖仏,Komasaka Stone Buddha (Ritto city,Shiga prefecture,Japan)



狛坂磨崖仏(国史跡)。金勝山中の狛坂寺跡にあり、初期統一新羅の作風を持つ。

制作年代不明で、奈良時代後期の作とも平安時代から鎌倉時代にかけての作とも言われる。

高さ6.3m・幅4.5mの花崗岩の磨崖面に、如来坐像を中尊とした3尊が刻まれている。
像高は3m。周囲には12(9+3)体の仏像が半肉彫りされている。
狛坂(こまさか)は渡来人に由来する地名といわれ、慶州の磨崖仏と近似が指摘されている。

このエキゾチックで美しい仏様には、上桐生バス停から山道を2時間かけて出会えた。

先日、金胎寺というお寺で、白州さんもこの磨崖仏を見るために同じ道を歩いたと聞いた。
白州さんは金胎寺から歩いて金勝寺を訪問した後、日を改めて狛坂磨崖仏を訪ねたという。
このあたりは『近江山河抄』というより、『かくれ里』に関するよもやま話になってくる。

狛坂寺跡の石仏



狛坂寺跡。女人禁制だった金勝寺の結界の外に建立されたのが狛坂寺だった。

狛坂寺縁起によれば、嵯峨天皇の皇后が託した千手観音像を願安が安置したのに始まる。

願安(がんあん)は奈良の興福寺の僧で、金勝寺の中興の祖と言われる。
弘仁6年(815)、嵯峨天皇の勅願により、金勝寺を寺として整えたのが願安だった。

金勝寺が官営の寺として栄えたのに対し、狛坂寺は善男善女の参詣で栄えたという。
永正12年(1505)に炎上するも、天保10年(1839)に再建。
明治維新のときに本尊が盗難に遭い、所有山林が上地となったことも相まって廃寺になった。
現在は石垣が残るのみ。

以下はすべて、白州さんの『近江山河抄』には登場しない石仏。

小屋谷観音(こやがたにかんのん)



小屋谷観音(こやがたにかんのん)。金勝寺の南、旧正面参道沿いの山中にある。


花崗岩の巨石に彫られた如来坐像で、鎌倉時代に彫られたという。座高は100.5cm。
石仏が天を仰いだ格好になっていて、写真の右側(石仏の右手)が上部になる。
そのため本来はもっと山の上にあって、旧正面参道の守り神だったと考えられている。
この写真は分かりやすいように、横倒しになっている石仏を本来の姿で撮影している。

旧正面参道は奈良の方向を向いており、信楽に通じていたという。
現在の正面参道はとても短いものだが、旧正面参道の入り口は良弁杉の前にある。
現在はやや荒れた山道になっており、地元の方の案内がないと行くのは困難。
小屋谷の先で栗東信楽線(車道)に突き当たるため、道の先が続いているかは不明。

泣き地蔵



泣き地蔵。高さ2.8m・幅4.4mの花崗岩に、釈迦、薬師、阿弥陀如来3尊が刻まれている。

昔は大変な思いをして参拝したのだろう。泣きながら参拝したというのが名前の由来との事。
場所は金勝山県民の森のそばだが、こちらも地元の方の案内がないと行くのは困難。

茶沸観音



茶沸観音。金勝寺へ続く尾根筋にある、自然石をくりぬいた阿弥陀如来像。

昔ここで参拝者に湯茶の接待が行なわれていたのが、名前の由来だという。
鎌倉時代の作と言われている、かわいらしい観音様である。ハイキングコースの途中にある。

重ね岩と如来坐像



重ね岩。金勝寺へ続く尾根筋にある、花崗岩が重なっている奇岩(写真右)。

岩の表面(写真左)に、線刻の二体の如来坐像が掘られている。室町時代の作と言われる。

金勝寺傍示石



金勝寺傍示石。「寸ぐ金勝寺是より十五丁 左大とり志がらきえ」と刻まれた道標。

ここは大鳥居(地名)・信楽へ至る信楽道の峠で、金勝寺へ上る東参道と交差する場所だった。

傍示石は江戸時代末期のものと言われていて、上部に地蔵坐像が浮き彫りになっている。
道の駅から林道を金勝寺方向へ入ってすぐのところにあり、この中では一番行きやすい。

金勝寺正面参道と仁王門(遠景)



金勝寺正面参道と仁王門。

次回は白洲さんの『かくれ里』に書かれたコースをたどって、再び金勝寺へ。


紫香楽の宮3(大野神社、金勝寺里坊、金胎寺から金勝寺へ)へ続きます。


金勝山の地図[PDF]
金勝山ハイキングコース情報(栗東市観光物産協会)


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2013年5月 7日 (火)

【葵祭前儀「献撰供御人行列」2013年度参加者募集】葵祭前日(5/14)、滋賀から下鴨神社へ、琵琶湖の鮒を納めに行く行事です。(写真ブログKatata/堅田より) #shiga #otsu #photo

 


◆献饌供御人行列(けんせん くごにん ぎょうれつ)
葵祭の前日(5月14日)、琵琶湖畔の町・本堅田から、京都の下鴨神社へ、
鮒(ふな)と鮒寿司を献上する神事です。
近年は”葵祭「前儀」”として、葵祭の公式行事になっています。

詳細は、YouTube動画のiボタン(画面の一番右)をクリックして下さい。解説が出ます。↓


◆どなたでも参加できます。参加費は無料です。
衣装準備の都合上、前日までに湖族の郷資料館までご連絡ください。
お問い合わせ・参加申し込み:湖族の郷資料館(電話077-574-1685)

◆5月14日の日程
1.堅田町内巡行:午前8時から9時
神田神社→旧西浦の小路→伊豆神社→港橋→本町商店街通り→出町通り→みくりや参道→湖族の郷資料館(バスにて下鴨神社へ)
2.下鴨神社糺の森参道巡行:午前10時から11時

(ポスター提供:堅田湖族の郷事務局様)
Kugonin2013


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