逢坂越6(三井寺)~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(12)
三井寺の名は、天智・天武・持統天皇の産湯に使われた霊泉「御井(みい)」に由来する。
閼伽井屋(あかいや)は、霊泉を護る幅屋で、金堂の脇にある。
中をのぞくと、薄暗い中に、ごぼっ、ごぼっと泉が沸く音がした。
金堂と閼伽井屋(右)。金堂は1599年(桃山時代)、閼伽井屋は1600年の建築。
天智天皇ゆかりの堂前灯籠が、金堂の前にあった。
大化の改新で蘇我氏を滅ぼした天智天皇が、罪滅ぼしのために設置した灯籠だという。
意識してみれば、三井寺と天智天皇のつながりは深い。
三井寺は、天智天皇の孫にあたる与多王が大友皇子の菩提寺として建立した寺である。
与多王の父が壬申の乱で亡くなった大友皇子であることは、前回書いた。
正式名は園城寺で、与多王が田園城邑を投じ天武天皇が「園城」と名づけたことによる。
三井寺金堂(本堂、国宝)。本尊は天智天皇が信仰していた弥勒仏で、秘仏である。
建築は、豊臣秀吉の妻・北政所により1599年に再建されたものだという。
三井寺は、比叡山延暦寺との抗争で再三火事にあい、消失している。
そのたびに豊臣氏や徳川氏によって再興され、今日に至っている。
境内でみかけた石仏。こちらも古いもののようだ。
近江八景「三井の晩鐘」で知られる梵鐘。鐘の音は日本三銘鐘のひとつに数えられる。
除夜の鐘以外の普段のときでも、お寺の人に申し出れば、鐘をつくことが出来る(有料)。
こちらはまた別の梵鐘で、奈良時代のもの。弁慶の引摺り鐘と呼ばれる。
三上山のムカデを退治した俵藤太が、竜宮城から礼にもらった鐘を寄進したという伝承がある。
その後、比叡山延暦寺との争いのとき、弁慶が奪って比叡山に引摺り持ち帰ったという。
鐘を撞くと「イノーイノー」(帰りたい)と響いたので、怒った弁慶は鐘を谷底に捨てたと伝わる。
仏教の経典の版木を収めた、八角形の回転書架。一切経蔵という建物の内部にある。
建物は室町時代初期の建築で、1602年に毛利輝元により山口県の国清寺から移築された。
版木は高麗版の一切経(大蔵経)だという。
それを聞いて思い出したのは海印寺大蔵経板殿のことだった。
海印寺にも同じ時代の版木が収められた建物があって、そちらは世界遺産になっている。
これだけの版木を作った昔の人の集中力に、ただただ圧倒された。
毘沙門堂。1616年の建築で、極彩色の彩色が美しい。
園城寺五別所のひとつだった尾蔵寺の境内南勝坊にあったのを、1909年に移したという。
毘沙門堂の脇の長い石段を登れば、西国十四番札所観音堂がある。
白州さんは雨の日にひとり境内を歩いて、観音堂を探して反対側へ行ってしまったらしい。
「それは長い道のりだった。」と書いておられるが、確かに三井寺は広い。
仁王門から入って、最後に観音堂へ行くコースが一番分かりやすいかもしれない。
(ただし、私は撮影の関係で逆遍路のように歩いています。)
観音堂(1689年再建)。西国三十三所観音霊場の十四番札所である。
琵琶湖を眺めるには、石段を登ってさらに上にあがるのがお勧め。
高台から見た、西国十四番札所の境内と琵琶湖の眺め。
観月舞台(1849年建立)が写っている。
眼下の桜は、三井寺境内の桜と、琵琶湖疏水の桜である。
観音堂境内の石段から長等神社の横へ降りることができる。小関越はここへ通じている。
白州さんは分からずに帰ったようで、このあたりで育った者としてはとても残念だ。
確かに絵馬堂の脇の石段は、木々に隠れて分かりにくい。
関蝉丸神社といい、弘文天皇陵や小関越といい、途中に道案内が設置されることを切に願う。
長等神社の前にある民芸大津絵作房。上側の道が小関越に通じている。
下側の道が、長等公園(桜の名所)に通じている。
ちなみに、長等神社の参道を下っていくと、徒歩3分ほどで大津絵の店がある。
大津絵はとてもユーモラスな仏画・民俗絵で、鬼の寒念仏が有名。
私は子どものころから藤娘が好きで、大人の女性=藤娘というイメージがある。
大津絵の店から帰路は、三尾神社と琵琶湖疏水の横を通れば三井寺の駐車場まですぐ。
三井寺界隈へお越しの際は、こちらもぜひお立ち寄り下さい。
逢坂越7(小関越と堅田源兵衛の伝承)へ続きます。
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