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2013年4月 6日 (土)

大津の京5(壬申の乱と瀬田の唐橋、弘文天皇陵、そして三井寺の桜) ~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(11)

瀬田の唐橋

672年、大友皇子は壬申の乱に敗れる。最終決戦の舞台が、瀬田の唐橋だった。

瀬田の唐橋は、琵琶湖から唯一流れ出る川(瀬田川)に架かる橋である。
東から京都に入るときの重要地点で、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われた。

瀬田の唐橋は、近江大津宮遷都の時に本格的に架橋されたと考えられている。
当時は、現在の位置より南の龍王社・雲住寺を東端としていたらしい。
(参考:ウィキペディア「壬申の乱」「瀬田の唐橋」)

雲住寺といえば、俵藤太のムカデ退治伝説に縁のある寺で、イベントで伺ったことがある。
ご住職の奥様が見せてくれたのが、瀬田川を真っ赤に染める夕日と唐橋の写真だった。
今回、壬申の乱のことを書きながら、真っ赤な夕日の写真を思い出していた。

瀬田橋の戦いで大敗した翌日、25歳の大友皇子は自決し、壬申の乱は終わる。
近江大津宮は5年余りで滅亡し、都は再び飛鳥(奈良)に移された。

1870年(明治3)になって、大友皇子は天皇として認められ、弘文天皇と追号された。
死地とされた長等山麓の塚が、弘文天皇陵となっている。

弘文天皇陵道標

駅から弘文天皇陵への道中には道案内が殆どない。道標になるものを掲載します。

京阪電車の別所駅を下りて、横断歩道を渡って右へ進む。
市役所の建物に沿って歩くと、左手に道標(↑写真)があるので、左折して坂道を登る。

弘文天皇陵の案内板

弘文天皇陵の案内板。崇福寺跡(前回)とさほど離れていないのがおわかり頂けると思う。
↑この案内板のある場所から、左へ進む。

新羅善神堂へ続く道

すぐに道が分かれるが、↑この道は回り道なのでご注意を。
新羅善神堂へ続く道だが、新羅善神堂を経由して天皇陵の前に出ることは可能。

弘文天皇陵へ続く道

↑こちらの道を行くと、左手すぐに弘文天皇陵がある。ちょうど市役所の裏になる。

弘文天皇陵へ続く道端の石仏

思いがけず、道端で出会った石仏。実は、前の写真の右にも小さく写っている。
近江を歩くと、思いのほか石仏が多いことを実感する。

弘文天皇長等山前陵

弘文天皇長等山前陵(大津市御陵町)。

先代の天智天皇の死から壬申の乱まで、その治世は約半年と短かかった。

鞍掛神社のところで書いたが、大友皇子(弘文天皇)が最期を迎えた場所は分かっていない。
大津市内だけでも4ヶ所の伝承があるという。

日本で始めて「五言の詩」を作ったことから、学問の神として崇敬されてきた人物である。
その若すぎる死を悼んだ人が、たくさんいたということだろう。

弘文天皇長等山前陵の入り口

弘文天皇長等山前陵の入り口。
このすぐ後ろに、道を挟んで建っているものに、本当に驚いた。

新羅善神堂の大鳥居

大きい。かなり大きな鳥居である。

新羅善神堂付近の森

しかも、辺り一帯には神秘的な森が広がっている。

新羅善神堂

石垣の向こうにあったのは、新羅善神堂(国宝)だった。

新羅善神堂は、三井寺の鎮守神である新羅明神を祀る。

新羅明神は、唐に留学した円珍(智招大師)が帰国する際、船中に現れた神とされる。
円珍が請来した経典法具を三井寺に保管したのも、新羅明神の夢告によるとされている。

天智天皇の命で三井寺の原形を造ったのが、渡来人の子孫である大友氏だった。
大友氏は、大津宮周辺の氏族で、大友皇子の有力な支援者だったと考えられている。

白州さんは、近江における古代の神と渡来人の影響について繰り返し指摘されている。
新羅明神像についても、次のように述べている。
「異国風な感じのする珍しい神像で、帰化人が奉じた神であったことは疑えない。」

新羅善神堂のすぐそばに、弘文天皇陵があるというのは、偶然の一致だろうか。

新羅善神堂付近の森(東海自然歩道標識)

新羅善神堂の場所は、三井寺から北へ500mほどしか離れていない。

長等山(三井寺)から見た弘文天皇陵の方向(満開の桜とともに)

長等山(三井寺)から見た、弘文天皇陵の方向。(2013年4月4日撮影)
ちょうどこの日、桜が満開になった。(以下すべて同日撮影)

長等山から見た三井寺と春の琵琶湖

視線を東のほうにやると、三井寺の境内があって、向こうに、琵琶湖が見える。

「逢坂山を越えて来て望む湖水は、心がのびる思いがする。」と白洲さんは書いている。
『近江山河抄』は1974年出版の紀行文だが、そのときの風景に少しでも近づけただろうか。

唐院へ続く道、満開の桜と石灯籠(三井寺)

三井寺といえば、桜の名所。大友皇子の子である与多王が建立した寺でもある。

正式名は園城寺で、与多王が自らの荘園を投じ、天武天皇が「園城」と名づけたことによる。
大友皇子の遺族が天武天皇に願い出て菩提を弔うために建立した寺、それが三井寺である。

三井寺の三重塔と桜

三井寺の三重塔。桜の花と新緑がまぶしい。

逢坂越6(三井寺)へ続きます。


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