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2013年4月

2013年4月28日 (日)

特別編:大津における芭蕉の発句、89句すべてを掲載しています~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(18)

 

 


芭蕉は40代以降、たびたび大津に滞在し、大津で89句の句を詠んでいます。
89句というのは、芭蕉の全発句の約1割にあたる数です。

幻住庵(大津市国分)に滞在したのは、『奥の細道』の旅の翌年。春に約4ヶ月滞在しました。
このときの滞在記が、芭蕉の俳諧七部集のひとつ『猿蓑』に収められている『幻住庵記』です。

大津を愛した芭蕉は、義仲寺(大津市馬場)に庵を結び(無名庵)、たびたび滞在しました。
その亡骸は、遺言により、義仲寺境内にある木曽義仲の墓の隣に葬られています。

凡例:
数字 通し番号(01-89)
【】  句が読まれた場所
[ ]   句碑がある場所(大津市内)

 

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逢坂越8(松尾芭蕉と幻住庵)~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(17)

 


国分山(幻住庵に続く山道)



『奥の細道』の旅の翌年。芭蕉は国分山の「幻住庵」に約4ヶ月滞在し、旅の疲れを癒した。


「石山の奥、岩間のうしろに山あり、国分山といふ。」という出だしで『幻住庵記』は始まる。
国分山は大津市の南部にあり、石山寺からそれほど離れていない。

芭蕉は40代以降、たびたび大津に滞在し、大津で89句の句を詠んだ。
89句というのは、芭蕉の全発句の約1割にあたる大変な数である。

とくとくの清水(案内板)


とくとくの清水



山道を数分登ったところに、芭蕉が炊事に使ったという「とくとくの清水」がある。


幻住庵跡の碑と桜の花



国分の氏神を祀る「近津尾神社」の前には、幻住庵跡の碑が建つ。

芭蕉がここで暮らしたのは、1690年(元禄3)4月6日から7月23日までの約四ヶ月間だった。
門人である曲水の勧めで、幻住老人(故人)が暮らした庵で過ごすことになる。

曲水は、本名を菅沼修理定常という膳所藩士で、芭蕉からの信望が厚かった。
幻住は曲水の伯父にあたる人物で、菅沼修理定知という隠者である。
『幻住庵記』には異本がいくつかあり、幻住老人は8年前に亡くなったと書く稿もある。

先ず頼む 椎の木もあり 夏木立(句碑)



『幻住庵記』を締めくくる一句。「先ず頼む 椎(しい)の木もあり 夏木立」

近津尾神社の社務所の前に、この句碑がある。

伊賀上野生まれの芭蕉は、近江ののびやかな自然を愛したと言われる。
幻住庵を出た後には、膳所の義仲寺(大津市馬場)に庵を結んだ(無名庵)。
その後も膳所にたびたび滞在し、幻住庵を懐かしむ手紙を曲水に書いている。

大津には門弟も多く、芭蕉にとっては第二のふるさとだったと言われている。
大阪で亡くなったとき、亡骸は淀川(瀬田川)経由で運ばれ、翌日に義仲寺に着いている。
さらに次の日の夜、遺言通り、義仲寺境内(木曽義仲の墓の隣)に埋葬された。

「木曽殿と背中合わせの寒さかな」(島崎又玄)

幻住庵の門



1991年(平成3)、幻住庵跡のそばに、大津市によって幻住庵が新しく建てられた。

竹下内閣のときの、ふるさと創生一億円事業によるものである。

門の奥に藁葺き屋根の庵があり、地元の国分(こくぶ)の方々が輪番で詰めている。
訪ねた日はあいにくの天気となってしまい、当番の方にお話だけ伺った。

山の中にあるので藁葺き屋根の傷みが激しく、しょっちゅう葺き替えをする必要があること。
春は3月後半のアセビの花に始まり、4月に桜、コバノミツバツツジなどが咲くこと。
幻住庵の下には東海自然歩道が通っていて、2時間で醍醐(京都)まで歩いていけること。
正面の伽藍山の奥が石山寺で、瀬田川の向こうに近江の国府跡があるなど、教えて頂く。

撮影した4月10日頃は、ちょうどコバノミツバツツジが咲き始めて、桜がまだ残っていた。
遠くの山は見えなかったが、ビルの間を東海道新幹線が走っていくのがよく見えた。

幻住庵を訪ねる人は、俳句の愛好者の方が多いとも伺った。
そこで次回は特別編として、大津における芭蕉の発句89句すべてを掲載します。


幻住庵(2013年4月現在の情報)

開館時間/9:30~16:30
休館日/月曜(祝日の場合翌日)
入館料/無料
アクセス/JR石山駅・京阪石山駅からバス国分団地行き13分、幻住庵下車。
または京阪石山寺駅から徒歩30分。駐車場あり。


「特別編:大津における芭蕉の発句、89句すべてを掲載」へ続きます。



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2013年4月25日 (木)

紫香楽の宮1(瀬田川と石山寺)~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(16)

 


石山寺の月見亭と桜



石山寺の月見亭。近江八景のひとつ「石山の秋月」の舞台である。(2013年4月5日撮影)


眼下に流れる春の瀬田川(石山寺の月見亭から)



眼下に流れる瀬田川。琵琶湖から流れる唯一の川で、下流で宇治川、淀川と名を変える。


正倉院文書には、瀬田川と石山の話が登場する。
奈良に平城京が作られたとき、近江の田上山(たなかみやま)の木を切り、材木にした。
集められた木材は、瀬田川(宇治川)を経由して、奈良まで運ばれた。
そのとき、集積拠点として石山に役所を置いたという。当時は石山院と呼ばれていた。
石山寺縁起絵巻によれば、これが石山寺の起源だという。

石山寺境内と硅灰石の奇岩



石山寺を建立したのは、奈良の大仏を作り東大寺を開いた僧・良弁(ろうべん)である。


聖武天皇は良弁に命じて、大仏造立に必要な黄金が得られるよう、吉野の金峯山に祈らせた。
夢のお告げにしたがって石山を訪れた良弁は、比良明神の化身である老人に導かれる。
巨大な岩の上に聖徳太子念持仏の6寸の金銅如意輪観音像を安置し、草庵を建てたという。

2年後に陸奥国から黄金が産出されて大仏造立のめどがつき、元号を天平勝宝と改めた。
如意輪観音像が岩山から離れなくなったため、やむなく、観音像を覆うように堂を建てた。
それが石山寺の草創だと伝えられている。(参考:ウィキペディア)

石山寺は西国三十三ヶ所観音霊場第13番札所で、真言宗の寺である。
本堂は硅灰石の上に建ち、これが寺名(石山)の由来となっている。

石山寺多宝塔と硅灰石、良弁杖桜


石山寺多宝塔と良弁杖桜



多宝塔(国宝)と硅灰石(天然記念物)の奇岩。良弁杖桜と呼ばれる桜が咲いていた。

石山寺の多宝塔は、建久五年(1194)源頼朝が建立したもので、日本最古の多宝塔である。

良弁杖桜由来



「石山、石部、岩根など、良弁には石と縁のある地名がつきまとうが、彼が山岳信仰の行者で
あったこと、土木の親方であったこととも無関係ではあるまい。」(近江山河抄より)


私がはっとさせられたのは、上記の一節だった。

調べてみると、良弁は近江南部(湖南)に数々の寺を建立していた。
瀬田川の向こうにある、金勝寺、常楽寺(湖南三山)、長寿寺(湖南三山)などなど。
金勝寺の山続きに信楽の地があって、聖武天皇が作った紫香楽宮の跡がある。

聖武天皇は最初、信楽に大仏をつくろうとして、その後奈良に大仏を作ったことは知っていた。
奈良の三月堂(東大寺法華堂)は、「いわば金勝寺の再生」だと白洲正子さんは書く。
それなら石山から出発して、信楽まで良弁の足跡をたどってみようと思った。

良弁は渡来人(近江の百済氏)出身で、野良作業の母が目を離した隙に鷲にさらわれたという。
奈良の二月堂前の杉の木に引っかかっているの助けられ、僧として育てられたと言われる。





木立の間からのぞく、石山寺本堂。石段を登って本堂に参拝する。






石山寺本堂(裏側より撮影)。コバノミツバツツジがひっそりと咲いていた。


本堂は総桧皮葺の立派な建物で、近江(滋賀県内)で最も古い建物だという。
内陣は1096年(平安中期)の再建で、外陣は1602年に淀君により建て替えられている。

紫式部像と源氏の間(石山寺本堂)



紫式部は『源氏物語』を石山寺で書いたと言われ、本堂に「源氏の間」がある。


石山寺縁起絵巻によれば、10世紀初めより宇多天皇の行幸がたびたびあった。
そして11世紀になると、末法思想を背景に、皇族や貴族の石山寺参拝が大流行したという。
紫式部は石山寺から月を見て、『源氏物語』の須磨や明石の描写の参考にしたと伝わる。

御影堂と石灯籠(石山寺)



御影堂(重文)と石灯籠。


石山寺の宝篋印塔



毘沙門堂の前にある宝篋印塔(ほういんきょうとう)。


周囲四方の石の下に、四国八十八ヶ所霊場の土が埋めてある。
これを廻ると八十八ヶ所を巡る同じ功徳を得るという。

それならと、踏み忘れがないよう念を押して、何回かぐるぐる回ってみた。

石山寺のめかくし石(平安時代の石塔)



ガイドブックにも書かれていないが、気になったのが「めかくし石」(平安時代の石塔)。

見た瞬間、逢坂山のふもとで見た、長安寺の牛塔を思い出した。

案内板には、「目かくししてこの石を完全に抱けば諸願成就と云う」とある。
境内の片隅にあるせいか、誰も足を止めず、目かくしして抱いている人もいなかった。
写真ではかわいらしく見えるが、大人2人でようやく抱えられるくらいの大きさがあった。

大友皇子を祀る若宮


大友皇子を祀る若宮(案内板)



大友皇子を祀る若宮。石山寺でも、大友皇子(弘文天皇)の埋葬伝説に出会う。


鞍掛神社の伝説の項で書いたが、大友皇子最期の地は分かっていない。
壬申の乱で大友皇子が敗れた地が、瀬田の唐橋である。
唐橋の周辺には、大友皇子を祀る神社(御霊神社)が3つあったりと、大友皇子縁の地が多い。
石山寺は唐橋に近い。だからこの地にも、大友皇子の埋葬伝説があるのだろう。

石山寺参道と満開の桜、着物姿の女性



石山寺は花の寺としても知られ、梅園や庭園(無憂園)がある。参道の桜が見事だった。


一番丸と石山港(瀬田川リバークルーズ)



石山寺の前にある石山港。瀬田川リバークルーズの外輪汽船「一番丸」が停泊中だった。


明治2年(1869)に就航した蒸気船「一番丸」を、今堅田の杢兵衛造船所で復元した船である。
瀬田川を遊覧し、瀬田の唐橋・近江大橋の下をくぐる観光船で、土日祝中心に運行している。
予約は不要で、弁当の持込やペット可(ただし2Fデッキでゲージに入れて)とのこと。
町歩きに向いている船だと知り、次の機会に一度乗ってみようと思っている。

主催されているのは、今堅田のレークウエスト観光(杢兵衛造船所隣)。
大津を歩くと意外なところで堅田に出会うのがうれしい。

石山寺駅近くで出会った石仏



京阪電車の石山寺駅近くで出会った石仏。石垣の中を掘ったお堂の中に安置されていた。


面長の愛らしい仏様である。石山寺の無憂園の奥で見た33体の石仏と、雰囲気が似ていた。
石のお堂といい、優しい雰囲気といい、石山寺界隈らしい仏様だと思った。

瀬田川の川べりにて(京阪電車石山寺駅付近)



瀬田川の川べりにて。左手の山(伽藍山)の麓に、京阪電車の石山寺駅と石仏がある。


水色の高架橋に隠れてしまって見えにくいが、その奥のクリーム色の橋桁が瀬田の唐橋だ。
川べりの遊歩道を、柳の新緑に見送られて、サイクリングの人が走り過ぎていく。
瀬田川の川べりは遊歩道と公園が続き、散策におすすめだ。私も30分ほどゆっくりして帰った。

写真の伽藍山の西には国分山があって、江戸時代に松尾芭蕉が滞在した「幻住庵」がある。
徒歩だと、京阪電車の石山寺駅から30分ほどで行ける。
芭蕉はちょうど春の時期に、約4ヶ月、幻住庵に滞在している。
そこで次回は、ちょっと足を伸ばして、幻住庵をご紹介したい。

次々回以降、良弁ゆかりの南部(湖南)の寺を、新緑と共に北上しながらご紹介する予定。


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2013年4月21日 (日)

<コアユ、シジミ、ホンモロコ直売とシジミ汁の振る舞い>★堅田漁協主催「湖族の朝市」 ★4/28(日)9時~12時 琵琶湖のほとり、堅田漁業会館にて

 


堅田漁協初の直売イベントのお知らせです。
シジミの味噌汁の振る舞いや、てんぷらの販売、レシピの配布もあります。
琵琶湖の旬のお魚と貝を、ぜひご賞味ください。

日時 2013年4月28日(日) 9時~12時
場所 堅田漁業会館(滋賀県大津市本堅田2丁目13-13)

★直売⇒コアユ、シジミ、ホンモロコ(すべて売り切れ次第終了)
★販売&レシピ配布⇒コアユのしょうゆ煮、小魚のてんぷら
★シジミの味噌汁の振る舞い(無料)

主催・お問い合わせ:堅田漁業協同組合 電話077-572-1411


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日枝の山道2(穴太積の石垣、坂本の里坊、慈眼堂の石仏、日吉東照宮)~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(15)

 


穴太積の石垣(滋賀院門跡)



「穴太衆」は中世に活躍した石工集団で、日本の城の石垣の大半を手掛けたとされる。

江戸城、名古屋城、金沢城、彦根城、安土城、二条城、大阪城、姫路城、竹田城などだ。

穴太(あのう)は大津市坂本近郊にある集落で、穴太出身の石工集団を穴太衆と呼んだ。
彼らは安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍したが、分かっていないことも多い。
穴太には古墳が多いことから、渡来人の技術を受け継いだ集団とも言われている。

比叡山延暦寺と日吉大社の門前町・坂本には、「穴太積」と呼ばれる石垣が数多く残っている。
中でも、滋賀院門跡の石垣は、見事というほかない精緻な美しさがある(写真)。

穴太の技術は粟田家に継承され、現在は建設会社として活躍されている。
粟田建設のHPでは、穴太積の歴史や、現代の穴太の技術を、写真で見ることができる。
http://www.geocities.jp/awata_i/index2.html

坂本の里坊と桜の下の僧侶



日吉大社に向かう参道の両側には里坊が続く。僧侶が桜の下で打ち合わせをしていた。


里坊とは、山寺の僧などが人里に構える住まいをいう。(出典:コトバンク
坂本の里坊は穴太積の石垣を持ち、見事な石塔や石橋が残っているところが多い。

坂本の里坊は、天台座主の常駐の御殿か、山上での修行を終えた老僧に与えられた坊舎だ。
山から流れる渓流、豊富な石材、苔に適した土質と気候、借景の自然という条件も揃っている。
それゆえ、坂本の里坊に美しい庭園がみられるという(『滋賀県の歴史散歩』(山川出版社))。

中世の坂本は琵琶湖に面した水運の町で、北国から京都への交通の要所だった。
もっとも栄えたのは室町時代で、人口は一万数千人あったという。

織田信長の比叡山焼き討ちのとき、門前町の坂本も焼け、衰退していった。
それでも坂本には、延暦寺の里坊が50ほど残っており、美しい町並みがある。

慈眼堂入り口



滋賀院門跡のそばに、慈眼堂(じげんどう)がある。延暦寺を復興した慈眼大師の墓所だ。


話が少し飛ぶが、高島市の鵜川(白鬚神社の近く)に四十八体仏と呼ばれる石仏がある。
実はこの慈眼堂にそのうちの十三体がある。

慈眼堂の阿弥陀如来石像



慈眼堂の阿弥陀如来石像は、室町時代に作られ、江戸時代に鵜川から移されたという。

鵜川四十八体仏については、「比良の暮雪」の項で、後日ご紹介する予定。

Omiji194



慈眼堂の奥にある石垣(穴太積)の前に、十二体の石仏が等間隔で並んでいる。


案内板がないので少しわかりにくいのだが、十三体目は別の場所にある。
せっかく来たのに、十三体目に出会えなくて帰った人もあるらしい。とても残念な話だ。

慈眼堂の阿弥陀如来石像(十三体目の石仏)



十三体目の石仏は、石垣の脇の小さな階段を上がった墓所に隠れている(写真)。


石仏の背後には車道が走っていて、比叡山ケーブル坂本駅の乗り場のすぐ南側になる。
この石仏のある場所からは、小道を抜けて安全に車道に出ることができる。
車道に出て急な坂道を少し登ると、目の前に見えるのが、日吉東照宮の鳥居である。

日吉東照宮の鳥居



日吉東照宮というと、見るのは↑こういう写真か、写真がないかのどちらかが多い。


その理由は・・・

日吉東照宮の石段



傾斜が半端ではないのだ。急斜面に立つ上、石段の数も段差も半端ではない。


実はこの先もまだ石段があって、登りきったと思ったらまた石段。ここは比叡山の麓だった。
この機会に上まで行くことに決めて、一段一段登っていった。

後から知ったのだが、この階段を迂回するルートがある。
比叡山高校のグラウンドが近くにあり、運動部のマネージャーらしい生徒さんに会ったからだ。
彼女はアスファルトで舗装された道を登ってきて、こんにちはと挨拶してくれた。
坂本ケーブル乗り場の方から入ってこれる道があるとのこと。行かれる方はご参考に。

日吉東照宮の透塀唐門と桜の花



山王祭の日、静かな境内で迎えてくれたのは、朱色の透塀唐門と、淡い桜の花だった。


日吉東照宮は、その名のとおり、徳川家康を大権現として祀る社殿である。
天海僧正(※)が建てた東照宮のうちの1つで、江戸時代前期に完成したといわれる。
明治以降は、日吉大社の末社となっている。

※徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した僧侶。
諡号は慈眼大師。先ほどご紹介した慈眼堂が、天海の墓所である。
家康を祀った日吉東照宮の麓に、天海僧正は眠っていることになる。

日吉東照宮の唐門(左上)

日吉東照宮の唐門(中央上)

日吉東照宮の唐門(右上)



↑唐門(重要文化財)。豪華絢爛な装飾で、息を呑む素晴らしさ。彫刻も見事だ。


日吉東照宮社殿



↑社殿前方(写真左)が拝殿、後方が本殿。2つの建物をつなぐ構造(権現造)である。


日吉東照宮本殿-1



↑本殿(重要文化財)。赤がとても印象的に使われている。


日吉東照宮本殿-2



↑こちらも本殿。総黒漆塗り・極彩色の豪華な社殿だ。


日吉東照宮拝殿



↑拝殿(重要文化財)。総黒漆塗りで、黒の使い方がとても効いている。


日吉東照宮の極彩色を見て、朝鮮王朝の昌徳宮や寺院に見られる彩色と似ていると思った。
だが、この黒の効かせ方は、向こうでは見たことがない。

『滋賀県の歴史散歩』によれば、日吉東照宮は日光東照宮の一年前に完成している。
そのため、日光造営の大工棟梁(甲良宗広)が腕を磨いた試作品だったという説もある。

日吉東照宮は、日光ほど知られておらず、昌徳宮や仏国寺のような世界遺産でもない。
だが、国宝や世界遺産に引けをとらないと感じさせる、素晴らしい拝殿だと感じた。

眼下に広がる琵琶湖(日吉東照宮の境内から)



日吉東照宮の境内からは、眼下に琵琶湖がよく見える。(2013年4月13日撮影)

ここまで登ってくるのは大変だったが、来て良かった。素晴らしい建築に出会えた。

※内部拝観は日祝限定。境内自由。詳細は⇒http://hiyoshitaisha.jp/toushougu/


堅田漁協の朝市のお知らせをはさんで、「紫香楽の宮1(瀬田川と石山寺)」へ続きます。



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2013年4月18日 (木)

日枝の山道1(日吉大社と山王祭)~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(14)

 


山王祭・花渡り式-1



山王祭は、「山王さん」の総本宮、日吉大社で毎年4月12日~15日に行なわれる神事だ。


男女の神様が結婚して、子どもが産まれるというストーリーで、山王祭は行なわれる。
期間が長い上、神事がたくさんあるので、今回は「花渡り式」を撮影することにした。
花渡り式は神事の合間に行なわれる華やかな行列で、13日の午後1時から行なわれる。

山王祭・花渡り式-2



花渡り式は、御子神のご出産を祝うための行列と伝えられている。
武者姿の稚児たちが、造花で彩られた大指物を引いて参道を練り歩く。


稚児役の子供さんのお父さんが、正装して隣を歩く。その周りを若衆がついていく。
何組もの稚児と大指物が、互いの距離をあけながら、ゆっくりと参道を登っていく。

山王祭・花渡り式-3



満開の桜と、花渡り式の造花。華やかで見ていて楽しい。


日吉大社参道の鳥居と常夜灯、満開の枝垂桜



日吉大社参道の鳥居と常夜灯。花渡り式を見る人達。満開の枝垂桜が優しい色を添える。


山王祭・花渡り式-4



行列は、参道の最初と最後で、神体山(八王子山)に一礼して進む。


日吉(ひよし)大社は、比叡山延暦寺の門前町・坂本にあって、延暦寺を守る位置づけにある。
神体山である八王子山には、比叡山の神が降臨するとされる。

日吉大社の守る延暦寺もまた近江(滋賀)の地にあって、京の都を守護する位置づけにある。
「近江は日本の楽屋裏」と白洲さんが書いた言葉を思い出す。

日吉大社境内、奥宮への登り口



日吉大社境内から神体山に登ることができる。山頂には奥宮(牛尾宮・三宮宮)がある。


ここ(東本宮そば)から奥宮までの距離は850m、高低差は180mあって、歩くと30分かかる。
12日夜の「午(うま)の神事」では、この坂を二基の神輿が勢いよく駆け下りる。
このとき二基の神輿には、牛尾宮と三宮宮の神様が乗っている。
牛尾宮に祀られている大山咋神(おおやまぐいのかみ)、三宮宮の鴨玉依姫神である。
山王祭の「午の神事」は、この男女の神様が結婚するストーリーだ。

日吉大社拝殿に置かれた三社の神輿(4月13日のみ)



拝殿(国宝)には、この日だけ三社の神輿が渡る。

日吉大社には七社の神輿があって、どれも重要文化財になっている。金銅装の見事な神輿だ。

ほかの四社の神輿は、13日夜に宵宮場で「宵宮落とし神事」を行なう。
四社の神輿を激しくゆさぶり、鴨玉依姫神の陣痛の苦しみを表すといわれる。若宮の誕生だ。

14日の午後には、七社の神輿が参道をくだり、台船に載せられて琵琶湖の上を巡行する。
唐崎神社沖で粟津の御供献上祭を行い、神輿は再び陸に上げられて坂本の町に戻る。

15日には祭礼が無事終了した事を感謝する「酉(とり)の神事」等が行なわれ、山王祭は終わる。

日吉大社の山王鳥居



山王の「山」という文字を表した山王鳥居(重要文化財)。西本宮の参道を登った先にある。


山王鳥居の特徴は、明神鳥居の上部に三角形の破風(屋根)が乗った形にある。
独特の鳥居で、仏教の胎臓界・金剛界と神道の合一を表しているとされる。

日吉大社東本宮本殿



東本宮本殿(国宝)。44年ぶりに修復工事が完了し、2013年3月24日に一般公開された。


東本宮本殿は1595年(安土桃山時代)の建立で、大山咋神が祀られている。
「日吉(ひえ)造り」と呼ばれる独特の様式で、屋根の前部と左右にひさしを伸ばす。

日吉大社東本宮拝殿から見た楼門と樹下神社



東本宮拝殿から、楼門(写真中央)と樹下神社(写真右)を見た風景。

樹下神社には、鴨玉依姫神(大山咋神の妻である神様)が祀られている。

亀井霊水



樹下神社のそばにあるのが「亀井霊水」。


亀井霊水説明



「「亀井」と名づける神泉があって、そこから流れ出る水がめぐりめぐって大宮川に合し、末は
畑をうるおして行くさまは、さながら古代信仰の絵文様を見る思いがする。」(近江山河抄)


自然の風景の中に神を見出し、祀る。それが素朴な形で信仰として存在している。
日吉大社の末社には竈の神様を祀ったものもあって、その世界観が伝わってくる。
美しい自然の中にある坂本という町自体が、ひとつの大きな舞台装置なのかもしれない。

日吉大社宇佐宮本殿へ続く参道



宇佐宮本殿(重要文化財)へ続く参道。朱色の常夜灯と新緑の黄緑が、目に鮮やかだ。


花渡り式を終えた参加者が日吉大社の鳥居をくぐり帰っていく



花渡り式を終えた参加者が、造花を手に、鳥居をくぐり帰っていく。桜が満開だった。


日吉大社の鳥居のそばにある石仏



日吉大社の鳥居のそばにある石仏。背後の階段(常夜灯脇)は比叡山横川に通じている。


坂本の里はひとつひとつの風景に細やかさがあって、何度歩いても心に染みてくるものがある。
日吉大社周辺には素晴らしい場所がたくさんあるが、次回は隠れた名所をご紹介したい。
比叡山を含めた坂本周辺は、季節を変えて、何回かに分けてご紹介できればと思う。


日枝の山道2(慈眼堂の石仏と日吉東照宮)へ続きます。


 

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2013年4月15日 (月)

逢坂越7(小関越と堅田源兵衛の伝承)~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(13)

 


桜の名所、長等公園



桜の名所、長等公園。春はハイカーや家族連れがたくさん訪れる。小関越道標にも近い。

(2013年4月4日撮影)

北国街道(西近江路)から分かれて藤尾で東海道に合流する約5kmの道が、小関越である。
かつては東海道の間道として利用されてきた。芭蕉が初めて大津に入ったときの道でもある。

長等神社と長等公園を結ぶ車道の途中に、小関越道標の案内板がある。
長等公園から小関越道標前に出る脇道もあるが、一般的ではないかもしれない。

長等公園へのアクセスは、以下の2ルートになる。
1.三井寺駅→(徒歩10分)→三井寺総門前→(5分)→長等神社→(5分)→長等公園
2.上栄町駅→(徒歩10分)→長等公園(→三井寺)

白洲さんは2のルートで、関蝉丸神社(上栄町)から長等公園を経て三井寺を訪ねたらしい。
今回歩いたのは1のルートで、
琵琶湖疏水の桜
を眺めながら、まず三井寺へ向かった(前回)。

長等公園はかつて三井寺の境内だったというし、長等神社は三井寺を守護する神社である。
この一帯は、歴史的にも一続きのものと考えて差し支えないと思う。

小関越道標



江戸時代中頃に建てられた小関越道標(写真右)。「右小関越 三条五条いまくま 京道」

他の面には「左り三井寺 是より半丁」「右三井寺」と刻まれている。

三井寺観音堂は、西国三十三所観音巡礼の第十四番札所である。
刻銘の「いまくま」は、第十五番札所の京都今熊野観音寺をさす。
巡礼道としても使われていた道だったことが分かる。

小関越(大津市小関町から山科方面を望む)



大津市小関町から山科方面を望む。この先はハイキングの装備と同伴者が必要。

そこで今回は、観光として気軽に行ける小関越の入り口(大津側)をご紹介してみようと思う。

小関越の入り口で出会った石仏その1



小関越の入り口で出会った石仏。等正寺の少し先の墓地の前にあって、壮観である。


小関越の入り口で出会った石仏その2



享保十五の文字が見える。(手前の石仏は新しいが)古い石仏は江戸時代のものらしい。


小関越の入り口で出会った石仏その3



古い石仏が無数に置かれている。奥のお地蔵さん(お堂の中)は最近のもののようだ。


小関越の入り口で出会った石仏その4


小関越の入り口で出会った石仏その5



峠道は藤尾に続いており、藤尾川に沿って出ると、白州さんも訪ねた寂光寺がある。


寂光寺には素晴らしい摩崖仏があり、仏が刻まれた岩の一部をお堂の中に入れているという。
拝観には予約が必要なので、撮影の機会を得て、後日ご紹介したい。

寂光寺から100mほど行くと琵琶湖疏水に出る。疏水沿いに歩き、陸橋を渡ると四宮である。
四宮駅(京阪山科の一つ手前)はすぐ。疏水の先の公園を行き、JR山科駅まで行くことも可能。

シハイスミレ



「山路来て 何やらゆかし すみれ草」(松尾芭蕉・野ざらし紀行より)


この句は小関越で詠まれたものと言われている。
当時芭蕉が見たスミレは、シハイスミレ(写真)のようなスミレだったらしい。
小関越の大津側は自然が残っていて、往時を感じさせてくれる。

かたたげんべえくびのてら(両願寺)



話は長等神社の手前に戻る。突然「かたたげんべえくびのてら」という文字を目にした。

後ろに見えているのが長等神社の鳥居である。

三井寺町の両願寺



場所は、三井寺町の「両願寺」というお寺の前だった。なぜ、ここに?


かた田源兵衛(両願寺)



ここにも「かた田源兵衛」の文字。こちらも両願寺の境内だった。謎は深まる。


かたたげんべえくび(等正寺)



小関越道標の隣にあった「かたたげんべえくび」という道標。こちらは「等正寺」のもの。


殉教者の堅田源兵衛については、当サイト(Katata/堅田)でも何度か掲載したことがある。

浄土真宗中興の祖である蓮如は、比叡山延暦寺から迫害を受け、大津に滞在した時期がある。
その間、蓮如は数年堅田に滞在し、堅田は町を挙げて延暦寺と戦って負けている(堅田大責)。
比叡山に近い堅田の地を諦めた蓮如は越前に向かい、宗祖親鸞の木像を三井寺に預けた。

その後京都に戻った蓮如は、人の首を二つ差し出すなら木像を返そうと三井寺から言われる。
それを聞いた堅田の漁師源兵衛は、父親を説得して、自分の首をはねてもらう。
源兵衛の父親は、息子の首を三井寺に持って行き、自分の首もはねてくれと言った。

驚いた三井寺は親鸞の木像を返し、蓮如は「真宗復興の祖は源兵衛である」と涙したという。
その後源兵衛の父親は巡礼の旅に出て、旅先の広島県福山市で亡くなっている。
源兵衛の首は本堅田の光徳寺に祀られた。(というのが、光徳寺に伝わる話である。)

実は2011年の3月に、光徳寺のご住職から源兵衛さんの首を見せていただいた。
どくろ、それも小さな部類に入ると思われる、愛らしいものだった。

小関町の等正寺



小関町の等正寺。この寺にも源兵衛の首が祀られているという。


『滋賀県の歴史散歩』(山川出版社)を見ると等正寺だけ載っていて、光徳寺と同じ伝承だった。


堅田源兵衛の首(等正寺)
によれば、3つの寺に堅田源兵衛の首の伝承がある。
3つの寺とは、本堅田の光徳寺、小関町の等正寺、三井寺町の両願寺。
「同じ人間の首がなぜ3つもあるのかは謎である(両願寺は現在非公開) 」とのことだった。

源兵衛さんの話は、堅田以外にも、三井寺のそばに2箇所あったということになる。
ここで堅田に出会えたのが驚きであり、大きな収穫だった。
こんな風に埋もれている話に光を当てて、きちんと残しておきたいと思ってきたからだ。
もうしばらく、春を追いかけながら、近江山河抄の舞台を撮影していく予定です。


日枝の山道1(日吉大社と山王祭)へ続きます。



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2013年4月10日 (水)

逢坂越6(三井寺)~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(12)

 


閼伽井屋(三井の霊泉)



三井寺の名は、天智・天武・持統天皇の産湯に使われた霊泉「御井(みい)」に由来する。


閼伽井屋(あかいや)は、霊泉を護る幅屋で、金堂の脇にある。
中をのぞくと、薄暗い中に、ごぼっ、ごぼっと泉が沸く音がした。

三井寺金堂と閼伽井屋



金堂と閼伽井屋(右)。金堂は1599年(桃山時代)、閼伽井屋は1600年の建築。


堂前灯籠(三井寺金堂)



天智天皇ゆかりの堂前灯籠が、金堂の前にあった。


大化の改新で蘇我氏を滅ぼした天智天皇が、罪滅ぼしのために設置した灯籠だという。
意識してみれば、三井寺と天智天皇のつながりは深い。

三井寺は、天智天皇の孫にあたる与多王が大友皇子の菩提寺として建立した寺である。
与多王の父が壬申の乱で亡くなった大友皇子であることは、前回書いた。
正式名は園城寺で、与多王が田園城邑を投じ天武天皇が「園城」と名づけたことによる。

三井寺金堂と桜



三井寺金堂(本堂、国宝)。本尊は天智天皇が信仰していた弥勒仏で、秘仏である。


建築は、豊臣秀吉の妻・北政所により1599年に再建されたものだという。
三井寺は、比叡山延暦寺との抗争で再三火事にあい、消失している。
そのたびに豊臣氏や徳川氏によって再興され、今日に至っている。

三井寺境内の石仏



境内でみかけた石仏。こちらも古いもののようだ。


三井の晩鐘



近江八景「三井の晩鐘」で知られる梵鐘。鐘の音は日本三銘鐘のひとつに数えられる。

除夜の鐘以外の普段のときでも、お寺の人に申し出れば、鐘をつくことが出来る(有料)。

弁慶の引摺り鐘



こちらはまた別の梵鐘で、奈良時代のもの。弁慶の引摺り鐘と呼ばれる。


三上山のムカデを退治した俵藤太が、竜宮城から礼にもらった鐘を寄進したという伝承がある。
その後、比叡山延暦寺との争いのとき、弁慶が奪って比叡山に引摺り持ち帰ったという。
鐘を撞くと「イノーイノー」(帰りたい)と響いたので、怒った弁慶は鐘を谷底に捨てたと伝わる。

一切経蔵



仏教の経典の版木を収めた、八角形の回転書架。一切経蔵という建物の内部にある。


建物は室町時代初期の建築で、1602年に毛利輝元により山口県の国清寺から移築された。
版木は高麗版の一切経(大蔵経)だという。

それを聞いて思い出したのは海印寺大蔵経板殿のことだった。
海印寺にも同じ時代の版木が収められた建物があって、そちらは世界遺産になっている。
これだけの版木を作った昔の人の集中力に、ただただ圧倒された。

毘沙門堂(三井寺)



毘沙門堂。1616年の建築で、極彩色の彩色が美しい。

園城寺五別所のひとつだった尾蔵寺の境内南勝坊にあったのを、1909年に移したという。

毘沙門堂の脇の長い石段を登れば、西国十四番札所観音堂がある。
白州さんは雨の日にひとり境内を歩いて、観音堂を探して反対側へ行ってしまったらしい。

「それは長い道のりだった。」と書いておられるが、確かに三井寺は広い。
仁王門から入って、最後に観音堂へ行くコースが一番分かりやすいかもしれない。
(ただし、私は撮影の関係で逆遍路のように歩いています。)

西国十四番札所観音堂(三井寺)



観音堂(1689年再建)。西国三十三所観音霊場の十四番札所である。

琵琶湖を眺めるには、石段を登ってさらに上にあがるのがお勧め。

三井寺境内と琵琶湖の眺め



高台から見た、西国十四番札所の境内と琵琶湖の眺め。

観月舞台(1849年建立)が写っている。
眼下の桜は、三井寺境内の桜と、琵琶湖疏水の桜である。

長等神社



観音堂境内の石段から長等神社の横へ降りることができる。小関越はここへ通じている。


白州さんは分からずに帰ったようで、このあたりで育った者としてはとても残念だ。
確かに絵馬堂の脇の石段は、木々に隠れて分かりにくい。
関蝉丸神社といい、弘文天皇陵や小関越といい、途中に道案内が設置されることを切に願う。

大津絵工房



長等神社の前にある民芸大津絵作房。上側の道が小関越に通じている。

下側の道が、長等公園(桜の名所)に通じている。

ちなみに、長等神社の参道を下っていくと、徒歩3分ほどで大津絵の店がある。
大津絵はとてもユーモラスな仏画・民俗絵で、鬼の寒念仏が有名。
私は子どものころから藤娘が好きで、大人の女性=藤娘というイメージがある。

大津絵の店から帰路は、三尾神社と琵琶湖疏水の横を通れば三井寺の駐車場まですぐ。
三井寺界隈へお越しの際は、こちらもぜひお立ち寄り下さい。


逢坂越7(小関越と堅田源兵衛の伝承)へ続きます。



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2013年4月 6日 (土)

大津の京5(壬申の乱と瀬田の唐橋、弘文天皇陵、そして三井寺の桜) ~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(11)

 


瀬田の唐橋



672年、大友皇子は壬申の乱に敗れる。最終決戦の舞台が、瀬田の唐橋だった。


瀬田の唐橋は、琵琶湖から唯一流れ出る川(瀬田川)に架かる橋である。
東から京都に入るときの重要地点で、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われた。

瀬田の唐橋は、近江大津宮遷都の時に本格的に架橋されたと考えられている。
当時は、現在の位置より南の龍王社・雲住寺を東端としていたらしい。
(参考:ウィキペディア「壬申の乱」「瀬田の唐橋」)

雲住寺といえば、俵藤太のムカデ退治伝説に縁のある寺で、イベントで伺ったことがある。
ご住職の奥様が見せてくれたのが、瀬田川を真っ赤に染める夕日と唐橋の写真だった。
今回、壬申の乱のことを書きながら、真っ赤な夕日の写真を思い出していた。

瀬田橋の戦いで大敗した翌日、25歳の大友皇子は自決し、壬申の乱は終わる。
近江大津宮は5年余りで滅亡し、都は再び飛鳥(奈良)に移された。

1870年(明治3)になって、大友皇子は天皇として認められ、弘文天皇と追号された。
死地とされた長等山麓の塚が、弘文天皇陵となっている。

弘文天皇陵道標



駅から弘文天皇陵への道中には道案内が殆どない。道標になるものを掲載します。


京阪電車の別所駅を下りて、横断歩道を渡って右へ進む。
市役所の建物に沿って歩くと、左手に道標(↑写真)があるので、左折して坂道を登る。

弘文天皇陵の案内板



弘文天皇陵の案内板。崇福寺跡(前回)とさほど離れていないのがおわかり頂けると思う。

↑この案内板のある場所から、左へ進む。

新羅善神堂へ続く道



すぐに道が分かれるが、↑この道は回り道なのでご注意を。

新羅善神堂へ続く道だが、新羅善神堂を経由して天皇陵の前に出ることは可能。

弘文天皇陵へ続く道



↑こちらの道を行くと、左手すぐに弘文天皇陵がある。ちょうど市役所の裏になる。


弘文天皇陵へ続く道端の石仏



思いがけず、道端で出会った石仏。実は、前の写真の右にも小さく写っている。

近江を歩くと、思いのほか石仏が多いことを実感する。

弘文天皇長等山前陵



弘文天皇長等山前陵(大津市御陵町)。


先代の天智天皇の死から壬申の乱まで、その治世は約半年と短かかった。

鞍掛神社のところで書いたが、大友皇子(弘文天皇)が最期を迎えた場所は分かっていない。
大津市内だけでも4ヶ所の伝承があるという。

日本で始めて「五言の詩」を作ったことから、学問の神として崇敬されてきた人物である。
その若すぎる死を悼んだ人が、たくさんいたということだろう。

弘文天皇長等山前陵の入り口



弘文天皇長等山前陵の入り口。

このすぐ後ろに、道を挟んで建っているものに、本当に驚いた。

新羅善神堂の大鳥居



大きい。かなり大きな鳥居である。


新羅善神堂付近の森



しかも、辺り一帯には神秘的な森が広がっている。


新羅善神堂



石垣の向こうにあったのは、新羅善神堂(国宝)だった。


新羅善神堂は、三井寺の鎮守神である新羅明神を祀る。

新羅明神は、唐に留学した円珍(智招大師)が帰国する際、船中に現れた神とされる。
円珍が請来した経典法具を三井寺に保管したのも、新羅明神の夢告によるとされている。

天智天皇の命で三井寺の原形を造ったのが、渡来人の子孫である大友氏だった。
大友氏は、大津宮周辺の氏族で、大友皇子の有力な支援者だったと考えられている。

白州さんは、近江における古代の神と渡来人の影響について繰り返し指摘されている。
新羅明神像についても、次のように述べている。
「異国風な感じのする珍しい神像で、帰化人が奉じた神であったことは疑えない。」

新羅善神堂のすぐそばに、弘文天皇陵があるというのは、偶然の一致だろうか。

新羅善神堂付近の森(東海自然歩道標識)



新羅善神堂の場所は、三井寺から北へ500mほどしか離れていない。


長等山(三井寺)から見た弘文天皇陵の方向(満開の桜とともに)



長等山(三井寺)から見た、弘文天皇陵の方向。(2013年4月4日撮影)

ちょうどこの日、桜が満開になった。(以下すべて同日撮影)

長等山から見た三井寺と春の琵琶湖



視線を東のほうにやると、三井寺の境内があって、向こうに、琵琶湖が見える。


「逢坂山を越えて来て望む湖水は、心がのびる思いがする。」と白洲さんは書いている。
『近江山河抄』は1974年出版の紀行文だが、そのときの風景に少しでも近づけただろうか。

唐院へ続く道、満開の桜と石灯籠(三井寺)



三井寺といえば、桜の名所。大友皇子の子である与多王が建立した寺でもある。


正式名は園城寺で、与多王が自らの荘園を投じ、天武天皇が「園城」と名づけたことによる。
大友皇子の遺族が天武天皇に願い出て菩提を弔うために建立した寺、それが三井寺である。

三井寺の三重塔と桜



三井寺の三重塔。桜の花と新緑がまぶしい。



逢坂越6(三井寺)へ続きます。


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2013年4月 4日 (木)

大津の京4(志賀の大仏と百穴古墳群) ~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(10)

 


木漏れ日(崇福寺跡に続く山道にて)



山中越(志賀越)は、京都と近江を結ぶ古くからのルートのひとつである。

滋賀里から崇福寺跡・志賀峠を通り、山中町を経て北白川、京都へと通じている。

この一帯は比叡山延暦寺に近く、東海自然歩道になっている。
崇福寺跡に続く山道の入口に、山中越(志賀越)の道中安全を見守る道祖神がある。

志賀の大仏



とても優しいお顔の仏さまは、「志賀の大仏(おぼとけ)」と呼ばれる阿弥陀如来座像。

13世紀頃(室町時代)に作られた、高さ約3mの石仏である。

地元の方がよくお参りされているようで、お堂はいつも清潔で心地よい。
お正月に撮影した写真なので、鏡餅のお供えが一緒に写っている。

志賀の大仏(お顔)



「おぼとけは、大仏だろうが、「おとぼけさん」といいたくなるような表情で、近江を歩いていると、
時々このようなものに出会えるのがたのしい。ふっくらとした彫りが美しく、おつむの後ろに
雑草が生えているのも、場所がら在がたい心地がする。」(白洲正子『近江山河抄』より)


百穴古墳群と石仏



志賀の大仏の少し手前、竹林の中にあるのが、百穴古墳群(ひゃっけつ こふんぐん)。

写真の左上に写っている三角屋根の石、これが古墳である。

百穴古墳群



「百穴」という名前は、石室の入り口が穴のように沢山見えていることから、名づけられた。

このような古墳が一面に広がり、薄暗い竹林と相まって、壮観な風景を見ることができる。

百穴古墳群(案内板)



石室の天井がドーム状なのが、百穴古墳群の特徴だ。渡来人と深く関係しているという。


百穴古墳群(玄室)



百穴古墳群の玄室。玄室とは死んだ人を納める場所のこと。


百穴古墳群(案内板より、古墳のしくみ)



古墳のしくみ(案内板より)。奥が玄室である。


滋賀里の高台から見た琵琶湖と三上山



百穴古墳群・志賀の大仏からの帰り道、滋賀里の高台から見た琵琶湖と三上山。


あいにく曇り空だったが、電信柱の陰に見えているのが三上山(近江富士)。
湖西から見る三上山は、いつもこんな風に、琵琶湖の向こうにひょっこりと顔を出す。

滋賀里は歴史を感じさせる美しい町で、ふもとの志賀八幡神社も趣がある。
以前、滋賀里をご紹介した記事がGoogle Mapsに掲載されているので、こちらからどうぞ。
志賀八幡神社(Google Maps)


大津の京5(壬申の乱と瀬田の唐橋、弘文天皇陵)へ続きます。


 

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大津の京3(近江大津宮跡と崇福寺跡) ~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(9)

 


旧錦織村の六地蔵



琵琶湖を望む高台を歩くと旧錦織村の六地蔵があった。錦織は近江大津宮があった地だ。


667年、中大兄皇子は都を大津へ移し、その翌年、即位して天智天皇となった。
その後天武天皇が飛鳥浄御原宮を造営したため、大津宮は5年余りしか使われなかった。

近江大津宮の場所をめぐっては、長年論争があったという。

1974年、錦織(にしこおり)遺跡の調査で、第一地点から内裏南門跡が発見される。
錦織遺跡は近江大津宮跡とされ、1979年に国の史跡に指定された。

往時をしのぶものがあればと思って歩き回ったが、住宅街で、古いものには出会わない。
古墳があるというので探してみたが、工事現場のダンプカーがひっきりなしに来る。
結局引き返したが、唯一出会えたのが旧錦織村の六地蔵だった。

史跡近江大津宮錦織遺跡(第八地点にある案内板)



錦織遺跡第八地点は、京阪石山坂本線「近江神宮前」駅すぐそばの住宅街の一角にある。

(※踏切を渡らず、踏切とは逆方向に向かって下さい。車道に突き当たる手前にあります。)

錦織遺跡の西側を南北に走る道路が、後世に西近江路と呼ばれた交通路である。
西近江路は近江から越前へ通じる街道で、古来より都と北陸を結ぶ道として栄えた。

前回の鞍掛神社(衣川)は西近江路の街道筋にあるし、比良の暮雪も西近江路の風景だ。
なんと言っても
西近江路
には、これからご紹介する予定の文化財が多い。

史跡近江大津宮錦織遺跡(第八地点)



「近江大津宮錦織遺跡」第八地点。発掘調査はまだ行われていないという。


西近江路を北上すると、滋賀里、坂本、そして堅田へと続く。
滋賀里には、大津宮と同時代に栄え、大津宮滅亡後も栄えた「崇福寺」の跡が残る。
崇福寺跡は、大津宮のあった時代を彷彿させる数少ない場所でもある。

近江神宮前(錦織の最寄り駅)と滋賀里は、京阪電車で3分。
滋賀里駅から徒歩15分で、志賀峠の入り口に着く。
峠の手前には「百穴古墳群」があり、「志賀の大仏(おぼとけ)」もあるが、こちらは次回。

志賀峠の入り口には小さな石仏



志賀峠の入り口には小さな石仏があり、一面に竹林が広がる。


山中越(志賀越)は、京都と近江を結ぶ古くからのルートのひとつである。
滋賀里から崇福寺跡・志賀峠を通り、山中町を経て北白川、京都へと通じている。

崇福寺跡へ続く山道



崇福寺跡へ続く山道。この一帯は比叡山延暦寺に近く、東海自然歩道になっている。


三井寺~弘文天皇陵~近江神宮~崇福寺跡~比叡山(東海自然歩道案内板)



三井寺(逢坂越の傍)~弘文天皇陵(市役所裏)~近江神宮(錦織)~崇福寺跡~比叡山。


この略図(東海自然歩道案内板)を見れば、大津という町が分かっていただけると思う。
三井寺(園城寺)-比叡山(延暦寺)は、いわば大津の縦糸のようなものである。
私はこのエリアで育ったので、そのことが感覚的として分かる。

崇福寺跡



崇福寺は、668年に天智天皇の命により近江大津宮の北西の山中に建立された。


崇福寺跡(案内板)



延暦年間に十大寺(当時のベストテン)に選ばれるなど栄えたが、室町時代には廃寺となる。
三井寺(園城寺)と比叡山(延暦寺)との抗争に巻き込まれたという。


崇福寺跡(小金堂跡案内板)



崇福寺跡は三つのエリアに分かれている。そのひとつが、小金堂跡(図面の左側)。


崇福寺跡(小金堂跡)



小金堂跡。礎石が残っているので、上の図面(左側)と比較して頂きたい。


崇福寺跡(小金堂跡)に落ちていた瓦



小金堂跡に落ちていた瓦。無数に落ちていた。いつの時代のものかは不明。


崇福寺跡(塔跡案内板・舎利容器の解説)



小金堂跡の隣にある「塔跡」から、美しい瑠璃壺の入った舎利容器が見つかっている。


木漏れ日(崇福寺跡に続く山道にて)



万葉集には、柿本人麻呂が滅亡後の近江大津宮へ訪れて往事を偲んだ歌が残されている。


「ささなみの 志賀の大曲 淀むとも 昔の人に またも逢はめやも」
「淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのに古思ほゆ」

人麻呂が見たのは、いったいどんな景色だったのだろうか。
崇福寺跡に続く道の木立から差し込む光は、とても穏やかで、ゆったりと時間が流れていた。


大津の京4(志賀の大仏と百穴古墳群)へ続きます。



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2013年4月 2日 (火)

大津の京2(天智天皇山科陵) ~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(8)

 


天智天皇山科陵参道



天智天皇の山科陵。木々に囲まれた長い参道が続く。


その名の通り、天智天皇山科陵は京都の山科区にある。
『近江山河抄』の中では、近江(滋賀)以外の地が登場する、数少ない場面である。

白洲さんは天智天皇陵について次のように書いている。
「御陵は山科から逢坂山へ向う東海道の道ばたにある。入口は埃っぽいが、
参道に入ると、老樹の並木がつづき、さすがに奥深い感じがする。」

ちなみに、天智天皇陵周辺を撮影した写真は↓こちら。

天智天皇山科陵周辺(JR貨物が走る風景)



目の前の高架を、JRの貨物列車が走っていく。傍らには幹線道路。

線路(高架)の右方向が京都方面で、左が山科方面になる。

以前、JRの車窓から見える立派な参道が気になって調べたら、この天智天皇陵だった。
天智天皇陵の最寄り駅は「御陵」(みささぎ)といい、付近の地名は御陵○○町となっている。
京都市営地下鉄(京阪電車乗り入れ)の御陵駅から、緩やかな坂道を下ること徒歩10分。

天智天皇山科陵入り口



こちらが天智天皇山科陵の入り口。松の木が見事だ。


歴代の天皇陵は京都の伏見区に多く、天智天皇陵だけが山科にあるという。
そのため、天智天皇の亡くなった状況について、いろんな考え方や解釈があるようだ。
歴史の話は、何に光を当てるかで違ってくる難しさがあるが、時代を振り返ってみたい。

天智天皇山科陵(宮内庁掲示)



中大兄皇子(後の天智天皇)は、645年大化の改新を行い、667年大津宮に都を移した。


当時、蘇我氏が絶大な力をもっていた。蘇我氏は聖徳太子の子を襲い一族を滅亡させている。
中大兄皇子は、中臣鎌足らと謀り、皇極天皇の前で蘇我入鹿を暗殺するクーデターを起こす。
入鹿の父・蘇我蝦夷は翌日自害した。更にその翌日、皇極天皇の弟を即位させる(孝徳天皇)。
中大兄皇子は皇太子となって様々な改革(大化の改新)を行なった。(参考:ウィキペディア)

663年の白村江の戦いで大敗を喫し、対外的にも憂慮を抱えていた中大兄皇子。
体制を立て直すため、豪族の勢力の強い飛鳥(奈良)から大津を都に移したと言われる。

天智天皇山科陵参道を行く



遷都の翌年(668年)、中大兄皇子は即位して天智天皇となる。


『近江山河抄』によれば、大津宮の辺りには大友氏、錦織氏など帰化人の氏族が住んでいた。
天智天皇は大友氏などを頼りに新しい国づくりを試みたのではないかと、白州さんは指摘する。

天智天皇の息子・大友皇子は、母親が伊賀氏であることから、初めは伊賀皇子と呼ばれていた。
大友皇子と呼ばれるようになったのは、大友氏が主な支持勢力だったためと推察されている。

天智天皇山科陵参道と門



参道の先に門があって、さらに奥へ続いている。ここまで来る人は殆どいない。

この手前までは憩いの場になっていて、散歩やジョギング、リハビリをしている人に会った。

天智天皇山科陵参道(石畳)



見事な石畳の参道が続いている。右手の奥に天皇陵が見えている。


雨の日は滑りやすいので気をつけて下さいという、宮内庁の看板があった。
石畳の間に隙間があるので、参拝される方は足元をしっかりしていくことをお勧めします。

天智天皇山科陵参道の林



弟である大海人皇子と、息子の大友皇子の関係に、天智天皇は最後まで悩んだという。


即位の約1ヵ月半後に、天智天皇は大海人皇子(後の天武天皇)を皇太弟とした。
しかし、671年になると、大友皇子(後の弘文天皇)を史上初の太政大臣としている。
その年のうちに大海人皇子が皇太弟を辞退すると、代わりに大友皇子を皇太子とした。

672年に天智天皇が没すると、大友皇子と大海人皇子の間に壬申の乱が起きる。

645年に皇太子、661年に称制(事実上の天皇)となり、668年即位、672年崩御。時に46歳。
皇太子から称制までの間に、実に20年近い間があり、歴史上の大きな謎とされている。
時代の変革期に、内外に憂慮を抱えての激動の一生だった。

天智天皇山科陵と広場



御陵の前は、清らかな広場になっており、上円下方の珍しい様式で、背後の山を鏡山という。

山科陵の印象を白洲さんはそう記す。そして近江の鏡山とは関係がないとも書いている。
古来より「鏡」は、多くの場合、墳墓の地を示す名称だったという。

天智天皇山科陵



天智天皇山科陵


実は同じ日の午前中、弘文天皇(大友皇子)の長等山陵にも行っていた。
弘文天皇陵のほうは、大津市の御陵町(ごりょうちょう)にある。
この2つの御陵、一日で一緒に回れるので、最後にメモでご紹介したい。

※この連載の「大津の京」2以降と、「逢坂越」1~5は、2013年3月の同日に撮影しています。
※弘文天皇陵については、「大津の京5」でご紹介する予定です。

天智天皇山科陵前の日時計



山科陵前の日時計。天智天皇が日本で初めて水時計(漏刻)を設置したことに因む。

天智天皇を祀る近江神宮にも、日時計が設置されていたことを思い出す。

天智天皇山科陵参道の道標



天智天皇山科陵の道標。御陵駅一番出口を出て、山科陵へ向かう途中にある。

御陵駅を出てからの目印がほとんど見当たらなかったので、ご参考になれば幸いです。


大津の京3(近江大津宮跡と崇福寺跡)へ続きます。


大津一日観光メモ


 

続きを読む "大津の京2(天智天皇山科陵) ~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(8)" »

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