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2009年10月16日 (金)

宮ノ切と堅田陣屋 ~Honkatata/本堅田 115(2)

宮ノ切の地蔵堂と石段と柿の木

江戸時代、「宮ノ切」は堅田陣屋(いわゆる堅田城※)の一部となりました。
本堅田1丁目(2丁目との境界付近)には、環濠のなごりが水路としてわずかに残っています。

「きり」とは、室町時代に琵琶湖岸に築かれた石垣のことで、防御塁とされました。
室町時代の堅田には「宮座」が設けられ、「きり」が築かれたのです。

「宮座」とは、室町時代の自治組織で、中世の日本(特に西日本)に現れた、古い氏子の氏神祭祀に関する特権的団体でした。
宮座の構成員である座衆は、封建社会を通じ、村の家柄として村政一般にも権力を振るいました。
堅田の宮座は、地侍である殿原衆によって運営されました。

「宮ノ切」が最初に築かれ、さらに「東ノ切」「西ノ切」「今堅田切」へと発展し、これら4つで堅田が形成されました。

堅田(滋賀県大津市)の写真 本堅田 「宮ノ切」 2008.10.02 15:29

The "Miyano Kiri" was  1 component part of the Katata castle in the 18th century .
Shogunate Government of Edo didn't permit building a castle, so it's correct to call jinya(陣屋).
Even now, the vestiges of the annular waterway  remain in Honkatata 1 chome (around the boundary
with Honkatata 2-chome) slightly as a waterway.In medieval Japan (in the 16th century,especially western part of Japan),
the exclusive organization about the festival-of-the-village-god festival of an old parishioner called Miyaza(宮座) appeared.
The constituent of the household head called Zasyu(座衆) shook power at the general politics of the village as birth of a village
through the feudal society.Miyaza appeared also in medieval Katata. Miyazas in Katata were managed by Tonobarasyu(殿原衆)
which consisted of native samurais in Katata.The stone wall was built to the Lake Biwa shore, and it is "Kiri(きり、切)".
The "Miyano Kiri" was built first, it developed into "Higashino(east) Kiri", "Nishino(west) Kiri", and "Imakatata Kiri",
and Katata was formed in these four.|photograph of Katata,Otsu,Shiga,Japan Honkatata "Miyano Kiri" 2008.10.02 15:29


堅田陣屋(※)と堅田藩

※近江国(滋賀県)では、彦根城、水口城、膳所城以外の築城は許されていなかったので、「陣屋」と言うのが正確。

堅田藩の初代藩主・堀田正高(ほったまさたか)の父は、堀田正俊(まさとし)。
徳川綱吉に仕え、大老を務めた人物である。
貞享元年(1684年)8月28日、正俊は、江戸城中で稲葉正休に暗殺される。

三男だった正高は、父・正俊の遺領のうち下野佐野(栃木県)1万石をもらうが、
元禄11年(1698年)3月7日、所領を近江堅田(滋賀県)に移され、堅田に陣屋を設置する。
これが堅田藩、そして堀田家(佐倉藩堀田家の分家)の始まりである。

藩政の基礎は、第3代藩主・堀田正永(まさなが)の頃までに固められた。

第6代藩主・堀田正敦(まさあつ)は、仙台藩主・伊達宗村の八男。
堅田藩主になった後、若年寄として、松平定信の寛政の改革を助け、
仙台藩主が死去したときは、若い次期藩主の後見役となって、仙台藩の藩政を担った。

このほか、湯島聖堂再建の副奉行をし、『寛政重修諸家譜』(大名・旗本・御家人の家系図の本)の編纂を務め、
鳥類学者として本を遺したり、視察のために蝦夷地(北海道)に足を運んだりもしている。

藩主・正敦の功績で、文化3年(1806年)、堅田藩は3,000石を加増され、1万3,000石になった。
さらに、文政8年(1825年)4月には、堅田藩は「陣屋」から「城主格」に、一段階昇格する。

しかし、文政9年(1826年)10月10日、正敦は(初代堅田藩主・正高の旧領である)下野佐野へ
所領を移されて、堅田藩は廃藩となった。

もっとも、堅田の所領のうち滋賀郡領は、佐野藩の飛び地として幕末期まで受け継がれた。


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